外伝 ウチの姉上が川中島でも軍神すぎてツライ

「ああ、この日が来てしまったか」


 俺の言っている『この日』とは毎年来るもので何ら特別なものではない。

 だが此処上杉家(旧長尾家)にとっては違う意味が有る。

 何の日かというとただ春がやってきて雪解けになっただけである。

 別に特別ではないはずのこの日に姉上は必ず出陣するのだ、ほぼ毎年。

 これは越後の地勢が影響している、雪深いのだ。

 このため毎年峠は雪で閉ざされ、行ける他国と言えば海岸続きの国しかない。

 なので上杉家は基本的に冬動くことができないのだ。

 去年、関東で北条家に地獄を見せた姉上は秋には帰国した。

 その途中、姉上に逆らった上何とかさんは星になった。(注・生きてます)

 彼が篭った武蔵松山城は川を利用したかなりの堅城で苦戦も予想されたが、姉上の到着後2日で陥落した。

 姉上は城門が堅いと見るや裏手に回り城壁を破壊して進むという暴挙に出た。

 結果予期せぬ方向から侵入され落城と相成った。

 今頃城代の太田資正さんは城壁修復に大忙しだろう、あるいは姉上の蹴りの凄まじさに呆然としているかもしれない。

 まあ松山城の城壁修繕に手抜きでもあったのだろう、姉上はそういう僅かな綻びを見つけるのが上手なのだ。

 そして秋は収穫の農繁期であり、兵を一度家に戻さねばならない。

 それが終われば直ぐに冬となり峠は雪で閉ざされる。

 この動けない間に信濃では武田信玄の猛攻と調略で川中島あたりまで押し返されていた。

 甲信も雪が深いはずなのだが、それでも進軍できる理由は街道の整備である。

 武田家本拠地・甲斐国には殆ど城が無く、国境あたりにある若神子城に兵を集めてから行軍する。

 そこから川中島あたりまで大きな街道が造ってある。

 大体姉上の本拠・春日山城から川中島と信玄の本拠・躑躅ヶ崎館から川中島では道のりが倍以上違って、上杉家の方が近い。

 にも関わらず武田軍の方が先に到着しているのだ。

 毎度、街道の有用性を見せ付けられているわけだ。

 そして今回も武田軍は先に川中島に到着していた。

 当初武田信玄は千曲川西岸にある塩崎城に在陣していると見られた。

 そこで姉上はまず川中島付近に陣を敷いたが武田信玄が出てくることはなかった。

 すぐに姉上は塩崎城に信玄は居ないと見切る。

 理由は「首の辺りがチリチリしない」だそうだ、この姉は何かの電波を受信していると思うがどうだろうか。

 そして新たな候補として千曲川南岸にある海津城が浮上する。

 ここが当たりのようで数万の兵が配置されていた。

 それで海津城から信玄が出てくるのを待っているわけだが、待てど暮らせど出てこなかった。

 この判断は間違ってない、堅く篭っていればそのうち姉上も飽きて帰るからだ。

 だが信玄が気付いているかはわからないが姉上は最低でも深志城あたりまでは取り返す気だ。

 奪われたものをそのままにして帰るほどウチの姉上は優しくない。

 この川中島にいても信玄は出て来ない様なので別の案を実行することにした。


「あの妻女山に布陣するわ。準備しなさい」


 姉上が突然妻女山に移動すると発表した。

 妻女山は川中島の南を流れる千曲川の南岸にあり、少し東に行けば海津城がある。

 つまり信玄の目と鼻の先で布陣しようと言っているのだ。

 ただこれに対して誰も反対をしない、というより意見すらしない。

 戦において姉上は誰の意見も聞かない。

 自分で考えたことを皆に実行させているだけだ。

 ウチの軍議なんて名前だけで作戦内容伝達の場でしかない。

 なので俺が言っておくことにした。


「止めて下さい、姉上。完璧な死地です。包囲されて水の手を絶たれたら終りますよ」


「それ、信玄が出て来たということよね。望むところだわ」


 即答で返される。でも確かにその通りだ。

 この姉は野戦最強であり相手が出てきた時点で勝ちが確定する、とんでもないチート姉だ。


「しんげんはやせんにおうじるでしょうか」


「心配は要らないわ。これで出てこないなら南下して深志城に向かいましょう。そうすればイヤでも出てくるでしょ」


 姉上は与六に微笑んで答える。

 どうやら妻女山に布陣しても出てこないようなら、無視して南下するようだ。

 それなら最初から南下した方が早いと俺は思ったが言わずにおいた。

 もうこの姉の好きにさせようと思ったからだ、・・・どうせ聞きはしないし。


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「妻女山に陣を張ったか。安い挑発を」


「如何なさいますか?兄上」


 伝令からの報告を受けた武田信玄に弟の武田信繁が問いかける。

 此処は海津城の軍議の間、今回参集した将全員が集まり今後の行動を相談していた。


「ワシはずっと考えておった、どうやったらあの上杉景虎を倒せるのかを。悔しいが野戦でアレを倒すのは難しい」


「確かに。野戦では何度も辛酸を嘗めました」


「だがその強さも兵あってこそだ。ならば兵は兵で片付けてしまえばいい」


 景虎一人で倒せる兵の数などたかが知れており、その後から付いてくる兵により損害は大きくなる。

 つまり景虎はこの際無視して兵を片付けてから挑めばいいということ。

 だがまともに挑めば景虎が兵と共に突撃してくるので考えなければならなかった。


「ならば御屋形様、まず兵の統率が出来ないようにするのが肝要かと存じます」


 居並ぶ家臣の中から声を上げた者。名を山本勘助といい、信玄が登用した兵法者である。

 元々は駿河今川家に客分として在籍していたが、信玄にスカウトされ家臣となった。


「勘助、策はあるのか?」


「はっ、兵が統率出来ない状況とは混乱状態に陥れること。即ち奇襲に御座います」


「しかし勘助、妻女山は容易に奇襲出来る場所ではないぞ」


 妻女山は北方に千曲川、東西は見晴らしのいい平地で南方には山地となっている。

 北東西から攻め寄せれば、山から見下ろされているので直ぐ見つかるだろう。

 そして南側の山地はろくな道が無く軍勢が通るのに難渋が予想された。


「その通りです、典厩様。故に奇襲するなら南側の山地を抜ける必要があります」


 典厩というのは武田信繁の官職"左馬助"の唐読みである。

 信繁が好んで使っており、名乗りも武田典厩信繁となる。


「それは時間が掛かると思うが」


「構いません、結局景虎めはこちらが動かなければ何も出来ません。要は奇襲のタイミングを知られなければ良いのです」


 いくら戦上手の景虎でも何時軍勢が動くなど予測は不可能である。

 景虎自身、海津城への攻城を嫌って妻女山にいるのだから、先手を取る権利は武田軍にある。

 後は出陣の日取りを誤魔化せば完了であろう。


「だが一度の奇襲ではまだ立て直される可能性があるな」


「流石は御屋形様、その通りです。奇襲を南側から掛ければ大多数が北側に逃げるでしょう。なので北側の千曲川を渡ったあたり、八幡原で待ち伏せをするのです」


「待て、それでは無理だ。八幡原では妻女山から見えてしまう」


「それは心配要りません。実は土地の者に聞き、濃い霧が出る日が判っております。これを利用し八幡原に兵を伏せるのです」


 勘助は夜のうちに海津城を出て朝霧を利用して八幡原に布陣する事を提案する。

 上杉軍に夜目が利く見張りがいると想定してのことだ。

 なので八幡原に入る場所も千曲川を少し北に遡ってから入る事になる。

 これにより南の山地から奇襲を掛け、更に逃げ道となるであろう八幡原でもう一撃加えるという作戦が決まった。


「ふむ、あとは作戦名だな。何ぞ良い案はあるか?」


「キツツキは木の中にいる虫を捕らえるのに2羽で行います。1羽が木をつつき、反対側へ逃げた虫をもう1羽が捕らえるのです。故に『啄木鳥戦法』でいかかでしょう?」


「ははは、上杉は虫か。良いぞ、それでいくとしよう。啄木鳥戦法開始だ!」


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 上杉軍が妻女山の陣を張って1週間が経った。

 結局武田軍に動きはなく姉上も焦れてきている。

 このまま長滞陣が続くとマズイ問題が出る、兵糧の問題だ。

 今回は多めに持って来ていると言っても上杉軍1万3千の兵を賄うのだから減っていくスピードが速い。なので万が一を考えて筆頭家老の直江景綱が越後から追加を持ってくることになった。

 半月後には到着するだろう、襲われなきゃいいけど。

 だが長滞陣がマズイのは武田軍だって一緒のはず、何しろ向こうは2万以上の兵がいるらしい。

 海津城にどれだけ蓄えがあるのか判らないがマズイのは一緒のはずだ。


「うまちゃん、あれみて」


 与六が海津城の方向を指差して俺を呼んでいる。

 なので俺も海津城を見てみると幾筋かの煙が立ち上っていた。


「うん?あれは煙か。海津城からのようだな、火事か?」


「いえ、はくえんなのですいじのけむりかと」


「そか。で、それがどうしたんた。アイツ等だって飯ぐらい食うだろ」


「おおくないですか、けむり」


「いっぱい食いたいんじゃないのか?アイツ等だって姉上の視線を浴びてれば、ストレスで過食症になってもおかしくないぜ」


「・・・・・・」


 与六は何故か口をつぐんで俺から離れ始める。

 このパターンはと思って後ろを振り返ってみると・・・笑顔で愛刀を抜いている姉が立っていた。

 足音の一つも聞こえないんですけど。


「卯松、首を両断するのと胴を両断するの、どちらが痛みが強いか確かめてくれない?」


「大変申し訳ありませんでした、姉上様!姫鶴一文字抜きながら後ろに立つのやめてください!」


「バカね、与六は武田軍が動くと言っているのよ。楽しみだわ」


 炊事の煙が多いのは足軽達に持たせる腰兵糧を作っているということらしい。

 ならば敵の出陣が近いはずである。

 なので奇襲警戒の斥候を出すべきと姉上に提案したところ・・・。


「要らないわ、寝なさい」


 と言ってさっさと自分の天幕に入ってしまった。


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「・・・すぅ・・・すぅ・・・ん?」


 天幕の中で寝ていた景虎は突如起き出す。外套を羽織って外に出て、南の方角を見つめる。


「このチリチリする感じ・・・敵が来たわね。そこの衛兵」


「はっ、何かございましたか、景虎様」


「全員を起こしなさい。軍議を開くわ」


「はっ!」


 衛兵は短く返事をすると駆け出していった。

 恐らく自分の上司に報告に行ったのだろう。程なくして景虎の元に諸将が集まり始める。


「ふぁ~あ、ダメだ、眠い」


「くぅ・・・くぅ・・・」


 卯松は無理矢理起こされたが眠気が取れず、今にも目蓋が落ちて寝てしまいそうだった。

 与六にいたっては全く起きないので父親である樋口兼豊に背負われている。


「ダメよ、起きなさい」


「こんな時間に起きていたらシワが増えますよ。ただでさえ若くないん・・・!?」


 言葉を言い終わる前に卯松のこめかみのすぐ横を見覚えのある刀が通りすぎる。

 そう、姉の景虎が笑顔で放った姫鶴一文字である。

 いつの間に抜いたのか分からないが、ほぼノーモーションで放ってきた一撃は彼の髪の毛を5、6本散らせるほどスレスレの場所に打ち込まれた。


「目は覚めたかしら?」


「ばっちりです、うら若き姉上様。出来ればもっとマイルドにお願いします」


 重臣全員が集まると景虎は軍議を始める。

 と言っても上杉家の軍議は景虎が全て決めてしまうため大した時間は掛からない。


「私は精鋭1千で南下し、こんな夜中に起こしてくれた不埒者を潰しに行くわ。副将は鬼小島弥太郎ね」


「はっ、お伴仕ります」


 鬼小島が返事を返す。

 彼は本来小島弥太郎貞興なのだが、景虎が鬼小島の名称を気に入っており上杉家中全員がそう呼んでいる。

 彼が副将に選ばれるのは景虎に付いていける指揮官は彼くらいなもので、兵の統率も任されるからだ。

 つまり景虎は連れて行く1千の兵でさえ統率しない。


「柿崎、貴方は残りを率いて別動隊を組織しなさい。目標は北側・八幡原よ」


 柿崎和泉守景家は直江景綱に次いで地位の高い家老であり、現在直江がいないので別働隊の指揮を任されることになった。


「八幡原ですか?」


「ええ、夜闇に紛れて武田軍が動いているわ。見えないでしょうけど、私には分かるの」


 こうして軍議は終わり、本隊1千、別働隊1万2千の編成となった。

 全員特に意見もせず黙々と出陣準備中だ。

 卯松と与六は別働隊最後方で樋口兼豊と行動を共にすることになった。

 一応お約束的な感じで卯松はツッコミを入れておいた。


「姉上、1万2千の兵が別動隊って表現おかしくありません?」


「おかしな事を言うのね、卯松。私がいる部隊が本隊よ、当然でしょ」


 確かに言う通りなのだが、何処の大名が本隊の12倍の別働隊を組織するというのだろうか。

 この姉といると常識というものが全く通用しないと卯松は嘆いた。


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「予想以上に道が細いな。一万三千の兵力でこの山道は明らかに不効率だよな」


「言うな、"軍師"山本勘助殿が凹むだろうが」


 武田家の部将飯富昌景と高坂昌信は世間話のように話しながら坂を登っていく。

 ここら辺は急な勾配もあって馬が入れず、彼等は山道を歩いていた。

 雲が空を覆っているため夜の闇はかなり深く彼等を遠くから視認出来る者はいないだろう。

 かなり視界が悪く歩きにくいのだが、彼等にとっては好都合だった。

 そう、武田軍の別動隊は妻女山奇襲を目指しその南側の山地を徒歩で進んでいた。

 妻女山までは大した距離ではないが予想以上に山道が細く難儀していた。

 特に道が細いので隊列は細長くなり、もし此処で戦闘になれば防戦も難しい。

 まあ、その場合は相手も同じ条件だが。


「これ、奇襲する前に兵が疲れるんじゃないか」


「確かに予想以上に歩きにくいな。だからこそ上杉軍も我々がこの道を来ることは予測出来まい」


「そうだな、完全に軍勢が通る道じゃないからな・・・何だ、アレは!?」


 だが彼等が目指している坂の頂上付近に軍勢がいるのがわかった。

 雲の切れ間から月の光が地上にさしたためだ。そしてその最先頭に白装束の女性が見えた。


「どうしてこの私を奇襲出来るなんて考えるの?無理よ、無駄なの。だって・・・」


 白装束の女性は刀を抜き放ち、馬を走らせ始める。


「貴方達が近づいたら私の首筋がチリチリして解るんだもの」


「まさか!?」


「あの女は!?」


 飯富と高坂も気付く、気付いてしまう、今最も会ってはならない人物だと。


「こんな狭い山道に一万以上の兵・・・これ、私に蹂躙されたいってことよね。どれだけMなのかしら、貴方達は」


 景虎が飛び出した後に上杉軍の精兵が続き雪崩となって武田軍に襲い掛かった。


「さあ、棒倒しゲームの始まりよ。楽しませてもらうわ!」


「イヤーーーーーーー!!!」


「イヤーーーーーーー!!!」


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 もう一方の武田軍は濃い霧の中、八幡原に布陣。そこで上杉軍が追い出されて来るのを待っていた。

 だが霧の晴れ始めた八幡原に現れたのは綺麗に隊列を整えた上杉軍1万強だった。

 対する武田軍は8千程、不利は否めないが持ちこたえていた。


「申し訳ありません、御屋形様。この勘助の策、見破られた様に御座います」


「よい、計画は狂ったが妻女山に送った別動隊が戻れば挟み打ちに出来る。それで形勢は逆転する」


 奇襲を仕掛けようとして、逆に奇襲を仕掛けられた形にはなったが武田軍は動揺することもなく戦線を維持していた。

 そろそろ別動隊が妻女山に到達した頃のはず、彼等も奇襲失敗を悟れば八幡原に進軍を急ぐだろう。

 この分なら十分持ちこたえられるはずである。


「兄上、私が出て前線を支えてきます」


 弟・信繁が名乗り出るが信玄はその言葉の違和感に気付く。

 それは戦線が持ちこたえていることだ。


「そうだ、何故我が軍は持ちこたえているのだ?」


「えっ?それはどういう・・・」


 勘助と信繁は信玄の言葉を理解し損ねた、何故と言われても持ちこたえているからだ。

 だが直ぐに気づいた、あの景虎がこんなに緩い攻撃をするはずがないと。


「いかん!!前面の上杉軍は囮だ!!景虎は別動隊を率いておる!」


「た、ただちに全周囲を警戒させ・・・」


 この時間のロスは武田軍にとって致命的なものとなっていた。

 今、正に最後方にある武田軍本陣に強襲を掛けてきた軍勢がいたのだ。

 それも敵襲を予想されていない海津城方面から。

 そして最前頭を走る白装束の女性は一足飛びに本陣に乱入する。


「しーんげんくーん、あっそびましょー!」


「兄上!!危ない!」


 馬から飛び降りた勢いそのままに景虎は信玄に迫ろうとするが弟の信繁が間に割って入る。

 だが景虎は意も介さず彼に刀を突き刺す。

 突き刺された刀は信繁の胸を貫き致命傷を与えた。


「邪魔よ」


「がっ!!・・・兄上・・・お逃げを・・・」


「信繁?信繁ーー!!」


 膝から崩れる弟を見ているしか出来なかった信玄は彼の名を叫んだ。

 そして事も無げに刀を引き抜く女を睨む。


「何故だ、何故お前が海津方面から来る!?いつの間に回り込んだ!?」


「回り込む?私はただ山地を歩いていた武田軍を踏み潰してきただけよ」


「な!?」


 衝撃の一言が飛び出す。

 既に武田軍別動隊は景虎によって敗走させられたという事実だ。

 それは彼女が海津方面から来たことで立証されている。

 つまり、援軍はもう来ないということである。


「もういいかしら、死になさい」


「くっ!」


 信玄は手に持っていた鉄製の軍配で景虎の斬撃を受け止めようとするが、・・・彼女の刀は鉄を紙のように切り裂いてしまった。

 景虎は無表情でふとした疑問を投げかける。


「どうしてそんな軍配で私の姫鶴一文字が止められると思えるの?」


「がはっ!」


 景虎は軍配ごと信玄を袈裟斬りにする。

 大量の流血が大地を染め、その中に信玄は倒れ込む。

 走り込んできた勘助が主君を救うべく景虎に太刀を振るうが、彼女は何事も無かったかのように受け止める。


「御屋形様!・・・上杉景虎!!どうやって見破った、私の、この軍師山本勘助の啄木鳥戦法を」


「ああ、あの小細工は貴方なの。そんなに知りたい?」


 それまで勘助の事を見てすらいなかった景虎が反応した。

 武田軍の作戦を平然と小細工と言い切られ、勘助は愕然とする。

 だがそれ以上にどうやってこの作戦を見破ったか知りたかった。

 軍師としてこれ以上ないほど軍略、地勢、時運を練り上げたつもりだったからだ。


「簡単よ、私に対して殺気を放つ者が近寄るとわかるの。首筋がチリチリするから、山一つ向こうでもわかるのよ」


「ば、化け物か・・・」


 答えを聞いた勘助は更に愕然としてしまった。

 それでは自分が相手にしている者は人間ですらないのではという思いが生まれたほどだ。


「彼を知り己を知れば百戦殆うからず。孫子よ、意味解ってる?自分の方策を決める前に敵を調べろと言っているのよ」


 孫子の原文は『彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し。』とのことで、敵を知らなくても1勝1敗らしい。

 なので景虎が言っているのはただの自分解釈である。


「貴方、私の事ちゃんと調べたの?この私に対して奇襲を成功させた者はいないのよ。軍師失格ね」


「き、貴様ぁぁぁ!!」


「さようなら」


 激昂した勘助に刀を振り下ろす。

 彼女は誰の命を奪う時でも無表情で、その顔から感情を伺うことは出来ない。

 勘助を切り伏せた後、異変に気付いた近習達が信玄を救うべく襲いかかってきたが景虎は事も無げに全てを切り伏せる。

 そして武田本陣に血の海と死体の山を築く。


「景虎様!こちらでしたか!」


「弥太郎、遅かったわね」


 景虎は追い付いてきた鬼小島弥太郎に言う。

 彼女は別に鬼小島を責めている訳ではない。

 ただ本当に全て終わっていたから言っただけである。

 そして馬から降りた弥太郎は景虎の傍に横たわる人物を見て気付く。

 豪奢な鎧兜とその陣羽織に大きく『四割菱』が有ったからだ。


「申し訳も・・・こ、この者は武田信玄!?・・・息があるようですが止めを刺しますか?」


「要らないわ、もう興味ないもの」


 そう言って愛馬に跨がる景虎。既に彼女は信玄を見てはいなかった。


「どちらへ?」


「柿崎と合流しましょ。あと私の旗を此処に立てておいて」


「ははっ」


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「昌豊様!本陣に『毘』の旗が!」


「何だと!まさか!!」


 報告を受けた内藤修理亮昌豊は一目散に本陣へ駆け出した。

 本陣付近まで来た時に目撃した、武田軍本陣から悠々と馬を走らせ出ていく白装束の女性を。

 嫌な予感しかしなかった昌豊は直ぐ様本陣に入り己の主人を探す。


「御屋形様!何処ですか!?」


 強烈な血の匂いの中、信玄を探し出し抱き抱える。

 意識はなかったが息はある、そしてかなりの深手を負っているのが分かった。

 昌豊は追ってきた部下と共に信玄を運び出す。一刻も早く安全な場所で治療しなければならなかった。

 戦いは既に終わったも同然だった。

 本陣に立てられた旗を見て誰もが敗戦を悟り、我先にと逃げ出していたからだ。

 昌豊もこの流れに乗り、信玄を海津城とは反対方向に連れ出した。

 きっと景虎は海津城から接収すると考えたからだ。

 そしてその考えは間違っておらず、景虎は柿崎と合流すると追撃は行わず海津城へ向かった。

 彼女にとって戦は既に終わっていた、あとは順番に接収して行くだけだった。


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「・・・うう・・・ここは・・・?」


「父上!?お気付きですか!?」


「御屋形様!若神子城です!」


 甲斐国境にある若神子城の一室で信玄は意識を取り戻す。

 その傍らにいたのは武田家嫡男・義信と内藤昌豊であった。


「そうか・・・戦況は?」


「既に深志城と高遠城は落城、上原城に攻め掛かかっております。しかも南信濃の豪族共が殆ど裏切ったと見られ、上原攻めに加わっているとのこと」


 海津城を接収した上杉軍は深志城まで順次主要な城を攻略。

 深志城主・馬場美濃守信春は2千の兵で籠城するも、南信濃の豪族がこぞって寝返り。

 上杉軍は兵力3万近くまで膨れ上がっていた。

 信春は兵数不足と兵の士気低下から籠城を断念。

 包囲が甘い南信濃衆の間を抜けて諏訪上原城に合流する。

 この城が事実上の武田家最終防衛ラインであり、武田信廉が城主として馬場信春、秋山虎繁、飯富虎昌、飯富昌景、高坂昌信、原虎胤、真田幸隆等と入りほぼ総力戦の様相を呈していた。

 兵力差は3万vs5千、落城は必至だった。


「・・・そうか・・・仕方の無い事よ・・・豪族とて生きていかねばならんからな」


 信玄の顔色が良くないこともあるが、諦めにも似た表情であった。

 無理もない、信濃全域はほぼ上杉家の手に落ちたのだから。


「義信、昌豊、もう上杉と争うてはならん。甲斐を荒らしてはならんのだ」


「はっ」


「義信、お前には辛い役目を押し付ける。父を許せ」


「父上、ご安心ください。武田家嫡男の責務、必ず果たします」


「昌豊、甲斐の者達を頼む」


「ははっ!お任せを!」


 後事を託し終えると信玄は天を向いて独白する。


「・・・父上、申し訳ありません。父上を犠牲にしておきながら晴信はこの程度でありました・・・どうか・・・お許しを・・・・・・」


「父上?父上ーっ!!」


「ううっ、御屋形様!」


 信玄は静かに息を引き取った、かつて己で追放したはずの父・信虎に詫びながら。


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 景虎はこの上原城でも容赦のない攻めを見せ、たった5日で落城寸前に追い込む。

 だが落城する前に武田家を継いだ義信から武田家降伏の報せが入り戦争は終了となる。

 降伏を受け上原城は開城、城主武田信廉は捕縛されたが他の将は全員解放された。

 その後景虎は高遠城に入り、越後から追加の兵糧を持ってきた筆頭家老の直江景綱も追い付いた。

 現在高遠城の広間に諸将を集めて今後の方針を話し合っていた。


「困ったわ、甲斐を治める候補がいないわね。どうしましょう」


 今、景虎の頭を悩ませているのは甲斐の領土を誰に治めさせるかである。

 信濃はなんの問題もなく決まった。

 何しろ上杉家には元信濃の守護大名・小笠原長時が景虎を頼っていたので、彼を復帰させる手筈となる。

 彼は現在京の都にいるので呼び寄せることになる。

 他にも元信濃豪族村上家や高梨家など景虎を頼っていた者達も復帰となり、周辺の豪族も取り込ませる予定である。

 信濃についてはこれでいいのだが問題は甲斐だ。

 問題が多くて嫌になる程だ。

 まず甲斐の豪族で上杉家を頼ってきた者などいない、なので豪族家臣の中から統治者を選ばなければならないのだが。


「甲斐は難しい土地です。お命じくだされば私がやろうと思いますが」


 上杉家筆頭家老にして与板城主・直江与兵衛尉景綱が発言する。

 いきなり甲斐国主に立候補している発言なのだが、この場に集まった誰からも反対意見が出てこない。

 それは彼の言う通り甲斐という国が本当に難しい土地だからだ。

 誰もが自分に廻って来ないでくれと願うほどだ。

 その理由の一つが洪水だ。

 甲斐には釜無川と笛吹川という2本の川があるのだが、これが毎年氾濫する。

 甲府盆地という地形はこの川に挟まれた場所に存在しているため、毎年水に呑まれる。

 石高にしても10万石以上もあるのかと疑ってしまうレベルだ。

 さらにもう一つの問題がある。

 風土病『はらっぱり』である。

 これは殆ど甲斐でしか起こっておらず、致死率は100%だが発症してから死去までには何年か時間がある。(現在は投薬によって治療できる)

 原因はミヤイリガイという巻貝を中間宿主として哺乳類に寄生する『日本住血吸虫』である。

 この寄生虫の存在は昭和になるまで解らず、終息宣言は平成8年である。

 何故これは甲斐ぐらいでしか起こらなかったかと言うとミヤイリガイが甲斐の川にしか居なかったからだ。

 ただこの当時でも原因は水であることくらいは解っていた。

 何しろ水田耕作する農民に発症者が多く、武士や商人は殆ど懸からないからだ。

 だが水田耕作せずして農民の生活は成り立たない。

 そして甲斐は大水害の国である、この風土病は懸かるなという方が無理なのだ。

 なので農民の間で甲斐に嫁入りするなら棺桶を持って行けと言われたぐらいである。

 故に甲斐は戦って死ぬか、風土病で死ぬか、餓えて死ぬかしか選べないような自然の猛威に試され続ける国なのだ。

 そしてそれなら戦って死のうという思いが甲斐の兵士を精強にした理由かも知れない。


「ダメよ、直江が居なくなったら誰が私の湊を管理してくれるの?」


 そう、景虎は自分の領地である湊でさえ管理していない。

 上杉家の湊を得たのは先々代の父親・為景でそれを大発展させたのは先代の兄・晴景である。

 晴景は温和な人柄で戦を好まず、内政という分野では直江景綱に匹敵するほどの手腕を持っていた。

 だが武功をもって良しとする越後諸豪族からの支持を受けられず、心を病んでしまい景虎に当主の座を譲り渡した。

 現在、越後で寝込んでいる。

 その大発展した湊を景虎が所領とし、直江景綱が管理運営していた。

 つまり景虎は内政など欠片も行っていない、そして直江がいなくなって一番困るのは彼女である。


「しかし生半可な者では甲斐はキツイでしょう。宇佐美殿はどうでしょうか?」


 琵琶島城主・宇佐美駿河守定満。

 長年長尾家を支えた智勇兼備の軍師で、景虎にとっても軍学の師匠に当たる。

 御年71歳で隠居しているはずなのだが何故か戦場に来る困った人である。

 そして彼の息子は影が薄すぎて、上杉家全員未だに宇佐美定満が琵琶島城主だと思っている。


「無理よ、この間の川中島でギックリ腰になって動けないそうよ。今は越後で静養中」

「で、では本庄殿は如何で?」


 北越後本庄城主・本庄弥次郎繁長。

 揚北衆の主要メンバーとして長年北越後の出羽国境を治める豪族である。

 名前が出された本庄繁長はこの広間に居り、体をビクッと反応させてしまう。

 その表情は「嘘だと言ってよ、直江さん」と言いたげだった。


「ダ~メ、繁長には大宝寺家を説得してもらわないと。私、庄内が欲しいの」

「南出羽の庄内地方ですか?何故そんな場所を?」


 南出羽庄内地方は現在大宝寺家の勢力が一番強い。

 この大宝寺家と本庄家は非常に親密な関係にあり、難事の際にはお互い助け合うくらいであった。

 本庄繁長も幼少の頃に家督を継いだが伯父に実権を奪われ、大宝寺家に匿ってもらっていた時期があるくらいだ。


「酒田の湊は美味しいらしいわ。甲斐と違って焦土にする訳にはいかないのよ」


(姉上からびっくりするような発言が飛び出してんですけど。甲斐は焦土にしてもいいって、おいおい)


「そ、そうなると一体誰を?」


「景家でいいんじゃないかしら」


 猿毛城主・柿崎和泉守景家。

 武勇に秀でており景虎の父親・為景の代から武功を積み重ねてきた直江と並ぶ筆頭格の家老である。

 現在は甲斐に先行しており接収作業中である。


「いや、内政が得意でない彼で甲斐一国はキツイかと」


「景虎様、それであれば私にお任せ下さいませんか?」


「・・・?誰かしら?」


 景虎はその男に全く見覚えが無いのだが、何故か家臣の列に加わっているのを不審がる。

 景虎が怪訝な顔をしていると横にいる直江景綱が近づいてきてそっと耳打ちする。


「穴山信君殿です。深志城攻めの辺りで臣従の書状を出して来た者ですよ」(小声)


「ああ、いたわね、そんなの」


 甲斐下山城主・穴山左衛門大夫信君。

 本来武田家一門衆なのだが川中島の結果を受けて臣従を決意。

 武田家が降伏した後下山城から出てきて上杉家の家臣の列に加わっている。

 景虎は当初は柿崎景家を甲斐の統治に廻そうか迷ったが、よく考えれば万を超す越後軍団をよく統率するには家老の柿崎景家は必要である。

 上杉景虎にとって直江景綱は内政の要で、柿崎景家は軍務の要だった。

 彼を他所に配置した場合、兵の参集から進軍戦闘帰還まで影響を及ぼす可能性が大きい。

 それをするくらいなら穴山でいいかと景虎は思った。

 今一信用出来ない者だがお目付け役を置けば大丈夫だろうと考える。


「わかったわ。現地の統治に現地の豪族を使うのは当家の方針なのだし」


「ははぁーっ!粉骨砕身で励みます!」


 穴山信君は満面の笑みで頭を下げる。

 だが即座に直江景綱が反論を入れる。

 彼のような新参者を野放しにすれば甲斐で独立されかねないからだ。


「景虎様、当家に来て日の浅い穴山殿一人に甲斐の領主は難しいのでは?」


「そうね、じゃあ色部勝長と山本寺定長でどうかしら」


 平林城主・色部修理進勝長と不動山城主・山本寺伊予守定長。

 景虎から指名された二人もビクッと体を震わせる。

 どちらも戦場で力を発揮する武将で内政方面は疎い。

 もし甲斐に領地を貰ってしまったら今居る領地から出なければならないので、二人は「トチ狂って甲斐の領主になれなんて。おかしいですよ、景虎様」と言いたげだった。


「そんな顔しないでほしいわね、ただのお目付け役なんだから。穴山でちゃんと甲斐が統治出来るならそれでいいのよ。・・・私、甲斐に興味ないから」


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 お目付け役は居るものの穴山信君は甲斐全土に対し政務を執り始めた。

 だがその穴山に対して甲斐の豪族や国人の拒否反応はすぐに出た。

 彼は甲斐の人々にとって裏切り者認定されていたからだ。

 最初から上手くいかない統治に対する景虎の評価を気にした穴山は色部や山本寺の上杉兵を出して国人や民衆を押さえつける手段にでる。

 だがこれはまずかった。

 何しろ甲斐が荒れる前に武田家が降伏しているため、戦力が残りすぎていた。

 この動きで反乱が起きてしまい、さらに信玄の遺児の一人が寺から担ぎ出されて武田家再興の軍勢になってしまった。


「・・・で、穴山殿、どうするのだ?」


 穴山信君の元に参集した色部と山本寺は今後の方策を彼に尋ねる。

 基本的に彼ら二人は甲斐の統治においては部外者という立場になる、一時的に出張しているに過ぎない。

 なので統治方法に関しては穴山の領分となり、彼の指示を聞かねばならない。


「ま、まずは反乱の鎮圧をですね。それから武田家の遺児を全て処刑しましょう。それがいい」


「寺に入った者達をか!?それは早計だぞ、少し落ち着かれよ!」


 寺に入った人間は俗世から離れたことになるので、基本的には手を出してはならない。

 寺に入り法名を貰えば別人になるという考え方である。

 これを利用して元の場所に居られなくなった人々が寺に逃げ込むということが昔から頻繁にあった。

 有名人だと源九郎義経がそうで、兄・頼朝と敵対した際に色々な寺に匿われながら奥州までたどり着いている。

 寺とは一種の治外法権区域なのである。


「こ、これ以上担がれては反乱が大きくなるばかり!甲斐の統治者は私なのですから従って頂きますぞ!」


「・・・景虎様には報告するぞ」


 二人共異論はあったが穴山信君は確かに甲斐における権限を有しており、逆らい過ぎると罪に問われることがある。

 なので二人は景虎には報告するとして任務を遂行するため出撃した。


(一刻も早くこの騒ぎを鎮めなくては私の首が危うい。景虎様に私の統治能力を疑われる訳にはいかない)


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「じゃあ、兄貴達は・・・」


「はっ、反乱への関与を疑われ有無を言わさず」


 甲斐の某所にある寺の外にて、今回の反乱の顛末を聞く若者。

 彼にとっても今回の反乱は他人事ではなく、兄の一人が参加して処刑されていた。

 それだけならばしょうがないと言える、反乱に参加しておいてお咎め無しは無いだろうから。

 だが穴山信君はこの反乱に関係のない武田家の遺児まで処刑していた。

 この先反乱で担がれることの無い様にである。


「ううう・・・」


「若、ここにいては危のおございます。ここは・・・」


「うおわぁぁぁー!!殺られてたまるかー!!俺は生きてやりたい事が沢山有るんだぁぁぁー!!」


 突然、寺とは逆方向の山に向かって走り出す。

 何時上杉の者達が来るか分からないのだ。

 捕まれば処刑されるのみ、若と呼ばれる若年の彼には耐え難いことだった。


「ちょっと若、待って下さい!私もお伴しますってー!」


 走り出した若者を追って報告していた者も走り出す。


「お前んちは上杉に仕えるんだろ!?もう俺のことは放っといてくれ!!」


「私はイヤですよ、あんなキチガイに仕えるなんて!家は親父と兄貴がいれば十分ですから連れてって下さいよー!!」


 武田四郎勝頼15歳、真田喜兵衛昌幸14歳、彼らの生き足掻く旅が始まった。


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 高遠城の広間にて、景虎は与六を隣に侍らせて酒を嗜む。

 戦が終わって勝利の美酒を味わっているのか彼女は大分上機嫌だった。


「さて、少し休んだら次は関東に行こうかしら」


「スイマセン、姉上。甲斐で反乱だそうです」


 そんな上機嫌の景虎に水を差す様に目の前に座る卯松が報告を入れる。

 景虎は水を被せられたかの様な微妙な顔をしてしまう。

 折角任せたというのに幾日も経たず反乱が起きるとはと。


「何しているのかしら、穴山は」


「あなやまはかいではうらぎりものです。とうちはむずかしいのでは?」


 この戦いは甲斐に攻め込む前に決着した、即ち武田家の降伏である。

 武田信玄は川中島から帰り着くと程なく死去、そのため武田家の当主は嫡男・義信となった。

 彼は景虎に降伏を申し入れると御家滅亡の責任を取り切腹して果てた。

 このため甲斐は戦力が残りすぎてしまい、武田家が降伏しても統治しにくい国となっていた。

 更に元武田家臣もかなりの数が甲斐に残っており、穴山を裏切り者と蔑んでいるので統治はより一層難しいと与六は進言していた。


「う~ん、しっかり人選を考えた方がいいのかしら。まあ上野国は厩橋城の北条(きたじょう)と箕輪城の長野がいれば暫く大丈夫よね」


「あ、そうだった。その長野家の当主のじいさんがぽっくり逝ったそうで葬式の案内が・・・・・・がっ、く、苦しい!」


 箕輪城主・長野信濃守業正。

 上野西部の豪族であり、元々は関東管領・山内上杉家の家臣であった。

 業正は戦においては『上州の虎』と異名を取るほどの剛の者だったが、年には勝てず70歳で死去した。

 という訳で葬式の案内が来ていると卯松は言おうとしたが、いつの間にか後ろに回っていた景虎にチョークスリーパーを掛けられる。


「卯松、どうして貴方はそういう重要な事を早く報告しないの?」


 景虎も本気で締めてはいないので程なく卯松は抜け出す。

 流石に景虎が本気で締めれば7歳の卯松は1秒で昏倒している。


「姉上が報告書読まないのが悪いんじゃないかー!!流石に理不尽だ!!あと酒臭い!!」


「まあいいわ、長野には出席って返事しておいてね」


「え、甲斐はどうするんです?」


「速攻で潰してくるわ、2日もあれば十分よ」


 景虎は反乱だけは許さない。

 越後や越中を治める際、全て人任せだが反乱だけは自分で潰しに行く。

 これには彼女の生い立ち、いや越後国の成り立ちが関係している。

 そもそも越後とは雪深く厳しい土地に精強な豪族が軒を連ね、日夜土地境界争い、水場争いを繰り返す重反乱地帯である。

 そんな修羅の国と言える越後を統べるのは力ただ一つだった。

 景虎の父親・為景は100回以上の合戦に赴いた猛将であり、従わない者は力で叩き潰した。

 対して次の当主の兄・晴景は戦を好まず優れた内政手腕を持っていたが、武を尊ぶ豪族達の支持は得られず半ば強制隠居させられた。

 景虎はこの父親を教師として反面教師を兄としている。

 つまり越後を治めるのは武であり、逆らう者は力で叩き潰し言う事を聞かせる国なのだ。

 我と欲が強く精強な豪族が話し合い等という緩い手段は殆ど採らない。

 彼女自身、もう何度越後豪族の反乱討伐に出撃したか分からない程だ。

 つまり力で言うことを聞かせられないのであれば自分に当主たる資格は無いと思っていた。

 反乱は彼女の力に対する反抗と受け止められていたのである。


(ヤベぇよ、姉上が反乱討伐モードに入っちまった)


 卯松は自分の姉の目に危険な輝きが宿ったのを認識した。

 反抗する越後の豪族家臣達を恐怖に染める時の姉の顔だった。


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 駿河国某所にて元武田家臣・大蔵太夫十郎信安は初老の老人に武田家の顛末を報告していた。


「そうか、信安。報告ご苦労だった」


「無念で御座います、御屋形様」


「嘆いている場合ではないな。・・・まず京の都に登るとしようか。情報を集め、情勢を見つめ武田家再興と上杉打倒を考えるとしよう」


「はっ!では支度を整えます」


 信安は支度を整えるため退室し、老人は一人残されると密やかに涙した。


「・・・何故じゃ、何故死んだ。・・・晴信、信繁・・・お前達ならもっと甲斐を発展に導けると信じておったのに。・・・上杉景虎・・・許さんぞ!お前はワシが必ず倒してみせるわ、この武田信虎が!」


 武田家元当主・武田信虎 62歳。彼は一人上杉景虎への復讐を誓った。

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