三河より来たるもの

 三河国・岡崎城。

 此処は今川家から独立した松平家康(前の名前は元康)の居城である。

 彼は今川家現当主今川氏真に父・義元の仇を討つ気がないと見るや独立に踏み切った。

 だが問題はやはり兵力差である、後背に織田家という敵を抱える松平家は全軍を岡崎から出撃させることは出来ないのだ。

 如何に三河武士が精強でも兵力差が大きければ損害も大きくなるし、城を落とすのに兵力が足りないという事態にも為りかねない。

 それを悩んでいると家康の元に織田家から同盟の提案が届いた。

 家康としては戦略上受けたいが流石に独断は良くない、それを家臣と話し合うため現在岡崎城に集っていた。


「しかし我ら松平家と織田家は長年争っております。親兄弟を殺された者も多く、納得出来ない者は多数いるでしょう」


 この争いは織田家先代信秀と松平家先々代清康の頃からずっと続いている。

 結局どちらが勝ったとも言えず、今川家による松平家の取り込みで終わった。


「だからだ、私自ら率先して意志を示す必要がある。私が本気だと分かれば、表立って反対する者は少なかろう」


「確かにその通りでしょうが、どうやってそれを示しますので?」


「うむ、それについては考えがあるのだ」


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 小牧山築城からひと月程経過し春が来た。

 城はまだまだ出来ていないが縄張りは事前に計画してあったので順調に進んでいる。

 そして足軽長屋の引越しも同時に始まり、長屋に住んでいる利家や秀吉も現在引越しで奮闘中だ。

 そんな中聞こえてきたのが斎藤家当主・義龍の死である。

 当然斎藤家は混乱しているだろうと信長は出兵を試みるが。


「無理だ。引越しの最中だぞ、殿は何処に兵を集める気なんだ?」


 開口一番、織田家筆頭家老・林佐渡守秀貞に反対された。


「こ、小牧山に」


「城が出来てないじゃん。・・・清州に集めるにしても引越した奴らを呼ぶのに時間が掛かる。領地持ちの家臣の兵を集めるのも時間が掛かる。大体ウチの軍政じゃ計画に無い出兵は時間が掛かるから難しいんだ」


「それに稲葉山方面に長井と遠藤が兵を連れて参集しているそうですニャ。既に隙は無いかと」


 出兵をしようとする信長を林佐渡と恒興が止める。

 林佐渡は小牧山築城の進捗と外交の件で来ており、恒興は最近頻繁に来て暴れる妹に耐えかねて信長に相談に来ていた。

 妹を何とかしてくれではなく、婚約破棄の件である。

 一度決まった婚約が破棄されると男は別の女性を娶るだけだが、女性は深刻で最悪寺に入れられて一生を終えるケースがある。

 だから彼女は恒興に怒っているのだ。


(今は怒っているからあんなんだけど、普段はもっと可愛・・・いや、あんなんだったわ、最初から)


 とりあえず追放処分となった織田藤左衛門家との婚約はノーカンということが決まり、恒興も胸を撫で下ろす。

 最悪な未来を避けたというか、あの妹が寺に入ったぐらいで大人しくなるわけがないというか。


「チクショー、まさか小牧山築城と重なっちまうとは!ついてねー!」


(いえ、ついてますよ。森部も十四条も要りませんニャ。織田家の力を削ぐだけですから)


 悔しがる信長を見て恒興は心の中で思う。

 森部の戦いは勝ち戦ではあったがそこまで大きな戦果があったわけではない。

 続く十四条の戦いでは稲葉山城を攻めきれず敗戦。

 更に撤退中の木曽川で追いつかれてまた川に叩き落とされるという結末だった。


「準備不足もありますが、美濃にはまだ調略が不十分と見ますニャ。当主交代で付け入る隙はあるかと」


「・・・ふーん、自信はあるのか?」


「一人貸していただければやってみせますニャ」


「誰をだ?」


「赤母衣衆の金森殿を出向させてくださいニャ」


 金森五郎八長近。

 美濃国多治見の出身の豪族・大畑氏の次男であったが、土岐家の後継者争いで失領。

 移住先の北近江金森で父が金森姓を名乗ったので長近も改姓。

 その後元服すると織田家の傭兵募集に参加、功を立てて仕官が叶い実力で赤母衣になった苦労人である。


「へぇ、確かにアイツは多治見の出身だったな。よし、いいだろう。長近をお前の附与力とする、同時に多治見方面への調略責任者にも任命する。期待に応えてみせろよ、恒興」


「ははっ、お任せ下さいニャ」


 報告が終わり林佐渡と共に退出する。

 話の成り行きとは言え恒興は調略担当者に任命されたので上々の成果といえる。

 それくらい信長の恒興に対する信頼が高まっているのを表していた。


「調略責任者とは大役だねぇ。でも大丈夫なのか、仕事増やして?」


「大丈夫じゃないんですけどね、実は。特に領地保全がヤバイですニャ」


 今回の犬山の功績で恒興は1千石の加増を受け、合わせて3千石の所領となった。

 加増分はやはり昔の池田庄の未開地部分からであり、大庄屋はいないので自分で治めなければならない。

 だが加藤政盛は担当している5百石でも限界であり、実家から溢れている弟達を部下にして何とか維持していた。

 更に少し前に大庄屋が一人亡くなり、後継者争いが勃発。

 その過程で大庄屋としての機能を失い、ただの庄屋になってしまった。

 このため合計千8百石を政盛一人で見なければならず、どう考えても過労死の未来しか見えなかった。

 この領地を見るというのは基本的に農村からの依頼の決済と訴訟事務である。

 これを上手く解決していかないと農民の不満が溜まって強訴一揆に繋がってしまう。

 恒興の池田衆は農民を鍛えて徴収している民兵なので農民の不満はそのまま部隊の強さに影響するし、一揆など起こされては池田家存亡の危機にも繋がる。

 なので家臣の確保は恒興にとって急務と言えた。


「そうかー、アタシから紹介出来れば良かったんだが。農地拡大で人手不足でな。・・・て言うか大谷借り続けていてスマン」


 大谷休伯による堤防造りはまだ続いている。

 というか木曽川が長すぎて簡単には終わらないし、まだ工事を始めて4ヶ月くらいだ。

 主に彼がやる事といえば計画と設計、そして発生した問題の解決である。

 これだけでも彼は忙しくて離れられないほどだった。

 何しろ工事は木曽川流域全体で行われており、範囲が広いからだ。

 だがついこの間、故郷の上野国から休伯の家族が到着。

 3人の息子たちも部下として働き始めたので少しは余裕が出来たようだ。

 2百石の給料があるので家族を呼んでも養えるわけだ。


 石というのはお米を量る単位で、1石は成人が一年間に消費する量とされている。

 1食1合とすると1日3合、一年で1095合となる。

 この端数を切り捨て大体1石は1000合となっている。

 なので大谷は年間20万合を受けとることになる。

 重さにして約30㌧に相当する。

 食べ切れないのは当然で、これは給料そのものとなる。

 このお米の食べる分は残し、あとは売って生活費にするのである。

 これを『石高制』という。

 給料が石高制なら農民からの徴税も石高制になるのが基本で、池田庄の農民は米で税金を納めている。

 これに対して納税を通貨で行う『貫高制」もある。

 実際利家や秀吉といった領地を持っていない家臣や長屋住まいの傭兵は通貨で給料を貰っている。


「いえ、自分で何とかしますから。あ、そうだ、佐渡殿に津島の報告書を持ってきましたニャ」


 恒興の津島奉行としての仕事というのは、言ってしまえば津島と織田家の繋ぎである。

 なので津島の商人達の要望と計画を纏めて報告、織田家の都合と吟味して摺り合わせていくのが一番の仕事と言える。


「あー、済まない。これから所用があるから置いといてくれ、明日見るから」


「何処かに行かれるので?」


「アレだよ、松平家への同盟の打診。犬山攻略中に返事が来てな、書状のやり取りをしていたわけだ。それで今日使者が来ることになっているんだよ。という訳で出迎えてくる」


 信長は独立の意思を顕にした松平家と同盟を模索していた。

 美濃攻略のため、東側の安全がどうしても必要だったからだ。

 尾張という国は北と西からの侵入に対しては木曽川という国境線があるため防御が堅く、南は海である。

 だが東側からの侵入に対してはほぼ無制限となるため、何らかの防衛手段が必要だった。


「いきなり佐渡殿自らですか?」


「こっちから打診したんだ、アタシが出迎えて誠意を見せるのさ」


「あ、あのー、ニャーも付いていっていいですか?」


「別に構わないけど何でだ」


「いえ、後学のために外交上手の佐渡殿の手腕を見学しようと思いまして」


「おお、勉強熱心じゃないか、感心感心」


 外交上手と褒められて林佐渡はむず痒い顔をする。


「まあ、今回はただの下交渉だ。同盟条件の擦り合わせをするだけさ」


 一概に同盟と言うが大体『軍事同盟』+『相互不可侵』が基本となる。

 あとは同盟の保証をお互いどれだけ出すかになる。

 要は人質として娘を嫁に出したり、息子を養子に出したりという感じが一般的である。


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 清州城から出て二人は尾張と三河の国境付近にある寺を目指す。

 こういう他国との交渉にはよく寺が使われる。

寺は基本的に中立であり、僧侶も世俗との関わりを絶った中立の存在なので会見の場としてよく使われる。

 ・・・この戦国には中立でない寺も存在するので注意が必要である。


「そういえば嫁とは仲良くやっているか?」


「いや、まだ許嫁で祝言が挙げれてないですって。でも既にウチの家族に馴染んでいるので、早いとこ正室を決めて欲しいですニャー」


「まあ離婚は殿が許さんだろうし、仲良くやっていけよ。そういえば殿がさ、西美濃の稲葉家から嫁が出てこないかな、なんて言うんだぜ。無理だっつうの」


「ハハハ、確かに。高望みしすぎですニャー。出てきたら美濃攻略が終わってしまいます」


 他愛のない世間話をしながら目的の寺にたどり着く。

 既に先方は到着していたので林佐渡も素早く身支度を済ませ挨拶に行く。

 礼をして部屋の中に入ると、10代後半の若者とその後ろに老人が控えていた。

 おそらく若者が使者で老人は付き添いか部下なのだろうと林佐渡は見た。

 林佐渡は若者の向かい側に座り深々と礼をして名乗る。


「お初にお目にかかります。私は織田家筆頭家老・林佐渡守秀貞と申します。本日は御足労頂き誠にありがとうございます」


「うむ、こちらこそよろしくお頼み申す。私は松平家当主・松平蔵人佐家康だ。後ろにおるのが筆頭家老の鳥居忠吉だ」


(・・・・・・・・・・・・・?・・・・・・・・・・・今何つった?・・・・・・・・当主とか言わんかったか?)


 流石に林佐渡は世にも珍しい珍獣を見る目で彼を見てしまう。

 そんな視線を受けても、目の前にいる家康は自身満々の笑顔で座っている。

 対して鳥居忠吉は何かを焦っている様に汗を拭いている。


(・・・何で当主が同盟の下交渉に出てくるんだよ!!意味わかんねぇよ!!!それじゃ何か、アタシはこの当主相手に同盟条件の擦り合わせをしなきゃならんのか!?誰だ、こんな味噌臭えバカを此処に寄越した阿呆な家臣は!!おい、松平家筆頭家老!!オドオドしながら汗拭いてんじゃねぇ、仕事しろ!!この味噌臭えバカを連れて帰れ!!)


 同盟や条約の締結は代表者同士が会って文書を交わし合うのはこの時代でも変わらない。

 だが大名の当主がその場に現れるのはかなり稀である。

 武田・北条・今川の三国同盟の締結には当主が一堂に会して文書を交わした『善徳寺の会盟』があったというが、これも異例中の異例である。

 本当にこの直接の会盟を今川家の軍師・太原雪斎が為したのであれば彼の外交力は人間の限界を突破していなければおかしい。

 因みに娘の帰蝶を嫁に出した斎藤道三が婚姻同盟締結の場に現れたことはなく、全て重臣家臣で行われている。

 普通はこんなものである。

 現代風に言うと○PP条約交渉の条件を詰める前交渉をしようと思ったら何故か大統領が来た感じである。

 頑張れ外務省職員。


(わかってんのか!まだ同盟は成っちゃいないんだぞ!!此処はまだ敵地なんだよ!暗殺されてぇのか!?誰だ、こんな味噌臭えバカを此処に(ry )


 大名が一番恐れるものはやはり暗殺であろう。

 命が惜しいという話では無い、絶対にその後相続問題で荒れるからだ。

 だから死ぬにしても可能な限り後の事を整えてからを望むのである。

 2代続けての若年相続にもかかわらず、小動もしない松平家臣団の忠誠は異常である。(一応家康の大叔父に当たる人物が簒奪を狙ったが直ぐに撃退された)


(どうしてアタシの周りにはこんなのしかいないんだ、そんなにアタシの胃を虐めて楽しいのかよ。・・・誰か助けてよぉ・・・もうぶっ殺そうかな・・・はっ!)


 全てを諦めかけた林佐渡に一条の光が指す。

 そう、いたのだ、この状況を打破できる人物が偶然にも。


「恒興っ!!恒興ーーーーーっ!!」


「はいですニャ」(やっぱり来たか、知ってたニャ)


 直ぐに襖を開いて恒興が姿を現す。

 恒興は部屋の近くに控えていた、この展開になることを読み切っていたのだ。


「こ、こちら、松平家当主・松平家康様である!」


「ははーっ、池田勝三郎恒興であります」


「この者、主君織田信長の義弟にして、当家随一の茶道の達人。どうか織田家の茶をご賞味頂きたく用意させておりました!」


「家康様、どうぞこちらの茶室においでくださいませニャ」


 突然用意させていたと言う林佐渡の言に動じる様子も無く、恒興は家康の移動を促す。

 そもそもこの座敷では茶が点てられないし、この程度の無茶ぶりでは動じない心を恒興は茶道の経験によって獲得していた。


(茶道が精神修養に役立つというのはこういうことなんだニャ。どんな異常事態でも冷静に思考できるのは強みだニャー)


 恒興は津島奉行になってからもう何度も茶会に行っており、津島会合衆に属する商人で席を共にしていない人間は既にいなかった。

 その経験が恒興に動じない心を与えていると同時に、茶道はおもてなしであり相手のことを考える力も養われていた。

 まあ今回に限っては家康が来ることを見越していたので、茶道具一式もちゃんと用意してあるが。


「茶、か。しかし私は茶道の作法に疎くてな。以前、雪斎先生に教えてもらったのだが身に付かなくてな」


「そう気構える必要はございません。家康様は饗される側なのですから、どうかゆるりと茶の味を楽しんでくだされ」


「・・・じゃ、ちょっと馳走になってこようか。じい、後を頼むぞ」


「ははっ、いってらっしゃいませ!」


 恒興が家康を伴って部屋から退出すると、林佐渡は鳥居忠吉に詰め寄る。


「何でいきなり当主自ら来てんですか!?わかってんの!?まだ同盟は成ってないんですよ!!暗殺されたらシャレじゃ済まないでしょうが!!」


「うう、すみませぬ。殿が誠意はこちらから見せるべきだと言い張って。殿、頑固だから一度言いだしたら聞いてくれないんですじゃ」


 涙ながらに訴える松平家筆頭家老、彼の顔にはかなり疲労の様子が見て取れる。

必死で止めたのは間違いないようだ。


「それでも何とかするのが筆頭家老でしょうが!」


「申し訳も、申し訳ございませぬー!!」


「うう、まあ来てしまったものは仕方ありません。今のうちに同盟条件のすり合わせを!時間は恒興が稼いでくれますから!」


「はいー!」


 この後突貫作業で同盟条件の擦り合せを行った。

 今回の内容は軍事同盟、国境の確定、相互扶助、家康の嫡男・竹千代への『信』の字の偏諱と信長の娘・五徳姫の輿入れが決まった。

 大分織田家が譲歩している内容なのだが、これは未だ反織田家の色が強い松平家家中に気を使った結果である。


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「美味い、良い味だ」


 林佐渡と鳥居忠吉が鬼の様な忙しさの中、少し離れた茶室で平和に茶を楽しむ家康ともてなす恒興がいた。

 お茶には大きく抹茶と煎茶の2種類がある。

 抹茶とは鎌倉時代初期に中国大陸に仏教修業で渡った臨済宗の開祖・栄西禅師が苗を持ち帰った物で当初から寺の物だったといえる。

 栄西禅師が持ち帰った茶が北条政子の後援を受けて鎌倉で栽培され、後に狭山茶や静岡茶の元となったという。

 因みに宇治茶は栄西禅師と親交のあった華厳宗の僧侶・明恵上人が宇治の漁民のため苗分けをしてもらったものだという。(その頃の京の都では生類憐みの令が出されており、宇治川の漁民が餓死する事態になっていた)

 煎茶の歴史は更に古く、何時から日の本にあるのか判らないが全く流行らず廃れていた。


「お褒めにあずかり恐縮ですニャ。此方は堺から取り寄せた南蛮の煎茶『紅茶』です、ご賞味下さい」


「な、南蛮の舶来品など恐ろしい値段だろう!?贅沢が過ぎるのでは・・・」


「驚かれるのも無理はありませんが当家は堺の豪商天王寺屋と取引があるので安く仕入れることが出来ますニャ」


 南蛮人は紅茶等の煎茶を好むため、日の本において廃れた煎茶ブームが再燃しそうな風潮が出始めていた。

 この煎茶が広く庶民的になるのはもう少し後の時代である。


「そ、そうなのか。色々と凄いな、織田家は。隣国なのにどうしてこんなに差があるのか」


「僭越ながら答えの一つは湊ではないかと」


「成る程、確かに岡崎の周囲に津島のような湊は無いからな。羨ましいかぎりだ」


 この時代の金の成る木とは湊(みなと)、津(つ)、港(みなと)である。

 意味は全て一緒で貿易港である。

 陸路と海路とでは流通量が段違いであり、碌な道が整備されていない陸路では荷物を運ぶのも困難である。

 対して海路は時化があるものの、基本船は全部の湊に寄っていくため安全性が高い上に積載量も陸路とは比べ物にならない。

 よって流通が盛んになり湊を持つ大名はかなり利益を得ることが出来た。


「・・・何故、いきなり当主自ら来られたのですニャ?大変危険だと思いますが」


「三河の統一、強い松平家という祖父・清康、父・広忠の願いを叶えたいという想いと、今まで支え続けてくれた家臣に酬いたいという気持ち。あとは人質の様な肩身の狭い窮屈な想いはご免だという我が儘かな。同盟を急いでいる理由は」


 家康の前半生は苦労の連続であった。

 まず3歳で母親・於大の方と別れる、母の実家・水野家が今川方から織田方に寝返ったためだ。

 そして6歳の時、今川の人質に出されるが騙されて織田家に送られる。

 それでも父親の松平広忠は今川家支持を止めなかったため、常に命の危険すらある人質生活を送ることになる。

 この時に預けられていた場所は加藤図書助の屋敷で、信長も出入りしていたらしい。

 その後今川家の軍師・太原雪斎は三河安祥城を落城させ信長の兄・信広を捕らえる。(普通城が落城すると城主は自害するものですが、何・故・か捕縛されている。大変珍しい例です)

 そして人質交換で三河に戻・・・れず直ぐに駿府で人質生活が始まる。

 その後元服して初陣を飾り、桶狭間の戦いを経て此処にいる。


「あ、済まない、忘れてくれ。なんかお茶を飲みながらだと口が軽くなるようだ」


「では、ニャーからも一つだけご助言を」


「ん?」


「丸根砦の件は話題に出さないで下さいニャ。仕方がないとはいえ信長様の寵臣が討ち取られたのですから」


「・・・了解した、気を付けよう」


 流石に丸根の件を信長の前に出されるとこの同盟話が吹き飛ぶ可能性がある。

 これは林佐渡にも伝えておかないとと恒興は思う。


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 清州城での会見は終始和やかなムードで行われた。

 この場には織田信長と林佐渡が織田家代表、松平家康と鳥居忠吉が松平家代表で4人で会見していた。

 家康は昔織田家の人質だった時代があり、その時に信長と面識があって思い出話に花が咲いていた。


「ホントに懐かしいな、あの竹千代が立派になったものだ。もう武功は挙げたか?まあ、これから今川との戦で幾らでも挙げれるか」


 この場合の大名の武功というのは単に戦果ではなく、その大名家を代表できる様な勝利のことである。

 例えば織田家なら桶狭間の戦い、北条家なら川越夜戦、毛利家なら厳島の戦いといった具合である。


「そうですな、まだ武功と言えるのは丸根砦を陥としたくらいで・・・はっ!」


「と、殿!?」


「ちょ、おま!?」


「・・・ほう、お前が大学を殺ったのか」


 途端に信長の体から殺気の様なオーラが発しているように3人は感じた。

 一方で信長の表情は笑って・・・いや、嗤っていた。

 嗤うとは本来攻撃動作の一つと言われている。

 肉食獣が牙を見せて襲いかかろうという表情をいうのだろう。


(おい、コラ!てめぇぇぇぇ!!何教えといた地雷、踏み抜きに来てんだ!!生きて帰る気はねぇってか!!誰だ、こんな味噌臭えバカを此処に寄越した阿呆な家臣は!!)


「あ、いや。そんな命令無視の抜け駆けなんで武功じゃないかな、あはは・・・」


「と、殿!?」


「ちょ、おま、うぇ!?」


「・・・つまり、何だ。義元の命令ですらなくて、本来大学は死ななくてよかったと。そう言いたい訳か?」


 焦った家康は更に失言を繰り返す。

 目の前にいる信長は今にも爆発しそうな殺気に満ち溢れている。

 家康もその様子を察知し自分が取り返しのつかないところまで踏み込んでいるのを認識した。


(何墓穴まで掘りに来てんだぁぁぁーー!!マジで埋めんぞ、ゴラァァァーー!!誰だ、こんな味噌臭えバカを(ry )


(ああぁぁぁーーっ!!ヤバイ!!どうしよう、じいーっ!?)


(殿!落ち着いてくだされ!まずは深呼吸して手に人と書き8等分して右回りで順番に口に含んで巻き舌の発音でラ行を言うとLの発音が・・・)


(松平家筆頭家老!!思いっ切り錯乱してんじゃねえぇぇぇ!!誰だ、こんな味噌臭えバカ共を(ry )


「・・・それで、大学は強かったか?」


「え、それは勿論、丸一日粘られた上にこちらの被害は2百人以上でしたから」


 家康に質問する信長は既に平静の状態に戻っており、家康も呆気に取られる。

 丸根砦に篭っていた兵数は2百人であり、松平軍の損害が2百人以上ということは一人一殺以上されている計算になる。

 普通2百vs5千では多勢に無勢なのであまり抵抗できないものだが、それでも佐久間大学は恐ろしい暴れ方をしていたことになる。


「そうか、ならいい」


「えっ?」


「大学の死は無駄じゃねぇ。アイツの働きが無けりゃオレ達はこうして大名として顔会わせちゃいねぇだろ」


 佐久間大学が粘らなかった場合、松平衆は直ぐ様前陣の位置に戻って織田軍本隊とぶつかったはずである。

 そうなれば織田家の敗北は必至だったし、松平家も今川義元が生きていては独立など出来てはいないだろう。

 佐久間大学の働きはこの二人の人生を大きく変えたのである。


「オレがアイツの死をお前のせいにして汚す訳にはいかねぇ。だからこれでいいんだ。呑むぞ、大学の働きに乾杯だ」


「そうですな、彼の武勇に乾杯いたす」


 信長と家康は盃を掲げ合った後に、一気に飲み干した。

 後に『織徳同盟』と呼ばれる約定が成立した。


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 帰ってきた恒興は自室でこれからの領地経営に頭を悩ます。

 まだ田植えが始まったばかりなのでまだ大丈夫だが、秋の徴税業務が加わると政盛が確実に過労死するだろう。

 今から半年後くらいまでに何とか家臣を多数確保する必要があった。


「浮かない顔してどないしたん?」


 津島で手に入れた煎茶を藤が持ってくる。

 煎茶は急須にお湯と茶葉を入れるだけで作れるので作法を知らなくても出来る。


「ん?ああ、領地の事を考えてたニャー」


「また加増されたんやろ。よかったやん」


「喜んでばかりもいられん。ニャーは家臣が少ないからな、大谷は難しいけど飯尾家、加藤家から融通してもらうにも限度があるし」


 飯尾敏宗は飯尾家の次男であり、当主である兄から部下を融通してもらっていた。

 彼の家は典型的な武士の家で部下も戦働き専門が多い。

 なので基本的な仕事は兵の訓練と治安維持である。

 加藤政盛は商家である実家の弟達の中で武士になりたい者を部下にしていた。

 加藤家は12人兄弟で全員読み書き計算が出来るので即戦力であった。だがやはり人数が足りない。


「成る程なぁ・・・あ、ええ事思い付いたわ」


 藤は両手を合わせパンと小気味良い音を鳴らす。


「今度うちの実家に行くやろ。それに合わせてお爺様に誰かええ人紹介してもらお。うち、手紙書いとくで」


「え、いや、商人を紹介してほしい訳じゃないニャー」


「あまいなぁ、旦那様は。堺はな、完全自由都市やねん」


 堺は堺会合衆という商人連合が運営する自治区。

 その立ち位置は津島とそう変わらない、唯一違う所は何処の勢力にも属していないこと。

 過去に何度も襲撃されているがその度に弾き返してきたらしい。


「何処の勢力にも染まらんから、色んな勢力の人が居ったりするんや。お爺様も何人か匿っとるし」


 堺は何処の勢力にも属していないためあらゆる人が逃げ込んでいるわけだが、基本的には富貴な者しか滞在出来ない。

 生活費の工面そのものが難しいのだ。

 なので大名や城主の隠居であったり、商人が取引で世話になった家臣を匿ったりと様々である。

 どうやら天王寺屋でも幾人か匿っているそうだ。

 つまり大名家に仕えていた即戦力を紹介してもらえそうだということ。


「おお、それは期待出来そうだニャー」


「ほな、手紙出しとくから。期待しとり」


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 次の日、恒興が津島に出向こうと外に出ると久しぶりに帰ってきた大谷休伯に出会う。

 出会うと言っても休伯の方は恒興に報告があって来たようだが。


「ああ、殿。お久しぶりですな」


「休伯、本当に久しぶりだニャー。工事の方は順調か?」


「ええ、息子達が来たので少し余裕が出来まして」


 先日到着した大谷休伯の3人の息子達は子供の頃から父親の事業を手伝っており、若いながらも工事を取り仕切れるほどだった。

 この堤防が完成すれば彼等の評価も上がり正式な家臣に出来るだろう。

 もしかするとノウハウを買われて織田家の直参にスカウトも有り得る。


「上野国はまた戦が始まるようで復興もままならないそうです」


 休伯はどうやら息子達から聞いた情報を恒興に伝えに来たようだ。

 それによると関東地方では雪辱に燃える北条家の逆襲が開始されていた。

 景虎の圧力から解放された豪族が次々に寝返りを始め、武蔵国は既に北条家が勢力を盛り返していた。

 更に上野国への再侵攻の拠点として、武蔵国川越城の大改修を始めているそうだ。


「それなのに上杉家は関東へは行かず信州に出兵して川中島という場所で武田家とぶつかったとか」


「関東は大変だニャー。そうか川中島の戦いか、これで通算4度目か。よくやるニャー」


「ですよね。しかもその戦であの武田家が滅亡したのですから、世の中は何が起こるか分かりませんな」


「そうだニャー・・・って、うええぇぇぇーーっ!!!!なにそれぇぇぇーーっ!!」


 大谷休伯から衝撃の一言が飛び出す。

 恒興が知り得る限りそんな気配はなかったはずである。

 確かに恒興は歴史そのものを改変しようとしているが、武田家に関わることはしていない。


「えっ!まだ知りませんでした?」


「ソ、ソースは!?」


「信州を通って来た私の息子達ですが」


「・・・ギャグとかドッキリの可能性は?」


「いえ、確かみたいですよ。川中島敗戦の後、直ぐに降伏した様で」


 休伯が聞いた話によると、武田軍は川中島で上杉軍と激突。

 結果武田軍は敗れ、武田信玄も深手を負い甲斐で死去したとのこと。

 上杉景虎の勢いは止まらず深志城、高遠城が落城。

 南信濃の豪族は残らず上杉家に寝返った。

 更に甲斐にも攻め込む姿勢を見せたので信玄の「甲斐を荒らしてはならない」の遺言に従い降伏したとのこと。


(あばばばば・・・おおおちおちおちけつおちけつ・・・ままままだだあわ、あわてるじじ時間じゃ・・・落ち着こう。ていうか何これ、歴史が早回しとかそんなチャチなもんじゃねーギャ。それって織田家の殆ど隣に超大国が出来たってことに。ま、まずは確定情報を!)


あまりの衝撃情報に茶道による精神修養が吹っ飛びかける恒興。

何とか平静を取り戻し思考する。


「つ、津島に行ってくるニャ!」


「あ、殿、私もお供します」


(マズ過ぎる、このままでは織田家が上杉家に潰される未来が見え始めたニャ!・・・もう四の五の言っていられん、ニャーも本気で掛からないと。東濃方面の調略を成功させて信州との国境線を塞ぐ。金森殿には速攻で動いてもらおう。同時にニャーも動く、まず目標は"伊勢"だニャー!)

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