又左と勝三

 恒興の母親は既に出家して尼となった身で養徳院桂昌という。


 この女性は織田信長の乳母を務め、夫・池田恒利が亡くなると織田家前当主・信秀の側室となった。この為恒興は信長にとって乳兄弟にして義弟なのである。夫が亡くなって直ぐに側室になったのは不貞に思われるかもしれないが、これには理由がある。


 この時代、争いの元となっているものが大きく2つある。それは領土問題と相続問題である。


 そもそもこの戦国時代の幕開けと言われる『応仁の乱』は足利将軍家の相続問題が元である。それだけに相続問題はあちこちで争乱を起こしており、恒興の相続に関しても起こった。何しろ跡継ぎの恒興が当時3歳だったのだ。特殊な理由でも無い限り、3歳児に従いたい者はいないだろう。案の定、従兄弟や親戚が当主の座を渡せと迫ってきたのだ。


 この動きを止めたのが織田信秀であった。彼は養徳院を側室にし恒興を息子にする事で、池田家相続の後ろ楯となったのである。つまり、養徳院が側室になったのは幼い恒興の為であった。故に恒興は母親に頭が上がらなかった。


 養徳院は昔から織田家中の者を支援したり面倒を見たりしていたため、"大御乳(おおおち)"と称されるほど慕われていた。織田家前当主の側室、現当主の乳母、家中から慕われる存在となると、その権勢は比類なきものになりそうだが養徳院は政治に関わることは一切無かった。


 恒興に言わせれば養徳院とはこうである。


(母上はただの世話好きなんだニャー)


 今彼女が頑張っているのは茶道である。茶器一式は前に信長から贈られていたのだが、使い方が全く分からなかった。最近、何処で覚えてきたのか恒興が茶道を修得している様なので教えてもらうことにしたのだ。因みに前に林佐渡をもてなした時使ってた茶器はコレで、実は母親の物だった。


「それにしてもお茶って美味しいのね。最初は苦いって思ったのだけど」


「まあ、大体皆同じように感じると思いますニャー」


「そう言えば恒興、前田殿はまだ勘当が解けないのですか?」


 なにがそう言えばなんだろうと恒興は思う。とはいえこの母は急に会話を変えてくるので、気にするだけムダだとも思っている。


「前田殿?ああ、利家のことですか?」


 利家とは前田又左衛門利家のことである。通称は又左である。恒興にとっては同い年の幼馴染みであり、共に信長の近習であり、同僚でもある。彼は現在、ある事件を起こして織田家を勘当中の身である。


「さすがにまだ半年くらいですから。桶狭間でも勝手に来て手柄を立ててましたが殿は許しませんでしたニャー」


「心配だわ、大丈夫かしら」


 大分心配しているのか養徳院の顔色は良くない。まあ、幼馴染なのでこの家にもよく来ていたわけだが、利家の勘当については同情の余地がないと恒興は思う。何しろ信長に仕える茶坊主を切り殺した上に弁明もせず逃げたのである。この所業には信長も怒り、勘当処分となった。ただ茶坊主の方も利家に対し挑発を繰り返していた様ではある。


(基本的に武士ってヤツは身分が格下の相手からの嘲笑には耐えられないんだニャ。佐渡殿や村井殿が茶会に行きたくないっていうのもこの辺が関係してるのニャ)


「母上がそんなに利家のことを心配しているとは存じませんでしたニャー」


「いいえ、前田殿は元服も済ませた一端の男なのですから心配してませんよ。どんな苦境も己で乗り越えるでしょう」


 先ほどとは打って変わってキッパリと言い放つ。どうやら彼女は何か別のことを心配しているようだが恒興は全く察することが出来ないでいた。


「では何が心配なので?」


「それはもうお松のことよ!」


 お松とは前田利家の妻・松(12歳)のことである。因みに結婚は去年なので11歳で利家に嫁いでいる。この時代、11歳で結婚はわりと普通でもっと若い例も沢山ある。


「あの子まだ若いし、それに妊娠中だって人伝に聴いたから」


(妊娠!?相変わらずなんつー年齢で孕ませるのか!)


「だから、もう心配で心配で……ねえ恒興、様子見てきて欲しいんだけど頼めない?」


「ニャーは居場所知らないんで」


 即決で返事をした恒興に対し、養徳院は片目を裾で抑えヨヨヨと泣きながら後ろの仏壇に振り返る。


「ああ、あなた、信秀様、恒興が私に冷たいです。私はこのまま悲しみに包まれながら……」


「変なことを仏壇に報告するの止めてくれませんか!!分かりましたよ!捜してきますニャ!!」


「お願いね♡」


 恒興の方に振り返った養徳院はいい笑顔だった。


(嘘泣きですニャ。ええ、知ってましたとも)


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 恒興は村々を管理している大庄屋を訪ねていた。


 今年の各村の年貢米取立て予定と賦役について話し合うためである。基本年貢米などの徴税業務は各村の庄屋が行う。そして十数村の庄屋から大庄屋が税を集めて恒興の元に送るという形態を取っている。つまり徴税は武家が直接行うのではなく庄屋などの中間業者が間に入って行っている。


 すると必ず発生するのが庄屋によるちょろまかしと徴税過多である。ちょろまかし程度ならまだ可愛い方だが徴税過多はヤバイ。農民が生きられなくなる可能性があるからだ。


 そこで織田家先代信秀はこの2つを防ぐため検地を始めたのである。彼は庄屋による不正を許さなかった。津島という商業地を持ち、経済とその有用性を知る男は年貢米についてもキッチリしたかったのだ。「金勘定をドンブリでやるな」という性格をしていたのだ。


 ……が、これは建前である。実際にはそこまでキッチリとは出来ない。これを寸分違わず行うと庄屋がストライキを起こすからだ。武力で鎮圧も可能だが、更に大きな一揆に発展しかねないのでやりたくないのだ。


 なので恒興は帳簿に載せない田畑”隠田”の存在を暗黙に了解している。ストライキを起こされたり、徴税過多をやられるよりはマシなのだ。


 大庄屋と話し合う年貢の話はこれも絡んでくる。隠田自体の数が毎年増えるので一部を帳簿に載せて、今年の新田として登録するのだ。これをやらないと領地を隠田まるけにされてしまうので怠るわけにはいかない。まあ、年に数石程度しか増えないが。


「……年貢と新田についてはこんなもんかニャ」


「はい、異存ございませんとも」


 恒興が持ってきた徴税案は概ね大庄屋の予想の範疇だったようで、特に抵抗もなく決まる。


「後は賦役の件だニャ。去年破壊された堤防の修復なんだけど、人手は出せそうかニャ?」


「もちろん、最大限に出しますとも。……と言うか私の管理する村々が一番川に近いので他人事ではありませんし」


「ですよねー」


「雨季が来る前にお願いします」


 大庄屋は土下座の体勢で深々と頭を下げる。


 雨季とは梅雨のことではなく台風の来る8、9月を指す。梅雨の増水も危険ではあるが、基本水だけなのでまだマシな方。嵐による増水は土砂・流木が加わるため大変危険である。これが一番堤防を破壊し、毎年木曽川流域は重氾濫地帯となっている。


 この時代の大きな川は雨季になると大抵暴れていて治めるのが難しい。恒興の領地、勝幡にある”池田庄”は毎年木曽川による洪水被害に遭っていて、領地の8割は開発できない。毎年洪水が来る土地に人は住めないし、水が抜けないためいたる所が沼地と化す。なので勝幡城(信長誕生説がある城)は天然の要害”沼城”となっている。


 日の本の平地は多くがこんな感じで山に近い平地が一番洪水が無くて豊かな場所と言える。


 尾張の国は起伏には乏しいが小高い丘程度ならいくらでもあり、そういう土地なら洪水が来ない上に農業も出来る。尾張全域がそんな感じなので全国有数の石高があるというわけだ。そこを考えると恒興の”池田庄”は完全に貧乏くじである。


 とりあえず恒興は修復工事の日程を伝えて大庄屋を後にした。このような大庄屋はあと3人いて、恒興自身で回ってもたかが知れている。


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 大庄屋を出て直ぐの木の陰から恒興を見ている者が一人いた。


(あれは声掛けられ待ちか……というか捜そうと思っていた矢先に現れるとはな)


 その人物は恒興もよく知っている者で同僚……今は"元"同僚というべき男だった。向こうからは声を掛けづらい様なので、こちらから呼び掛けることにした。


「お前は一体そこで何をしとるんだニャ?"犬千代"」


 木の陰に隠れている人影がビクッと反応する。


 犬千代というのは彼の幼名で、現在は前田又左衛門利家という。『槍の又左』と異名をとる剛の者でもある。そんな男が大柄な身体を縮込ませて、木の影から姿を現す。身体が大柄でちっとも隠れていなかったが。


「よう、勝三、そのー、久しぶりだな」


 勝三というのは恒興の愛称のようなもので恒興と親しい友人はこう呼ぶ。


「……」


「そんな顔するなよ、悲しくなるじゃねえか」


「勘当者にどんな顔しろって言うんだニャ」


 基本勘当者に話しかけてはならない、はっきりと定められている訳ではないが。勘当とは主君に見捨てられたり嫌われたりしたわけで、そんなヤツと仲良くして主君が気分いいかという話である。


 今は恒興一人だし、母親から頼まれた件もあるので話を聞くことにした。


「で、なんの用だニャ。ニャーはこれから大庄屋を回らねばならん。手短に言え」


「……頼む!米を貸してくれ!」


 米を貸す・・・これは今で言うなら”お金を貸す”である。詳細は省くがこの時代で使える通貨が非常に使いにくいので、大体の庶民が米や布を通貨の代わりにしていた。


 恒興は少し考えたが貸すことにした。勘当中で収入がないのだが、信長がいずれ許すことを恒興は知っているのでそのうち返せるはずだと思ったからだ。


「わかった、米は貸してやる。返せる時に返せば問題はニャい……おい、ちょっと待て、又左」


「何だよ、まさか貸せないとか?」


 恒興は思い出す、養徳院はなんと言っていたか。彼女は一体誰の何を心配していたかを。


「いや、そうじゃニャい……お前、お松ちゃん妊娠中だよな?それってちゃんと食べれてんのか!?」


「……」


 利家は気まずそうに視線を反らすが恒興は逃がさなかった。


「何処見てんだ?おい?……正気か!お松ちゃんも子供も殺す気か!?もういい、お松ちゃんウチに連れて来い!!」


「な、まさか、お前、お松のことを……」


「阿呆な勘繰りしてんじゃねーギャ!!蹴り飛ばすぞ!!ニャーの母上が心配してんだよ!」


「養徳院様が?」


 養徳院の名前が出たことで利家も安心したのか観念したのかよくわからない表情をする。昔から世話になっている養徳院にまた世話をかけるのかという想いと、松の安全のため縋りたいという気持ちがせめぎ合っているようだ。


 まあ、そんな利家の都合など恒興の知ったことではない。これで松を連れ帰らなかったら養徳院がどういう行動に出るか予測不能なのだ。


「いいから連れて来い。このままじゃ命に係わるニャ」


「うう、済まねぇ」


 利家は完全に観念したようで、夕刻には松を連れて池田邸に行くことを約束する。


(これで母上の依頼は達成か。でもこの後どうするんだろ)


 勘当者を匿う、あまりいいことではない。ないが、養徳院が松を見捨てるとは全く思えない。ちょっと面倒くさい事になりそうだと恒興は嘆息した。


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 夕刻、約束通り利家が松を伴って池田邸に現れた。


 松のお腹は結構膨れており臨月が近いとのことだった。これで栄養失調など洒落にならない危険がある。


 養徳院は恒興と家中引っ掻き回して、栄養のある物はと探す。さらに近隣の池田家従者の家も巻き込んで料理を作らせた。結果、松の前には満漢全席並みの料理が並べられていた。


「こんなに、申し訳ないです」


「そんなことないわ。でもこの事を借りと思うなら、利家殿に返して貰えばいいことよ。この程度の借り、あっという間に返せる器量人ですよ、あなたの夫殿は。ねぇ利家殿?」


「養徳院様……」


「こ、この利家!必ずや、このご恩に報いる所存!」


 利家はガバッと大げさに頭を下げる。


「とはいえ勘当は解いて貰わないと困るわ。恒興、何とかならないのですか」


(いや、放っといても半年後くらいに解けるんだけどニャー。て言うかこの手の話は母上が直接信長様に言った方が効果あるんだけど……言わないんだよなぁ、母上は)


 少し面倒くさそうな顔をした恒興を母親である養徳院は見逃さなかった。


「恒興?」


 再度呼び掛ける、今度は語気を少し強めで。これを通り越すと次は怒られる破目になる、さすがに息子である恒興は把握していた。


「はぁ~、分かりました分かりましたニャ。んじゃ、行くぞ又左」


「え、行くって何処に?」


「帰参するにも手柄が必要だニャ。武功ではないけどな。いいから黙って付いてこい。・・・槍もちゃんと持ってこいよ」


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「それじゃニャーは一眠りするから、誰か来たら知らせるニャ。」


 恒興は隣で壁に張り付き外を警戒する利家に声をかける。今夜は交代で寝ずの番をするつもりだった。


「なー、そろそろ教えてくれてもいいだろ?俺たち一体何を見張ってるんだ?」


 二人がいるのは木曽川に近い小屋だった。恐らく漁師が使っているのだろう、そこかしこに漁師が使っていたと思える道具が置いてある。ここから美濃に向かう道を見張っているのだ。


「お前、ここから誰を見張っているかぐらい分かれよ」


「てことは、やっぱり犬山城の信清殿なのか?」


 犬山城城主織田信清。主君信長の従弟に当たる人物である。


「信長様と信清殿の不仲は知ってるだろ。最近動きが怪しいニャ、どうも美濃斎藤家と連絡を取ってる節がある」


 犬山城は木曽川の側にあり、木曽川の反対側は美濃斎藤家の勢力圏という最前線に位置する城だ。それ故信長の伯父である織田信康が城主となったが、斎藤家との戦で討ち死にしたため息子の信清が跡を継いでいた。


 この信清と信長の相性は何故か最悪でまったくソリが合わなかった。ある論功報奨の場で分け前が少ないと信長を公然と批判するくらいであった。そんな信清に対し信長は罰することはなく、関係の修復を図っていた。だがこんな状況を敵方である斎藤家当主・斎藤義龍が見逃すわけもなく調略の対象になっていた。


 このことはかなり秘密裏に行っており、まだ織田家中で知る者はいないはずだった。一人を除いては。


「そんな……こんなこと間違いじゃ済まされんぞ」


「間違いじゃ済まないから証拠を掴みに来たんだギャ」


 もし犬山城が寝返り、斎藤方に与したら、尾張侵攻の足掛かりになるのは明白である。この時期には信清が斎藤家と繋がっていることを恒興は知っているので、美濃攻略を早める&利家の功績稼ぎに利用しようと考えたのだ。


「信長様はギリギリまで従弟殿が改心するのを待っていたみたいだけど、もう無理だニャー。恐らく以前より追い詰められて、斎藤家との継ぎを強めているはず」


「追い詰められた?誰に?」


「桶狭間の結果にだよ。あれで信長様の武名は全国に鳴り響いたニャ。」


 桶狭間の勝利によって信長の武威はかなり上がり、それまで同格に程近い位置にいた信清は相対的に下がってしまった。今信長に恭順したならば、ただの家臣扱いは避けられない。


 だがこのまま反抗し続けるのも無理な話になってしまったのだ。それは信清の家臣達である。信清が信長の従弟なのだから家臣も当然織田家の臣である。この家臣達が信長の武威を畏れて離反の構えを見せ始めていた。つまり信清を見捨てて信長の元に戻ろうとしていたのだ。


 既に信清の家老は林一族の出身なので林佐渡と連絡を取っていた。


「だから信清殿は一刻も早く斎藤勢を呼び込まなくてはならないんだニャ。書状のやり取りがかなりあるはず。で、その使者から密書を取り上げる」


「成る程、どう考えても荒事になるな。だから槍持ってこいだったのか」


「頼りにしてるニャ。そのニャーをぶちのめした槍の冴えは……て、イヤなこと思い出してしまったニャ」


 それはかつて母衣衆という信長の親衛隊を選ぶための武芸大会が催されたことがある。恒興も参加したのだが一回戦でこの『槍の又左』こと前田利家と当たりボコボコにされて終わった。結果恒興は母衣衆に選ばれることはなかった。


(そう言えばあの時から利家とは疎遠になってたっけ)


「いや、その、あの時はすまなかった」


「謝るなよ、ニャーが余計にミジメじゃないか」


「俺も必死だったからさ、前田家の四男坊なんて継がせて貰える物は何も無いから。だからどうしても立場が欲しかったんだ、お松と結婚するために」


「知ってるニャ、て言うか突然のろけるな」


 基本的に母衣衆にいる者達は利家の様に次男以下で家や財産を継げない武辺者が多く取り立てられている。主な仕事は信長の護衛と戦場で信長の命令を前線に伝えにいく伝令である。


 背中に風船のように膨らませた赤や黒の母衣を背負い戦場を駆ける姿は敵方からよく目立ち、当然のことながら的になっていた。


 この目立つ格好はわざとであり、討てるものなら討ってみろと武勇を見せつけているのである。なので選ばれるのは武勇に優れた者ばかりであり、基本信長の傍にいるため出世コース&戦場の花形(憧れ)となっていた。


「母衣衆に選ばれるかどうか、四男坊が出世出来るかどうかが掛かってたから。その為に勝三を・・・て、今にして思えばお前、何で母衣衆になろうとしたんだ?なれるわけねぇじゃん!」


 そう、恒興は最初から選ばれる訳がなかった。


 母衣衆とは自分の身一つしか持たないような武辺者に立場と名誉をあたえ、出世の足掛かりとする一種の救済措置として信長が置いたもの。恒興は池田家当主として出陣の際には500ほどの兵を率いる立場なのだ。つまり立場も家名も領地も兵も持っている恒興が選ばれる可能性は皆無だった。母衣衆は危険を伴う任務なので恒興の様な家の当主が戦死したら堪らないのだ。


「なーんか前から引っ掛かってたんだよ。お前と対戦する前に信長様が『手加減したらその場で失格にするぞ』と発破かけてきたり。なあ、何で母衣衆になろうとしたんだ?」


「……」(汗)


(……言えニャい!信長様に褒めて欲しかったなんて!)


 恒興は気まずそうに目を反らしていく。利家は面白いことになったと言わんばかりの顔で追撃しようとするが、突然戦場でする様な表情になる。


「!!誰か来る!」


 利家はバッと小屋の入口に張り付く。見張っていた道側とは反対方向なのでもしかすれば監視がバレた可能性もある。


(ニャー達を始末しに来た刺客か?)


 恒興も腰の刀に手をやり、臨戦態勢を整える。


「音からして相手は一人。まず俺が行く」


 言うや否や利家は槍を片手に小屋を跳び出す。


 先手必勝もあるが小屋の中では槍が振るえないので跳び出す必要があった。利家は小屋に近づく者を仕留めようとするが、途中で思いとどまった。相手側から大した反応が無く、武器も持っていないようだったからだ。


 とりあえず槍を突き付けて脅すことにした。


「止まれ!何者だ?」


 槍を突き付けられた男はその場にへたりこんで利家を見上げる。


「あ、あんたらこそ誰だがや。こ、ここはオラの小屋だあ」


「この小屋の漁師かニャ」


「んだ。へ、変な奴等がおるって息子が言うから見に来たんだがや」


「それは……済まんことをした。許せ」


 槍を引き謝罪の言葉を述べる利家。この場合、頭までは下げない。士分である利家と一介の漁師では身分の差があるからだ。


「すまんな、お役目を果たすため借りておったニャ。これをやるのでもう少し貸しといてくれ」


 そういうと恒興は懐から饅頭の入った袋を取り出す。小腹がすいた時用に持ってきたものだ。


「こりゃうまそうな饅頭で、ありがとうごぜえます。お侍様は犬山の方で?」


「ニャんでそう思う?」


「あ、いえ、最近よくこの辺で見掛けるんで。さっきも木曽川を渡河しようとしてる犬山のお侍様を見たもんで、てっきり」


 木曽川を渡河すれば、そこはもう敵国・美濃である。そこに行こうとする犬山の侍、恒興達が張り込んでまで探していた者たちだった。


「「その話、詳しく!!」」


 二人は声を合わせて叫んでしまった。


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 漁師に教えてもらった場所に行くと、犬山の侍らしき者が二人いた。


 二人は服を脱いで荷物を疊み、ふんどし一丁の姿だった。つまり彼らは自力で木曽川を渡る気なのだ。密使なので足が付くかも知れない渡し舟は使えないのだろう。


 荷物を頭の上に括り付け始める。いよいよ渡河に入るようなので、その前に捕らえなければならない。


 恒興がさあ行くぞと腰の刀に手を掛けると利家が話しかけてきた。


「なー勝三、一つ思うんだけどさー」(小声)


「何ニャ?」(小声)


「密使なんだから普通の道は使わず、回り道して行くもんだよな。なら俺たちがあの小屋で見張ってた意味って……」(小声)


「うるっせぇぇぇ!集中しろニャァァァッ!!」(大声)


「バカっ」(小声)


 利家に今更なことを突っ込まれて恒興はつい大声を出してしまった。当然、渡河しようとしていた二人にも気づかれる。


「何奴だ!!」


「バレた、行くぞ!!」


 利家は凄まじい瞬発力で恒興を置いて飛び出す。そしてあっという間に二人に詰め寄る。


 相手もとっさに応戦しようとするが無理だった。彼等はこれから渡河するため、服と荷物を纏めて頭の上に縛り付けていたのだ。当然、刀も縛ってある。更に渡河中に抜けないように鞘と鍔を紐で縛っていた。


 このため刀を抜いて応戦することは出来ず、利家もまた相手の状態がわかっていたので槍を返し石突きで打ち据える。刀で言うところの『峰打ち』というわけだ。


 遅れて恒興が到着するも既に遅く、二人とも打ち据えられて観念しているようだ。まあ逃げようものなら容赦しないオーラを利家が発していたので無理だったが。


(なんつー速さだ。槍の腕前は全く鈍ってないようだニャ)


「さて、ニャー達は織田上総介の家臣だニャ。お前らを捕らえた理由は言わんでもわかるな。出して貰おうか」


「……」


「信清殿に殉じる気か?それで家族一族まで巻き込む気か?」


「……っ!!」


「お前らも織田家の家臣だろう、だったら織田家当主・織田上総介に従うことに何の躊躇いがあるんだニャ!ニャーは信長様の義弟・池田勝三郎恒興だ。帰参の取り成しはしてやる」


「……ははっ」


 ようやく真に観念したようで二人は自分の荷物から密書を取り出して恒興に差し出す。だがこれには恒興も少々困惑した。


「……なんで密書が二通もあるんだニャ」


 密書とは他人に知られたくないから密書なので、密書の数を増やすと露見の危険が高くなる。だから普通に考えて密書は一通のみが当然なのだが。


「それは、その、改めて戴ければお分かりになるかと……」


「ま、そうだニャー」


 二人から密書を受け取り、中をさらっと確認する。内容については主君・信長が考えればいいこと。要は宛先さえ分かればいいのだ。二つの密書の宛先人を見て恒興は驚愕する、と同時に納得した事もあるが。


「どした、勝三?」


 その様子に心配したのか利家が寄ってくる。二人とも完全に観念しているので、もう警戒の必要はないと判断したからだ。


「一通は予想通り斎藤義龍宛だニャー。問題はもう一通の方」


「誰宛だ?」


「甲斐の武田信玄だニャー!!」


「なんだとぅー!!」


 甲斐信濃国主・武田信玄。名門甲斐源氏武田家の当主、旺盛な征服欲で信濃を制した甲斐の虎の異名をとる名将である。


「信清殿は武田を尾張に引き込もうっていうのか!?これはもう寝返りどころの話ではないニャ、売国行為だギャ!!」


 寝返りという行為は誉められる行為ではないが、生き残る手段としては有りである。一族郎党領民の暮らしというものがあるし、頑なに突っぱねて領地を焦土されては堪らない。


 一番よくある寝返り方としては主君が酷いからという理由が多い。なので隣国の敵方に寝返るというのは戦国時代のよくある風景なのだ。


 だが敵対すらしていない他家を引き込む行為は完全にアウトである。例がない訳ではないがそれは大名クラスでの話だ、自分の家名と領地を代償に差し出してというもの。


 織田信清は信長のことが気に食わなくとも完全に織田家の一門家臣である。勝手に外交をするなど許されないのだ。


(前の歴史でも信清は甲斐に亡命した。あの時は美濃じゃ危ないからと思っていたけど、こういうことだったのか)


 多少驚きはしたが恒興にとっては良い成果が得られた。利家の帰参の手柄としても申し分ないと思うし、この密書を見れば信長も犬山攻略に動くだろう。


(これで美濃攻略にかかる前に犬山を制圧出来るニャー。美濃攻略に時間が掛かった原因の一つに信清がグレーゾーンな妨害を繰り返したことが挙げられるのだから)


 そう、恒興が知る前の歴史では信長は犬山城を放置して美濃攻略にかかった。結果、誤報、兵糧供出拒否、前線補給物資足止め、仮病で出陣拒否など様々な嫌がらせを受けることになる。桶狭間の戦いから美濃制圧まで7、8年掛かっているのだ。因みに信清を追放した後は2、3年で美濃制圧となる。


 一概に信清のせいにすることは出来ないが大きな要因であったことは間違いない。


「ど、どうするんだ、勝三」


「どうって信長様に報告以外何すんだニャ」


「いや、まあ、そうなんだが」


「おい、お前ら。密やかに戻って家族と脱出しろ。勝幡まで来たらニャーの所領で匿ってやる」


 勝幡には恒興の領地である"池田庄"がある。もう時刻は夕刻を過ぎ夜であったので今夜のうちに勝幡まで来いということだ。二人は服を着ると一礼してから恒興の元を去っていった。


「よかったのか、あの二人逃がして。犬山に報告されたら厄介なんじゃ」


「欲しい物は手に入れた。それにまともに計算出来る頭があるなら信清殿に未来が無いことぐらいわかるニャ。あと、アイツら家族という言葉に一番反応した。居るってことだ、守りたい家族が」


「その家族も守ろうってことか、意外と優しいんだな」


「んな訳あるか、ニャーは別に聖人君子ではないニャ。ただアイツらの家族が犬山から消えれば、知り合いを通じて広まるニャ。あの二人は密書を託されるほどの家臣、それが家族ごと消えれば犬山にかなりの動揺が走るはず。止めに信長様が出陣すれば勝手に瓦解するニャ」


「……そ、そこまで考えてたのかよ、えげつねえな」


「ニャーは信長様の義弟。乳兄弟。産まれた時から傍にいる者。だからこそ自分は信長様の利益以外考えてない」


 これはもう恒興の信念であり、行動原理なのだ。


 あの二人のことだって信長に利益があるから助けたに過ぎない。そう、恒興にとってあの二人などどうでもいいことだと宣言しているのだ。


「信長様が殺せと命じれば殺す。生かせと命じれば生かす。ただそれだけだニャ」


 言い終わると恒興はスタスタと歩き出す。これからこの密書を主の元に届けねばならないのだ。


 そんな恒興の様子を見て利家は以前とは全く違うと感じていた。


「なんか変わったな、勝三。以前のお前ならあんな二人『信長様に逆らうクズめ!』とか言って殺していただろうに。結局あの二人どころかその家族まで救おうとしてるじゃねぇか」


 密書は既に取り上げていたのだから尚更生かしてはおかなかったはずだ、以前の恒興なら。


 利家は少し悔しくなる。疎遠になっていた間に、同い年の友が大きく成長していたのだ。それに比べて自分はなんという体たらくか。今現在も彼の世話になりっぱなしで功績まで譲られようとしている。


「おい、又左!何をしてるニャ、清州に行くぞ!」


「お、応」


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「……事の顛末は以上ですニャ。利家は勘当中の身の上ですので、ニャーが連れてまいりました」


 清洲城の謁見の間に恒興と利家が平伏する。


 通常夜に謁見は出来ないが火急の件ということで恒興がねじ込んだ。信長は受け取った密書を改めていく。因みに事の顛末は恒興抜きでやったことになっている。


「この書状は流石に見逃せねえ。……ご苦労だったな、利家。この功績に免じ……」


「殿!申し訳ありません!!」


 突然大声で利家が謝罪する。普通、主君の言葉を遮るなど家臣にあるまじき行動だが、信長はその先を聞くため口を閉じる。


「この功績、全て勝三のもの。私は付いて行っただけなのです!……私は未だ許されていい者ではございませぬ!!」


「……んだとぉ、それじゃ何か、恒興」


 信長の表情と声色が途端に険しいものに変わる。恒興は全身から冷や汗が出るのをかんじる。そして体が震え出す、ヤバイと恒興の本能が警告していた。


(又左!なんちゅうことを!)


「お前、このオレに嘘をついたのか?」


 目の前にいる信長の顔をまともに見れなくなってただ平伏する恒興。こうなっては言い訳など無意味だ。気を失ないそうなプレッシャーに堪えながら怒りが収まるのを待つしかない。


「オレが嘘を嫌ってるのは、よく知ってるはずだよなぁ」


(ああ、もうダメだ。ニャーは信長様に嫌われてしまった。この上はニャーの愚かさと罪に対する許しを乞い切腹するしか。さよなら今世、短かったがまた信長様に会えていい夢だったニャー)


 恒興が悲壮な覚悟を固めようとしていると信長は突然破顔して笑いだした。流石に恒興は呆気にとられてしまった。


「なんてな、びびったか」


 突然の豹変ぶりに恒興も利家も言葉が出なかった。先程まで怒りの形相だった主君が上機嫌で笑っているのだ。


「お前ら、結構前からギクシャクしてたろ。それで養徳院に相談してたんだが。」


「母上に?」「養徳院様に?」


 恒興は素晴らしく意外な名前を聞いてしまった。そして恒興の心の中にある疑念が浮かんで来た。


「おお、だからお前ら二人で何かするとは思ってたが、まさかこんな成果を持ってくるとはな」


 破顔していた信長の顔が真面目な表情に変わる。そして利家に向かい話しかける。


「だがな利家、お前がもし恒興に頼ったままで帰参を願っていたら、オレはお前を許さないところだったぞ。よくぞ正直に打ち明けた」


「は、ははっ!」


「よって前田又左衛門利家の帰参を許す。奉録は勘当前のものに桶狭間の功績で加増したものとする。……ダチは大切にしろよ」


「はいっ、殿にも勝三にも大変ご迷惑をお掛けし申し訳ありませんでした!」


「もうあんなことすんなよ。何かあったらオレに相談しろ、いいな」


「はっ!」


 次に信長は恒興に向き直る。その目は、その顔は最早怒りなどは全くなかった。


「恒興」


「はいですニャ!」


「よくやった。オレは嬉しいぞ、お前がダチの為にこれほどの成果を出した事が」


 途端に恒興は世界が目映いほどに光輝いていくのを感じる。


 これこそが恒興がずっと求めていたもの。そう、この笑顔でこの言葉で褒めて欲しかったのだ。すでに恒興は生気を取り戻し、自分が間違っていないことを喜んだ。


「時期についてはまだ決めてねぇが近く犬山攻めがあると思え。利家は復帰第1戦目だ、奮えよ」


「はっ!」


「よし!両名とも大儀、下がって良し!」


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 ほぼ夢見心地のまま、池田邸に帰り着いた恒興と利家。利家は早速にも松に報告に行く。一方の恒興もある人物に話を聞かねばならなかった。


「母上、この愚かなる恒興に一つ教えて下さいニャー」


「何ですか、恒興?」


「もしかしてニャーは謀られたのですか?」


 養徳院は気まずそうに明後日の方を向く。そして一言。


「……貴方はやる気になれば出来る子でしたから母は期待していましたよ」


「……なんちゅう世の中だ!身内までもがニャーを謀ってくる!!」


 恒興は顔を伏せて嘆く。まあなんだかんだ言っても恒興は母親に頭が上がらないのだが。


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 その後、無事長女を出産した松は利家と共に新居へと移って行った。


 養徳院は少し淋しそうにしていたが仕方ない。もうあの二人に支援は必要ないのだ。生まれた子供のためにも利家は今以上に努力するだろう。


 そんな彼等の様子を見て恒興は思うのだ。


(あれ?ニャーの嫁はどこ行ったんだ?嫁の実家である家臣の荒尾すら見当たらないんだけど?)

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