外伝 桶狭間前夜
「今川軍出陣!その数3万から5万とのこと!」
「そうか」
織田家の重臣が一堂に集った清洲城の広間で伝令が報告を行う。今川家の上洛軍出陣の報を聞き、信長は短く返事を返す。
大軍の出陣支度が一朝一夕で終わる訳がなく、この動きは二ヶ月前から分かっていた。ただ今川義元が駿府を出たのが先日だというだけである。
来るべき日が来ただけなので、広間に集まった家臣に動揺は見られなかった。皆の関心はこれからどうするということだけだ。そんな皆の気持ちを代弁するように重臣の一人が声を上げる。
「で、どうすんのさ?まぁ、採れる手段は戦うか降るかだけど」
声を上げたのは妙齢の女性であった。名を林佐渡守秀貞、那古野城城主にして織田家筆頭家老である。
「まだ決めてねぇ」
筆頭家老の問い掛けに対しても信長は素っ気なく返し、上座で不貞腐れた様に座っている。それを見て林佐渡も少し嘆息して言葉を続ける。
「そ。それじゃまず現状をまとめるよ。敵は今川軍3万から5万・・・ま、4万位だろうね。つまりアタシらの10倍だ。総大将は今川義元。現在地はおそらく遠江、1週間もあれば尾張国境に達すると思われる」
今川義元出陣からこの清洲城に報が伝わるまでのタイムラグを計算して、義元の現在地は遠江と判断した。林佐渡は義元はもたもたせず、速やかに行軍してくると踏んでいた。
「待て、佐渡よ。それは速すぎないか?上洛軍なのだから各地で歓待を受けながらゆっくりくるのでは?」
信長の左隣にいる林佐渡と対になる位置に座る大男が発言する。彼は佐久間出羽守信盛、織田家家老で武人集団佐久間一族の長でもある。
「それは本物の上洛軍ならの話だ。推定4万の軍団が上洛軍である筈がないんだよ。あれは上洛の名を被った尾張ぶっ潰し隊さ」
林佐渡は今川義元が今回の上洛に踏み切った理由を見抜いていた。そして彼女は説明を続けていく。
「大体、4万なんて人数で都に行ってみろ。次の日には京の都壊滅の報告が飛んでくるさ。都は荒れ果てて食料が無いんだ。4万なんてどう考えても維持出来ん。あの今川義元が旭将軍の故事知らん訳ない」
応仁の乱や天文の乱などで荒れ果てた京の都及びその周辺では飢饉が続いていた。毎年のように多くの餓死者が出る有り様であった。
旭将軍の故事とは今から500年ほど前、旭将軍木曽義仲も今と似たような状況で大軍を都入りさせ、兵糧の確保に失敗。結果強盗を働く兵士を抑えきれず、都を大いに荒らしたというもの。その時の兵数は1万人強なので4万人が都入りすればどうなるか。
「え、じゃあ、上洛は方便なのか?」
「最終的に行うなら方便ではないのかもね。だからさ、今川の行動予定はこんな感じじゃないかな」
林佐渡の予想ではまず大軍で尾張を制圧。然る後、軍団を駿府に戻し、改めて4・5千の兵力で上洛すると考えていた。
この時代、上洛は珍しいものではない。各地の大名が頻繁に上洛していたと言っていいのだ。その殆どは官位目的の献金が主で大名自身が数十名の供回りを連れてお忍びで行う。
かくいう信長も先頃上洛し足利将軍義輝に謁見したばかりである。兵士を連れてくる場合は少し趣が変わり、京の都の治安維持や朝廷や幕府の建物修繕などになる。その時の兵力は2・3千であり、今川軍の推定4万は明らかに度を超していた。
各地の大名が兵士を連れて上洛するとなると問題があるはずである。それは敵対勢力の存在だ。基本的に敵対勢力の領地通過は避けるだろうが、場合によっては通らねばならない時もある。これを敵対者が黙って見逃すであろうか。……実は見逃す。何故なら上洛とは朝廷、幕府のため行うものであり、これに敵対行動を採るのは朝敵、幕敵に認定されてもおかしくない反逆行為になる。実際に認定されるかどうかは別だが、大体の人々がそう認識していた。
なので上洛軍は各地で歓待されることも多く、中にはこの歓待を機に大名同士の仲が良くなる場合もある。今川の上洛に際しては同盟相手の武田家、北条家から祝辞の手紙が贈られている。つまり上洛とは基本慶事なのだ。
今川義元はこれを戦略に組み入れ尾張侵攻の大義名分にしたのである。なので彼は尾張を制圧した後こう言い訳するであろう、『織田家から攻撃されたから反撃しただけ』と。
「先に言っておくけど籠城策は下策。降伏という結果しかない。そもそも尾張は地形的に守りに向いてないしね」
「援軍は?伊勢や伊賀、近江の豪族達は?織田家と誼を通じているのがいるだろう」
「ダメ、全員なしのつぶてだ。どいつもこいつも言うことは一緒。『上洛軍の邪魔をするような慮外な真似は出来ん』とさ」
織田家は先代の頃から周辺豪族と誼を通じ、各地の通商路の安全を図ってきた。その品が陸路、海路から津島に集まり、そこから各地の市場で捌かれる。そして津島の商人達の利益から織田家への上納金が出される。これが織田家の屋台骨を支えていると言っても過言ではない額を産み出していた。それゆえ津島の利益拡大のためにも周辺豪族・国人衆との関係には気を配っており、援軍も期待出来るほど良好なのだが。
「今川が上洛を謳ってなきゃ期待出来たんだけどな。やられたよ、織田家は完全に孤立した」
上洛軍の邪魔は慮外者のする事。そう世の中に常識として認識されている以上、今川義元の目論見を覆すのは難しい。
だがこの"上洛"という大義名分は織田家に対する縛りになると同時に今川にも縛りになるのだ。林佐渡はそれを全員に周知させるためにこの場を設けさせたと言っていい。
「幕府から今川に止めるよう言ってもらえないのでしょうか?」
二十歳前後の若侍が発言する。彼は若い頃から信長に仕え頭角を現してきた者で五郎左と呼ばれている。
「そいつは無理だよ、五郎左。今にも三好に攻め殺されそうな将軍様が今川の上洛を止める訳ない」
五郎左は名前ではなく通称で、正しい名乗りは丹羽五郎左衛門尉長秀である。現在は織田家の武将を勤め、一備(一軍)の大将を任されている。
「朝廷も同じさ、今川は金持ちだからね。絶対期待してるよ」
「むぅ、八方塞がりですね」
「そうか、籠城は無意味か。では迎撃に出るとして、戦場は何処だ?」
佐久間出羽が腕が鳴るわという感じで聞いてくる。彼は今川軍と戦う気であったため、林佐渡は間髪入れずに止めにかかる。
「いや、出るなよ!敵対行動と取られて攻めかかる口実にされるだろうが!」
「えっ?じゃあ、何で儂ら家臣の大半が清洲城に集まっとるんじゃ?」
「そんなもん、現状説明とお前達が暴走しないようにするためだって」
この戦いがどういう決着を見るかはまだわからないが、初手については既に決まっていた。林佐渡による交渉である。この交渉中に家臣が暴走しないように大半を清洲城に集めたのである。
尾張三河国境には佐久間大学頭盛重を送り抑えとしてある。彼ならば部下の暴走を抑えられると信じての人選である。
「じゃあこれからどうするんじゃ?」
「そうだな、まず今川本陣が尾張国境あたりまで来たら勧告の使者が来る。この使者の口上次第で対応を決めたらいい。そこから先はアタシの仕事だ、上手いこと交渉して織田家の身代を出来る限り大きく残してみせるさ」
つまり戦うか降るかはこの交渉の後決める話で、既に対応など決まっていたということだ。なので信長は上座で不貞腐れているのである。
「今川の目的は尾張支配であって、何が何でも織田家を滅ぼすことじゃない。尾張支配に織田家が必要なら向こうも折れるさ。名目上、今川軍は上洛軍であって尾張侵攻軍ではない。こちらが交渉に応じている以上、手荒な真似は出来ん。それでも武力を振りかざすようなら諸外国からの信頼を失うことになる。つまり上洛自体が今川を縛る鎖になるってこと」
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家臣全員が去った後の広間に信長と林佐渡は残った。信長はつまらなそうに酒をあおり続ける。
「殿は今回の件、気に入らないのか?」
今回の件とは勧告の使者が来たら交渉して織田家を臣従させることである。
「……臣従が仕方ないのは分かっているさ。でも一戦もせずにはさすがに嫌だ。武門の意地が立たねぇ」
「気にしてる場合かと思うけど、まぁ、それも合わせて交渉するよ。一戦付き合ってもらえないかって」
信長は計算の出来ない人間ではない、むしろ計算高い方の人間である。信長は幼い頃から奇行が目立ち、回りから"うつけ"と呼ばれた。だがその奇行は信長にとって意味のある行動ばかりだった。ただ意味を理解出来ない人間が彼をうつけと呼んだのだ。
それが真に発揮されたのは"稲生の戦い"だろう。信長にとっては実の弟・信勝との戦いなので、あまり良い思い出ではないが。
まず佐久間大学頭盛重に名塚砦を築かせ、敵を引き付けさせ、その後背を信長が強襲し勝利したのだ。当初信長が来援するには川を渡河する必要があり、当時は長雨で増水していたため不可能と思われていた。だが、あっという間に信長は渡河し、信勝軍を率いた林美作守を討ち取った。この信長があっという間に渡河出来た理由こそ、彼の奇行の一つである『徒弟を引き連れて毎日の如く川遊び』だった。実は信長はこの川遊びを至る所で行うことで、何処がどのくらいの増水で渡れるかを知っていたのだ。と同時に水練も鍛えていた。
故に信長という人物は無意味な事を嫌う傾向にあった。然るに今川との戦は全く勝算が無く、無意味だった。なにしろ兵力差は10倍、援軍の当ては無く、尾張の国の東側は起伏が乏しく守れる地形ではない。勝ちの目など初めから無い。
だから、林佐渡の方針を信長は大筋認めていた。ただ悔しくはあった。
「殿の気持ちもわかるさ。ようやく尾張を統一したっていうのに、その成果を奪われようとしているんだ。でも考えてごらんよ、この織田家、織田弾正忠家は元々尾張守護斯波家の部下の部下じゃないか」
織田信長の織田家とは織田弾正忠家といい尾張守護の斯波家の部下・尾張守護代の織田大和守家の部下の三奉行家の一つでその初代は信長の祖父という比較的新しい家だった。
「守護の部下の部下が守護今川家の部下になるんだ。充分な出世だと思うよ」
林佐渡の言葉を聞いても不貞腐れた様子に変わりはなく、信長は酒をあおり続けるのだった。
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「ようやく尾張国境まで来たか。織田に動きはあるか?」
おしろいを顔に塗り、お歯黒をした武将が控えている部下に質問する。明らかに異様な風体なのだが誰もその事を指摘はしない。何故ならおしろいやお歯黒は高貴な様相にあたるし、何よりその人こそが彼等の主君・今川治部大輔義元であったからだ。
「いえ、静かなもので。砦の兵も全く出てきません。観念した様です。」
「そうか。殊勝なことよ」
「それでこれから如何致しましょうか」
「勧告の使者を遣わせ。ここからは交渉じゃの。これで麿の狙い通り、無傷の尾張が手に入るのぉ」
義元にとって尾張は何としても手に入れたい土地だった。何しろ尾張の石高は全国有数のもので駿河・遠江・三河の合計石高に匹敵するものがあった。大雑把ではあるが。つまり現在の今川家の領土では食糧生産に難があり、今回の派兵も兵糧はかなり無理をしていたのだ。無傷の尾張を占領することで今川家の食糧事情を大きく改善する。
義元はその為に信長が尾張を統一するまで待ってていたのだから。
「前陣の松平、朝比奈には待機を言い渡しておけ」
「ははっ」
「殿、この地に留まり交渉なされるおつもりで?」
「ん、何ぞあるのか?」
「此処は桶狭間というらしいのですが、少々手狭で軍が延びぎみでございます。本陣を別の場所に移すべきでは?」
「ふむ、そうじゃのぉ」
義元は少し考え込むが直ぐにイタズラっ子の様な顔をした。
「そうじゃ、いっそのこと此処を偽の本陣にすればよいのじゃ」
「え?一体何をなさるので?」
「つまりじゃ、ここに織田の奇襲があるかもしれんと言いたいのじゃろう」
「はっ、その通りで」
「ならば麿は秘かに後方へ下がり、織田のうつけが来たらプギャーと笑ってやるわ」
義元はこの桶狭間の陣に自身の馬印『赤鳥』を残し、この東方にある田楽狭間に本陣を移すよう指示を出す。
「奇襲など外してしまえば問題無いのぉ。前陣と挟み込んで潰せばよい」
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「殿、今川義元公からご命令が出ましたぞ」
伝令から指示書を受け取った松平家家老・鳥居忠吉は直ちに自分の主である若者に伝えた。柄杓から水を飲む武者姿の若者はやっとかという感じで破顔した。
若者の名は松平元康、三河松平家の当主であった。
「おお、ようやく出陣か。待ちくたびれたわ。……で、我等の担当は何処だ?」
「いえ、織田家と交渉に入るので待機と」
織田家が交渉に応じるということは、即ち臣従の交渉である。元康は愕然とした、彼は今回の戦で大功を立てることを望んでいたのだ。
「なんだと……それでは武功が稼げないではないか。このままでは松平家の再興が・・・」
「まぁ、致し方ありませんな。次の機会を待ちましょう」
「ばかもん、じい。次など何時になるかわからんのだぞ。今回の出陣は尾張を制圧したら終いなのだ。兵糧の消費がバカにならんからな」
この時元康は義元の計画の大筋を聞かされており、今回の戦いが尾張制圧のみで終わってしまうことを知っていた。これが交渉で終わってしまったら武功が稼げない、悲願である松平家再興は遠のいていくのだ。
いや今川家が尾張を制圧し力を増せば、その分、松平衆の重要性も薄れていく。このまま行けばお家再興の話はされなくなるかも知れない。
元康は『いつかは』ではなく『今すぐ』にでも再興を成し遂げたいのだ。だからこそ彼は考えた、抜け駆けしても怒られないだけの理由を。
「何とか出来んものか……そうだ!大高城だ!」
「は?」
「敵中に囲まれておる大高城では兵糧が不足しておると報告があった」
大高城とは元々は織田家の城だったが、ごく最近城主が今川家に寝返った。このため急遽造られたのが丸根砦と鷲津砦である。この両砦は大高城を囲むように作られており、城の補給線を圧迫していた・・・わけではなかった。確かにこの両砦は東側の陸路は塞いでいるが、西側の海路は空いたままで補給は難しくないと思われる。
なので丸根鷲津両砦の役目は最前線及び大高城の監視であった。……そも、妨害できるだけの兵力は砦には配置されていないのだから。
「?はて、その様な報告聞いた憶えがありませんが?」
「……あったと言うことにしておけ。それで我が松平隊は友軍を救うべく、大高城を目指すのだ。だがその途中で丸根砦から攻撃を受けた。これでは砦を攻略せねば大高城は救えぬ。故に我等は丸根砦を陥とす。どうじゃ」
「おお、さすがは殿、機転が利きますな。では早速抜け駆けるとしましょう」
「よし、出陣じゃ!!」
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松平隊の隣で前陣を務めている朝比奈隊の大将・朝比奈泰朝は松平隊の動きを部下の報告で知った。
「何!?松平の小僧が丸根砦に向かっているだと!?」
「は、その様で。」
「これは流石に軍令違反なのでは?」
確かにこの松平軍の動きは軍令違反となる。だが「だから何」と言えるくらいに彼らは気にしないし、罰せられることもない。
そこには大名の悲哀というべき物が存在していた。
基本大名とは中央集権化が出来ておらず、実力のある豪族を家臣にして連合体を形成している。また大名と共に任地に来て土着し豪族となる家臣もいる。駿河朝比奈氏がその典型である、彼らの祖は相模三浦氏と言われている。
戦国大名とはそこから抜け出して中央集権化に成功した大名の事を言うようだが、もしその定義ならば現段階で戦国大名と呼べるのは2家しかない。関東北条氏と中国毛利氏である。甲斐武田氏も半ば成功していたが完成はしなかった。そのため後年織田、徳川への裏切りが続発して滅びることになる。
そう、豪族は裏切るのだ、故あらば簡単に裏切ってしまうのだ。
もし、この軍令違反を罰したりすれば松平衆は丸ごと敵になる恐れすらある。なのでこの場合の対応は武功を立てれば無問題か、呼び出して殺すかになる。(抜け駆けしておいて武功を立てなかったら流石に怒られる)
因みに織田家から今川家に寝返って大高城、鳴海城を引き渡した城主は義元に領地を差し押さえられた挙句息子共々殺されている。裏切り者で信用できない小豪族など生かしておく価値はないということだ。
だが松平元康が率いる松平衆は違う、ガチでヤバイ大豪族だ。それゆえ今川義元であっても思い切った手段は採れず、元康を駿河で養育&姪婿にして懐柔と至れり尽くせりで対応しているくらいである。
「いや、これは抜け駆けだ。武功を立ててしまえば何とでもなる。……いかん!あの小僧、武功を稼いで我等を見下す気なのだ『今川家の諸将も案外情けないですな、ププッ』とか言うつもりなのだ。ゆるせん!!」
「なぁ、松平元康殿はそんなこと言う御仁なのか?」
「いや、聞いたことねぇな」
こうなると彼の妄想は止まらない。そもそも彼にとって松平元康は只の新参者、足利吉良今川と足利御連枝を支え続けた名家朝比奈とでは格が違うと彼は思っていた。それゆえ義元に厚遇される元康が気に入らないのである。
「まさかあの小僧、殿に『情けない駿河遠江衆より、これからは三河武士の時代ですぞ、うひーひひひ』とか言って取り入るつもりだな。……もはや生かしてはおかぬ!!」
「なぁ、松平元康殿はおべっか使ってすり寄る御仁なのか?もっと武骨な方のイメージがあるんだが」
「あ、俺もそんなイメージ」
「儂らも出陣じゃ!!」
「えっ?どちらへですか?」
「まさか味方討ちじゃないですよね」
如何に抜け駆けが許せないとは言え朝比奈隊と互角の兵力を持つ松平隊が戦えば混乱は避けられないどころの騒ぎではない。最悪、今回の戦が無為になる可能性すらある。
もしそうなら何としても止めなければと部下の二人は覚悟する。
「当たり前じゃあ!奴等が丸根砦を落とすなら、我等は鷲津砦を落とす。これで対等、デカイ顔などさせんわ!」
「確かに」(良かった、まだまともだった)
「では本陣に伝令を……」
「馬鹿者、これは抜け駆けなのだ。連絡などいらぬ、出陣じゃ!!」
小雨の降りしきる中、本陣、松平隊、朝比奈隊は独自の行動を取り始める。これが決定的な隙になるなど、この時誰も予想できなかった。
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「ほんと、殿って子供ぽいわね」
織田信長の正室・お濃の方がよそったご飯を渡して嘆息する。この女性は名を帰蝶といい、美濃斉藤家の前当主、斉藤道三の娘にあたる。よくお濃の方とか濃姫とか呼称されるが、これは『美濃から来た方』という意味で名前ではない。愛称の様なものである。あともう1つ鷺山殿と呼ばれることもある。これも一緒で『鷺山城から来た方』である。
「藪から棒に一体何だ」
信長は受け取ったご飯に漬け物をのせ、お湯ををかける。『湯漬け』と呼ばれる食べ物だ。先程からこうして二杯目の湯漬けを食べていた。
「そうやって好きなものばかり偏食するところよ。もっとバランス良く食べなさいよ」
「お前は俺のおかんか!?」
「義母上が言えないから、私が言ってるのよ!」
信長は幼い頃から母親である土田御前とは疎遠であった。
早くから嫡男と定められた信長は父・信秀から当主としての徹底指導を叩き込まれる。そして幼い信長と引き離された土田御前は次に生まれた信勝を偏愛するようになる。
父からは厳しい指導、母からは可愛がって貰えず信長は……そこらの悪ガキを集めて非行に走る様になってしまった。つまりグレたのだ。
こういった行いで母親との溝はさらに深まり、止めは弟・信勝の謀叛である。謀叛である以上信勝に同情の余地はないが、我が子が殺し合い、片方は死んでしまったのだから彼女の悲しみは想像を絶するだろう。間違ってもこれからは信長と仲良くなどとはならない。
ただ距離を置いてお互い会わない様にしている状態だった。濃の方はこの状態を憂い何とか改善を試みるも二人の雪解けはまだ遠かった。
「殿!一大事にございます!」
信長の私室にまでやってきて報告を行う家臣。余程の重大事なのだろう、普通家臣は外で待機して信長が出てくるのを待つものである。そしてその家臣の口から予想だにしていなかった報告を聞くのだった。
「今川軍、丸根・鷲津両砦に攻め掛かっております。敵軍どちらも5千強。落城必至でございます」
そう、今川軍は交渉、降伏勧告、宣戦布告のいずれもせず攻めかかってきたという報告だった。
「大学は!?佐久間大学はどうした?退却できるのか?」
「その大学様より言伝てがあります。『援軍無用』と」
「援軍無用だと……」
信長はこの言葉を反芻した、佐久間大学からこの言葉を聞いたことがあったのだ。
あれは稲生の戦いの時だ。名塚の地は弟・信勝の勢力圏だったが、そこに砦を建てて籠るという任務を佐久間大学に託した。普通に考えれば敵地に砦など簡単に作れる訳がない。だが佐久間大学は信勝の附家老でありながら、信長の才能に未来を託した人物だった。
そのため信勝との手切れと同時に名塚に砦を築いた。しかも建材は前以て加工し嵐に乗じて一夜で完成させたのだ。この行動に際し信長は前以て増援を出そうとしたが、佐久間大学は断った。
「信長様の兵が動けば相手に覚られるでしょう。なので『援軍無用』、名塚は必ず守り通します。信長様はご自身の戦をしてくだされ」と言っていたのだ。
そのため佐久間大学は信長の寵臣であり、数少ない信長の理解者でもあった。
その彼が最前線の丸根砦にいるのは佐久間一族・武将として人望の高い彼でなければ兵が抑えられないからだ。佐久間大学がいなければ今川軍推定4万が来ただけで逃散しているだろう。心の支え無しに迫りつつある絶対の死に立ち向かえる人間は少ないのだ。
佐久間大学が言った『援軍無用』の意味は名塚と同じく、何があっても守り通すということだろう。そしてそれは彼の死を意味していた。なにしろ戦力差は丸根砦2百対し今川軍5千なのだ。
信長は手に持っていた椀を口に運び、残った湯漬けを一気に平らげる。
「お濃!鎧を持ってこい!恒興!」
「はいですニャ!」
襖を開いて恒興が姿を現す。今日は信長の護衛として近くに控えていたのだ。
「今すぐ出られるヤツでいい。準備させろ、出陣るぞ!!」
濃の方が小姓、女中と共に鎧を持って来て信長に着せていく。それが終わるや否や信長は馬に乗って清洲城を出た。その直ぐ後を恒興が続き、起き出した近習も準備が出来次第後を追っていった。
「チクショー、大学、死ぬな!今すぐ行くからな!!」
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「今川が攻め掛かってきただって?ウソだろ」
報告を受けて林佐渡は愕然とした。まだ勧告の使者が来ないうちから攻撃を受けたのだ。
この戦国という時代はそこらじゅうで戦をしてはいるのだが戦いの作法というものは暗黙的に存在している。
その一つが開戦の名分というものだ。これを立てずにいきなり攻撃をすることは常識外れである・・・と言えれば楽なのだが、自分都合の拡大解釈がこの時代のスタンダードなのであまり当てにはならない。ただこれを怠りすぎると周りから信用されなくなるので注意が必要である。
特に今回の今川軍は上洛なので信用を失う真似はしてはならないということを考えれば、使者が来ないなどあり得ないのだ。
「そんな、そんな事が……そんな……そうか……そうか、そうか、そうかよっ!!」
使者が来ない理由、それは一つしかなかった。
「アイツら、最初からアタシらを殲滅する気なんだ、そうか、そうか……ふざけやがって!」
『織田家から攻撃されたから反撃しただけ』という苦しい言い訳を使うつもりなのだろうか、義元にしてはバカな選択をしたものだと林佐渡は思う。だが事ここに至っては論じている暇はない。
「向こうがその気なら仕方がないね。……捕まって斬首なんてまっぴら御免、派手に斬り死にしてやる!!真っ赤な徒花を咲かせてやろうじゃねぇか!!」
林佐渡は気の弱い内政官などでは決してない。内政担当になる前はちゃんと戦場で部将を務めていたのだ。ただ、内政を重視する先代織田信秀にその手腕を買われ、その実績から信長も内政官として重用しているに過ぎない。覚悟を決めたなら討ち死にも厭わないのだ。
「おい、お前。佐久間出羽を起こして軍勢を用意させろ。アタシは殿を起こしてくる」
「あ、林様。殿なら既に出撃されましたが」
「……はぁ!?」
「あー、今と同じ報告をしましたら飛び出して行かれまして」
「何騎だ!?兵は何百ついて行った!?」
「そうですね……池田様をはじめ5、6騎かと」
林佐渡の身体がフラッと傾く。目頭を押さえて、軽い目眩に耐える。今川が攻め掛かってきた報告より衝撃的だったからだ。
ツッコミ所としては目的地も言わず出たこと、これでは行方不明だ。
次は指示を出すべき総大将が家臣を置いて消えたこと、一家の当主失格である。
そして5、6騎で一体何が出来るのか、最早意味が判らない。
信長が『うつけ』と周りから言われる最たる理由がコレである。つまり自分の考えを全く人に言わないで行動するである。
頭が痛い、胃が痛いがそんな事言ってられない。林佐渡は今出来る最善を選択し行動を起こした。
一方佐久間出羽は時折イビキをかきながら眠りこけていた。なにしろ今回の件で彼がする事は一つも無いのだ、せいぜい使者がきたら出迎える程度だろう。待機中だから仕事もしなくていいので、好きなだけ寝れる休暇を楽しんでいた。
「佐久間出羽っ!!起きろ!ごるぁぁぁああっ!!!」
「のわぁぁぁ!」
そこに襖を蹴破って叫ぶ闖入者が来なければ、もっと堪能出来ただろうが。
「な、何だ!?佐渡か!?あ、いや、夜這いは困る。儂には妻というものが……」
「くそ寝惚けてんじゃねぇよ、この筋肉ダルマが!!さっさと全員起こして出陣準備させろっ!!殿は既に出陣してんだよ!」
「な、何だってー!!わ、わかった、すぐに準備する」
「貝を吹け、鐘を鳴らせ、全員叩き起こせ!!」
鐘の音が清洲城内に鳴り響き、法螺貝も吹き渡る。城内はもうてんやわんやの大混乱だった。
「出陣!出陣!」「準備の出来た者から出ろ!」「何処行きゃいいんだ!?」「俺に聞くな!」「誰か着付け手伝ってー!」「一人でやれよ!」
とにかく東門から出る、彼らにわかるのはこれだけだった。叩き起された上に出陣以外の情報はもらっていないのだから分からないのは当然だ。おそらく指揮官クラスが東門から出たのだろう、準備が出来た者は順次東門から出ていたので細い列ができており迷う心配だけはない。
そしてその先頭には林佐渡と佐久間出羽がいた。
「それで佐渡、出陣したのはいいが……殿は何処行ったんだ?」
「そんなもんアタシが一番知りたいわ!!」
佐渡は思考する、信長は何処に行ったか。東に行ったのは間違いない。なぜなら信長は戦に怖気づく性格ではないし、勝てないと判断して落ち延びるには早すぎる。なら丸根攻撃を聞いて、反射的に出たと思われる。
今頃は冷静になって兵がいないとどうにもならないことに気付いているはずだ。ということは誰かが兵を連れてくるのを待っている、恐ろしく他力本願だが。
問題は何処で待っているかだ。兵数は多分3千程、この数を編成するには場所が限られる。林佐渡の那古野城か熱田神宮くらいだ。那古野城に居るなら林佐渡の部下から早馬が飛んでくるはず。
ならば消去法だが熱田神宮だろう。
「熱田だ!熱田神宮に行くぞ!」
「そこに殿がいるのか?よし!皆の者、熱田神宮に向かうぞ!続け!」
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一方の信長は林佐渡の読み通り熱田神宮にいた。信長、恒興を含めて総勢7人、熱田神宮の本殿前に整列し祈りを捧げていた。
「ねえ、殿、ニャー達はこんなことしている場合なんでしょうか?」
「うるせーぞ、恒興。祈れ、熱田の神様に大学の無事を祈るんだよ!」
信長も大分焦っていた。
急いで飛び出してしまったため兵が付いて来ず、さりとてカッコ良く飛び出した手前戻るとも言えず。こうなると誰かが兵を連れてきてくれると期待するしかないので、やることもなくただ祈っていた。
だが流石に戻ろうかなと思い始めたとき、林佐渡が軍勢を引き連れて熱田神宮に到着した。信長達も門前で軍勢を出迎える。と、そこに信長の姿を認めた林佐渡が駆け寄ってくる。
「殿~、とーのー。お待たせ~……ふんっ!!」
「おお、佐渡。待っていたぞ……て、うわっ!?」
信長を発見するやいなや林佐渡は両足で踏切り、信長にぶつける勢いで跳躍していた。両足を向けて。
「佐渡、てめぇ!主君にドロップキックをかますって、どういう了見だ!?」
「何数騎で飛び出してやがんだ、この野郎!!アタシが気付いて全員を叩き起さなかったらどうなっていたと思ってやがる!!」
着地した林佐渡は即座に後ろ回し蹴りを放つ、そこから正拳突き、左フック、中段蹴りと繋いでいく。
「だからこの熱田神宮で待ってたんじゃねぇか。ここでなら軍団編成もできるだろ?」
キッチリ林佐渡の攻勢を捌きつつ、キリッとしたいい顔で宣言する信長。
彼の言う通りで進軍とは誰がどの順番で進むのか決めておくものであり、まず整列して軍団を将の元に振り分け順番に出発するものだ。なので軍団を編成する際は大人数を整列させるための開けた広い場所が必要なのである。
「清洲城でやればいいだろが!!熱田まで殿を探すだけ手間じゃ、ボケ!!」
掌底打、裡門頂肘、中段刺突蹴りと林佐渡の攻勢は尚も激しさを増していく、流石の信長も防ぎきれなくなってくる。
「ちょっ、誰か止めて!佐渡がいつもの3割増でキレてる!」
流石に主君と筆頭家老の喧嘩に手出し出来る者などいる訳もなく、林佐渡がキレる理由も大体全員が察してしまったため誰も助けには行かなかった。というか巻き込まれたくなかった。
「イカン、佐渡の奴。戦場の近くまで来て頭が沸騰しておる。その身に”サドの神”を降臨させ、能力のギアが天井知らずで上がっておるわ!」
「ニャ、ニャんだってー!!……で、今ギアは何段目ですニャ?」
「知らん」
「出羽殿、それ言いたかっただけですか……ってニャー!?」
恒興は横から突然伸びてきた手に引き寄せられる。その手は主君信長のものだった。
「上総介流奥義”義弟の盾”!!」
「何の!!”撃ち貫く左”!!」
盾にされてしまった恒興だが、そこに容赦なく林佐渡が打撃を加える。振動貫通の掌底打である、鎧を着込んでいる恒興でもひとたまりもなかった。
「ごっふぅ……ひ、ひどい……ニャー……ガクッ」
(ヤ、ヤバイ。恒興が逝った今、次はワシの番か?早く逃げないと)
最早殺意の波動まで発している様に見える二人に仲裁の言葉など無意味だろう。何とかしてこの場から逃げなければ、恒興の二の舞は避けられない。佐久間出羽は頑張って考えた。
「あー、あのー、殿に佐渡ー。今のうちにー軍団編成やってもいいかなー。なんてー思うんだけどー」
「さっさとやれぇ!!」
「言われんでもやっとけやぁ!!」
「はぁい、やっときまーす。……うーし、お前ら並べ。ハイ、前倣えしろー」(助かったー)
……色々あったがこの2刻後ほどで出発できたという。
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小雨であったはずの天気は豪雨へと変わっていき、進軍すら難しくなってくる。風が強くないだけマシだが視界が利かないのだ。
現在は土地勘のある者を先頭にたて進んでいる状態である。進軍路は東側から回り道をして丸根砦に向かうことにした。熱田から南下して最短距離で丸根砦に行くのは、途中に今川方の鳴海城があるため不可能だった。
丸根砦を救うにも奇襲でなければならず発見を避けるためだ。だがそれが致命的な時間ロスになったことを信長は報告で知る。
「丸根、鷲津両砦、既に今川の猛攻により陥落。大学様以下全ての兵も残らず討ち死にとのこと」
「ま、間に合わなかったのか、オレは……大学、大学ー!!」
信長は膝を落とし、前のめりになって佐久間大学の死を嘆く。諸将も力なく肩を落とす。援軍が意味を失ったのと佐久間大学という名将を失ったことに。
「……ん、そうか、わかった」
駆け寄ってきた乱波者から報告を受けた林佐渡が信長の元に歩いてくる。いつもなら乱波者の報告は信長自身で受けるのだが、今はその状態ではないと判断したためだった。
「……まだ泣いてんのかよ、殿がこんなんじゃ大学もうかばれねぇな」
「……んだとぉ、佐渡!ぶち殺されてぇか!!」
信長は立ち上がり林佐渡の胸ぐらを掴んで凄む。一方の林佐渡の目は冷たく、気にしている様子すらない。
「報告聞いた後で殺れよ。殿に殺されんのも、今川に殺されんのも大した違いなんかないさ」
林佐渡は構わず報告を続ける。今知ったばかりの驚くべき情報を。
「今川本陣の場所が判明した。ここから2里東、"桶狭間"だ。義元の馬印”赤鳥”を見たと細作が報告してきた」
「は?バカな、何で本陣が剥き出しで存在してんだよ?前陣は何処行ったんだ?」
当然の疑問である。本陣とは通常部隊の最後方に置くべきもの、それが前衛などありえない。本陣を囮にして敵を釣るという戦術もなくはないが、それは伏兵を各所に配置しての話だ。
この段階で今川軍が伏兵を仕掛ける意味は全くない。単に数で押しつぶせばいい立場に居るのだから。信長はこの報告が信じられず罠の可能性も考え始めたのだが、林佐渡はその可能性を否定した
「殿、アタシの考えが正しけりゃ丸根と鷲津を襲った奴等が前陣だ。奴等は抜け駆けしたんだ、だからこの豪雨も相まって今川本陣に情報が伝わって無いんだよ。」
更にこれは織田軍は知らなかったが義元は桶狭間に偽物の本陣を置いていた。この為前陣の異変に気付いた者が報告に来ていたが、肝心の義元がいなかったので伝わらなかった。
「わかるか、殿。これは大学が命を捨てて作った千載一遇のチャンスなんだ!これを泣きべそかいてムダにするなら、アタシは今度こそ殿を『大うつけ』だというぞ!!時間はない、前陣は直ぐに戻る筈だ」
信長の目が据わる、覚悟が決まった顔だ。そして横に居る佐久間出羽に進軍の指示を出す。
「出羽、号令を掛けろ。速度重視だ」
「応!全騎騎乗!!騎馬武者先行!!足軽は遅れて付いてこい!!」
佐久間出羽が大声を張り上げる。この豪雨の中でも彼の大声はよく響いた。そして全員が騎乗し進軍態勢が整うと信長が命令を下す。
「行くぞ!目指すは桶狭間だ!」
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