木曜日(2)
十分ほどで病院に着いた。受付でユミカの病室を尋ね、急ぎ足で向かう。
ユミカは一人部屋に入っていた。部屋の名札を確認し、ドアをノックすると、少しして中年の女性が顔を覗かせた。黒髪を後ろで束ね、ユミカに似て美人で、彼女の母親であろうことはすぐに分かった。白いブラウスに紺のスカートを穿いて、線が細く、上品な印象を受ける。彼女は僕を見ると顔をしかめ、「どちらさまですか?」と尋ねた。
「ユミカさんのクラスメイトの、川相といいます。ええと、お見舞いに来ました」
知らない人と話すのは苦手で、詰まりながら名前と要件を伝えた。「はあ」と母親は困ったような顔をして応えた。
「せっかくお越しいただいたのに申し訳ありませんが、娘は今、話ができる状態ではございませんので……」
不要なセールスを追い返すような口ぶりだった。どうやら僕は不審者として扱われているらしい。ただ、彼女が嘘をついていないとすれば、ユミカが眠ったままでいるのは間違いなさそうだ。ここまで来て帰るわけにはいかず、食い下がる。
「ユミカさん、眠ったままなんですよね? 彼女を起こすことができるかどうか、僕に試させてもらえませんか」
母親は目を見開き、驚きを隠さなかった。大方、学校にも詳しい病状は伏せてあったのだろう。どうして娘の容態を知っているのか。彼女の顔にはそう書いてあった。
「少々お待ちいただけますか」
母親は一旦ドアを閉め、中に引っ込んだ。他に誰か来ているのだろうか。もしかして、例の父親が――。ユミカの話を思い出し、怒りがこみ上げてきたところでドアが開き、再び母親が姿を見せた。
「どうぞ、お入りください」
会釈して病室に入る。ベッドの側には、グレーのスーツ姿で、厳めしい顔つきをした中年男性が立っていた。銀縁の眼鏡をかけて、白髪混じりの髪を七三できっちり分けている。彼がユミカの父親だろう。
僕は怒りを押し殺し、改めて会釈をして、ベッドの横に通してもらった。父親もまた、僕を怪訝な表情で見つめていた。学校のある時間に制服を着た生徒が尋ねてきたのだ。しかも貧弱でみすぼらしく、娘の恋人には見えないだろうし、そう思いたくもないだろう。怪しまれるのも無理はない。ひとまず、ベッドの側に置かれたパイプ椅子に座らせてもらう。
ユミカは眠っていた。本当に眠っているだけのように見えた。左腕には点滴が繋がれ、そこから水分や栄養を補給しているようだった。
「昨日の朝から、ずっと眠ったままなんですか?」
「……医者はどこにも異常はないと言うが、君は何か知っているのか?」
僕が尋ねると、父親は逆に質問してきた。もしかしたら僕に一縷の望みを見出したのかもしれない。僕は「いえ」とだけ答えた。夢云々の話をしても信じてもらえるとは思えない。そうして僕はユミカの名を呼んだが、やはり返事はなかった。
「なあ、ユミカ。意地張ってないで起きてくれよ。夢の中で写真を撮っても手元に残せないだろ? 起きてきて、好きなだけ撮ればいいじゃないか。それで、また僕にも見せてくれよ。今度はファミレスじゃなくて、おしゃれなカフェに行ってさ……」
豪介には似合わないよ。そんな風に言って馬鹿にしてほしいのに、ユミカは涼しい顔をして目を閉じているだけだった。僕は涙をこらえきれなくなり、彼女の右手をぎゅっと握った。柔らかくて、温かい掌だった。
「一緒にオーロラを見に行こうって言ったじゃないか……」
必死に語りかけていると、「君」と父親に声をかけられた。高圧的な声色だ。
「君がユミカをそそのかしたのか?」
「……そそのかした、とはどういう意味でしょうか」
聞き捨てならず、父親に向き直り、挑戦的に言い放った。
「ユミカには立派な許嫁がいる。少し社会勉強をさせたら、すぐに婿を取らせるつもりだ。どこの馬の骨とも分からん男と戯れて、写真なんぞにうつつを抜かすような真似は許されんのだ」
父親は激しい口調で言い、僕を睨みつけた。母親も責めるような目でこちらを見ていた。僕もカッとなり食ってかかる。
「ユミカは自分の意志で写真を撮って、プロを目指したいと言ってるんです。そのための勉強をしたがっていますし、許嫁との結婚だって望んではいません。どうしてわかってあげられないんですか。どうして彼女の意志を汲んであげられないんですか」
「黙れ、君に何がわかるんだ。ユミカはうちの娘だ。うちのことはうちで決める。そもそも君はユミカの何だ」
父親も譲る気配を見せない。その口調はますますヒートアップするばかりだ。
「僕は……ユミカの恋人でも何でもありません。友達なのかどうかもわからない。でも、ユミカの気持ちは多少なりとも理解しているつもりです。ユミカはあなたたちのペットでも、所有物でもありません。彼女は一人の人間なんです。あなたたちの言いなりにはならずに、自分の考えをしっかり持って、その道を歩んでいこうとする強い人間なんですよ」
僕も負けじと食ってかかる。
「出て行け、今すぐにだ」
父親は議論を放棄して僕に掴みかかった。ありったけの力で抵抗したが、彼は力が強く、徐々にユミカから遠ざけられていく。それでも引くわけにはいかない。このままではユミカが帰ってこられない。
「ユミカの言い分をわかってもらえるまで、ユミカが目を覚ますまで、帰りません」
諦める気配のない僕に業を煮やしたのか、「おい、人を呼べ」と父親が言った。そのとき、母親が「あっ」と声をあげた。
「あなた、ユミカが……」
父親は僕を離し、すぐにベッドに駆け寄った。僕も後ろから覗き込む。
「やめて」
かすれた声でユミカが喋った。やがてゆっくりと瞳を開いたが、明かりがまぶしいのか、あまり目を開けていられないみたいだった。両親は彼女の名を繰り返し、母親は泣いてさえいた。しかし、ユミカは両親には目もくれず、僕の名を呼んだ。両親は不服そうな顔をしながら席を譲った。僕は再び腰掛け、彼女の右手を握った。
「大きな声出さないでよ。みっともない」
ユミカは声にならない声で言って、力なく笑った。寝ていただけとはいえ、食事も取っていないのだから、それなりに弱っているのだろう。
「豪介の声がしたから、何かと思って聞いてたら……こっちが恥ずかしくなるような台詞をべらべらと……」
ユミカの両目から涙がこぼれ落ちた。僕も鼻をすすってから尋ねる。
「迷惑だった?」
「ううん、嬉しかった……」
それ以上言葉は出てこなかったが、もはや必要ないように思われた。ユミカが戻ってきてくれただけで十分だったのだ。やがて、彼女は父親を呼んだ。
「許してもらえないなら、私は家を出るから。それと、許嫁との婚約も解消しておいて」
父親はベッドの反対側に立ったまま、どことなく諦めたような顔をしていた。
「……好きにしなさい」
父親が呟くように言った。ユミカの右手に少し力がこもる。彼女は決別を覚悟したのかもしれなかったが、父親の話には続きがあった。
「写真を学んでプロを目指すなら、しっかりやりなさい。この少年が好きなら結婚すればいい。お前のやりたいことを応援するよ、私は」
「どうしたの、急に……」
ユミカは驚いた様子で呟いた。母親も唖然としている。無論、僕も同様だった。
「この少年に言われたのだ。おまえは私の所有物ではないとな。……私はそんなつもりはなかった。おまえのために約束された未来を用意し、その幸せを信じて疑わなかった。写真を撮りたいというのも、一時の気の迷いだと思っていた。だが、おまえは眠り込んでしまい、彼はおまえを救いたい一心で駆けつけ、そして、取り戻してくれた。何が正しくて、何が大切なことなのか、それが分かった気がしたのだ……」
先程の鬼の形相とは打って変わって、父親は憑き物が落ちたように穏やかな顔になり、優しい声で語った。
「ありがとう、お父さん……」
ユミカも、母親も、そして父親も、みんなして涙を流した。ユミカが目を覚ましてくれただけでなく、彼女の夢について父親の理解を得ることもできた。万事解決と言っても良いだろう。
「でもね、お父さん」
思い出したようにユミカが言う。
「今のところ、この人と結婚するつもりはないから」
僕としても今すぐ結婚できるなんて思ってはいないが、そんなにはっきりと宣言しなくてもいいのに。まあ、そんなところもユミカらしい。
「じゃあ、僕は行くよ。学校に戻らないと。早く良くなってね」
席を立とうとしたが、ユミカは握った手を離そうとしなかった。
「……豪介、ありがとう」
そう言ったユミカは、今までで一番素敵な笑顔をしていた。それに応えた僕も、きっと。
「豪介君、といったかな。さっきは悪かった。娘を救ってくれてありがとう」
病室を出た廊下で、父親は僕の手を握り、謝辞を述べた。
「こちらこそ、失礼なことを……すみませんでした」
ユミカがはっきりと否定したせいか、娘をよろしく頼む、とは言われなかった。まあ、そんなところも僕らしい。
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