モンスターへ乾杯!

ゆあん

乾杯!

 放課後の教室で、日直の仕事を終えた僕と百瀬ももせが、何気なしに机に向かい合って雑談を決め込んでいる時のことだった。


「100人斬りを目指そうと思うの」


 彼女の宣言に、驚きを通り越して唖然とするしかなかった僕は、夕日と時計を何度か見返して、それでも一糸乱れずその視線を向け続けられる居心地の悪さに、ようやく粗末な相槌を打ったのだった。


「は?」

「は? じゃなくて。いつから君は耳が遠くなったの」


 吐き捨てるように言う。横殴りに差し込む夕日が、彼女の整った容姿をより際立たせているようだった。


「いや、別に遠くはないけど。今だってちゃんと聞こえているよ」

「どうだろうね。あんな十五文字程度の言葉を聞き逃すなんて、正常な耳をしているとは思えないけど」


 百瀬星奈ももせ せな

 眉目秀麗びもくしゅうれいという言葉がこれほど似合う存在はこの学校において他は無い。それが度を越していて、怪物とさえ言われてしまうほどの、完璧超人。この大切な時期に、つまりは高校三年生の受験前という貴重な時間に、こうして雑談を決め込めるほどの余裕があるのは、学年トップの成績を持つ彼女が、当然のように名門大学へ推薦入学の切符を既にその手にしているからだった。本当は僕にしたって、一分一秒無駄にできない、家に帰れば即勉強をしなければならないような状況なのだけれど、あの百瀬と雑談できる贅沢を獲得できるとあれば、男ならばそれを選択しない手は無い、とある意味で大いに期待をして望んだ訳だったのだが。いざ始まって見れば、まるでコングが鳴ると同時にストレートをモロに食らってしまったボクサーのように、面を食らった僕に向かって容赦の無い言葉を百裂拳のように撃ち放ってくるのだった。


 そう、百瀬星奈とは、そういう奴だったのだ。


「僕はその程度の言葉を聞き逃すような残念な聴覚は持ってないよ。さっきの、は?、は、聞き取れなかったからじゃなくて、聴覚によって伝わって来た情報があまりにも突拍子もなかったことについての、社交辞令的な、は?、なんだよ」

「そう。それはよかった。実は心配してたんだよね。本当は一文字で済むところの百を、三文字の100で数えてかさ増しして、君が少しでも傷つかないようにとこれでも配慮していたんだから」

「そんな小さいスケールの気遣いはいらないよ。むしろ馬鹿にされている気分だ」

「本当はもしかしたら、聴覚は備わっているけれど、それを処理するところのオツムの方がもう終わってしまっていて、言っている意味がわからないのだとしたら、一体それをなんと言い換えようかとも考えていたのだけれど、それも杞憂でよかった」

「……百瀬は一体僕をどんな奴だと思っているんだ?」

「何って、ただのクラスメートでしょ」

「ただのクラスメートに言うには随分と辛辣だって言ってるんだよ!」


 普段の百瀬は、明るく、友達も多くて、男子女子生徒先生にかかわらず人気があって、それこそ彼氏をとっかえひっかえするような、そんなリア充の頂点にいるような立ち振舞で、それが別段違和感が無い、つまりは天から一つ二つも与えられた奴なんだと言われても信じてしまうような、感じのいい今時の女子高生だ。


 それがある時を境に、僕に対してだけは、普段隠し通していたその内面を惜しげもなく発揮してくるのだ。先程僕がいった「贅沢」とは、そんな意味合いもあるのだ。


「一応確認なんだけど、百瀬が言う所の百人斬りって言うのは、世間のリア充どもが言うような、異性間の交友について指しているのか?」

「それ以外、一体何があると思っているの? まさか私が、今や貴重な日本刀でも持ち出して、持ち前の運動神経でバッタバッタとクラスメートを切り裂いて、秘伝の奥義を開示するとでも思ったの?」

「そんな一昔前のラノベみたいな展開を期待してはいないよ! 君は一体全体、何と戦ってるんだ」

「世の中の不条理」


 急に大人っぽいこと言った!


「とは言え百瀬、なんでいきなりそんな事を始めようと思ったんだよ」

「なんでって、理由が必要?」

「オオアリだ。なんていうか百瀬は、僕から見てもリア充の最たるというか、噂話程度でしか知らないけれど、学年でも屈指のイケメン達と交際しているんだろ? 僕の記憶が正しければ、そこに上がった名前だけでも数人知人がいるし、わざわざそれを目指さなくたって、結婚相手を見るける頃には、自然とその数に収まっているんじゃないか?」

「そんな簡単にいく訳ないじゃん。君は一体私をどんなアバズレ女だと思ってるの」

「さっきの発言からはそうとしか思えないよ」

「短絡的だね。計算が甘いんじゃない? 数学が苦手なだけじゃなくて、現実を生き抜く上で必要な計算すらお粗末な君に、仕方がないからその答えを教えてあげるよ」

「いちいち僕をなじらないと話題の転換すらできないのか」

「答えはそう、憧れ」


 彼女が転がした今頃珍しい六角形の鉛筆は、メーカーロゴすらも描かれていないまっさらな面を上に向けて止まっていた。その言葉を口にした時の表情は、まさにそんな純粋さとリンクしているようで、妙に印象的だった。


「憧れ? 所謂いわゆる、ヤリンとかに、か?」

「何を言ってるの? 私は女なんだから、ヤリンになんてなれる訳ないじゃん。あえて言うなら、ヤリンね」

「あえて言わなくていいんだよそこは!」

「言わせたも同然でしょうよ。この、変態」

「我慢するぞ。僕は我慢するぞ。つまりは百瀬、君はそのヤリンに憧れを抱いているから、それを目指すっていうのか?」

「目指すんじゃないよ。越えるの」

「ハードルの高さは別に聞いてないよ。僕が聞いているのは方向性の話だ!」

「その違いは大きいよ。だって、テストで良い点を取りたいと思っている人が90点を目指したって、ほとんどの場合それは叶わないもの。90点は、その先の満点という高いハードルを目指した者が、今一歩届かずに仕方なく、残念賞的に与えられるものだもの」

「そんな深い話はしてないよ!」

「全く、そんなに私の動機が気になるの?」

「ああ、ああ気になるさ! 最初はそうでもなかったけどな! ここまで来たら、最後まで聞かなければ家には帰らないってくらいの勢いだ!」

「え?  そんな、答えるまで帰さないだなんて、そんな積極的になられても」

「あんたの耳こそどうなってるんだ!」

「とは言え、帰らないとお父さんとお母さんが心配するし。しょうがないから答えてあげる」

「お願いしますよ本当!」

「それは、私が処女だからだよ」


 ちょうどその時、下校を促すチャイムが校内に響き渡った。時計は十七時を示していた。


「私は処女です。だから、そういった経験が豊富な人に憧れる。誰だってそうでしょ。自分が知らない世界を、さも素晴らしいものだと吹聴ふいちょうする存在が身近に居たとして、そこに興味を示すなという方が無理な話」

「意外だな」

「意外? 私が陳腐ちんぷで、どうしようもないこじらせ女子だったという事実に?」

「そこまでは言ってない」

「それとも何、私が経験豊富だったら、どうせ一人くらい増えたって変わりゃしねぇよとゲス顔で迫ってくるつもりだったの?」

「だから僕は一体どんな奴だと思われているんだ!」

「クラスメートでしょ」

「ああそうでした、クラスメートでした! もう僕だって遠慮しないぞ!」

「真面目な話、何がそんなに意外だったの?」

「ん、いや、まぁ、あれだよ。僕から見たら百瀬は、たくさんの男たちと付き合っている訳だから、当然、そんなこともお茶の子さいさいとばかりに、数をこなしているのかと思ったんだよ」

「付き合った人数イコールヤった人数みたいな、そんなヤリたい盛りのそれしか誇るところが無い大学生じゃないんだから」

「それを越えようしているのはあんただけどな」

「一体君は、私がどれくらいの人数と経験があると思ってたの」

「ざっと20人くらいかな」

「それって女の子に言うにはかなりヒドイことだと思わない?」

「言っただろ、僕はもう遠慮しないぞって」

「まぁ、そう誤解されるような立ち振舞をしていたのは事実だから、それは受け入れないとね」

「誤解?」

「実際、お付き合いって何をしたらいいのか、ちっともわからなくて。お話をしたり登下校したり休日にでかけたり。でもそれって、友達でもできることじゃない? にもかかわらず、○○とは話すな、とか、そういう束縛というか、制限の方が増えてしまって。それって、煩わしいじゃん」

「それ、最初の数回で気が付かなかったのか?」

「最初の数回が同じだったからと言って、次も同じとは限らないじゃない。君、確率の計算式って知ってる?」

「知ってるよ。100%があり得ないってこともな」

「そう、100%じゃない。次は違うかもしれない。私はそう考えて、基本的には申し込まれた交際は全部受けてきた。けれど、その答えを教えてくれるような人とは、出会えなかった。それでも私は、その可能性が数ミリでもあるなら、どうしても挑戦してみたかったんだよ」

「それだけ付き合っていたなら、そういうことを要求してくる相手も居たんじゃないか?」

「居たよ。断っていたけれど」

「なんでだよ。だって、それを目指しているんじゃないのか?」

「越えるんだって」

「そーでした!」

「その時は、そういうことは興味がなかったんだよ。十八歳を迎えるまでは、女の子は純血じゃなければいけないって、お母さんに言われていたから」

「いきなり真面目か! しかし、今どき稀有けうな教育理念をお持ちのご両親なんだね。僕は尊敬したよ」

「そう、童貞の君なら尊敬できるかもね」

「童貞って決めつけるなよ!?」

「だって、私がこの話をした時、それこそ経験豊富なヤリンだったら、かっこよくもないキメ顔で、それなら俺が教えてやろうか? って言おうものなのに、君はそれを言わなかったじゃん。言えなかったんだろうけれど」

「だから君は僕をどんな奴だと思ってるんだよ」

「だからクラスメートだよ。他に代わりの居ない、特別な」


 彼女の汚れのない眼差しが、僕を射抜いた。


「ねぇ、知ってた? 勉強って、一人でやるよりも二人でやった方が、ずっと効率がいいんだって」


 立ち上がった彼女はスカートを直して、窓の外を見た。その瞳が、キラキラと輝いて見える。それは彼女自身の魅力なのか、それとも、間もなく日没を迎えようとする太陽の煌きがそうさせるのか、僕には分からなかった。


「今晩、両親の帰りが遅いんだ。晩ごはんを食べて帰るように言われているのだけれど、君の家はどうかな」

「奇遇だね。僕の家も、両親の帰りが遅いんだよ」


 嘘だった。それは彼女がついてほしい、嘘だった。


「さらに言うと、日付が変わるまでには帰ってこないんだ。君が望むんなら、勉強を見てあげてもいいよ。二人きりで」

「ありがたい提案だな。でもそうなった場合、僕は君に何を返せばいいんだ? 残念ながら僕の方から教えられそうな事はあまりなさそうだけれど」

「そうだね。でも、教えてほしいことならあるよ。二人で、見つけたいことも」


 彼女が手招きする。開け放たれた扉の奥からは、人の気配はすでになかった。この教室には、この廊下には、この校舎には、いや、もっというと、この世界には、まるで二人しかいないのではないか。そんな錯覚すら、覚えていた。


「それならなんとか僕でもできそうだ。でも、いいのかい? その場合、100人斬りの目標は達成できないことになりそうだけど」


 彼女が笑う。


「その場合、君が百人分になってくれればいいんだよ」


 それは、この薄暗の校舎の中でも、はっきりとわかる、僕に向けられた、僕だけに向けられた、最高に愛しい笑顔だった。


「赤飯、炊かないとな」

「その前に、乾杯でしょ」


 彼女が僕の腕を取った。二人並んで歩く廊下は、特別なものに思えたんだ。


 怪物と乾杯。

 それも悪くないかもな。

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