最終話 届かない月を掴む

 星空の下でのキスの後、私たちはガブリエルの部屋に戻って初めての夜を迎えた。


 朝の光を感じて目を開くと、ガブリエルが微笑んでいた。今日は、昨夜起きたことを覚えている。恥ずかしくて、掛け布団で顔を隠そうとする手を取られ、キスを交わす。


『おはよう。くらら』

「お、おはよう。ガブリエル」

 優しい声が耳から全身へと染込んでいくような不思議な感覚。くすぐったさに笑みが零れる。


『体調に異常はないか?』

「……ちょっと……痛い……かな」

 異常はないと言おうとしたのに、正直に答えてしまった。


『そ、それは……』

「だ、だ、大丈夫。仕方ないから」

 二人で顔を赤くして見つめ合い、どちらからともなく、噴き出すようにして笑い合う。


『治癒魔法が使えないのが残念だ』

「そうなの?」

『ああ、魔法にも向き不向きがある。くらら、待っていてくれないか』


 起き上がったガブリエルは紺色のパジャマのズボンを穿いていた。私はいつの間にか上着を着ていて、掛布団の中からその逞しい背中を見送る。

 

 昨日の出来事を思い出すと顔がふやける。恥ずかしくて嬉しくて、ベッドの中で身悶える。これ以上はダメな人になりそうと思った所で、白いシャツを羽織ったガブリエルがポットとお盆を持って戻ってきた。


「それは?」

『紅茶』

 サイドテーブルに置かれたポットとティーセットは白くて可愛らしいデザイン。


 促されるままに半身を起こすと背中へ枕が差し入れられた。至れり尽くせりの優しさに戸惑いながらも嬉しくて堪らない。


 濃い紅茶がティーカップに注がれる。

『砂糖は何杯?』

「二杯」

『ミルクは?』

「たっぷり」

 ペットボトルや缶のミルクティをマグカップに注いでレンジで温めるだけでも嬉しかったのに、ポットで紅茶を淹れてくれる姿が貴重過ぎて嬉しい。


『どうぞ』

「ありがとう」

 もう顔は崩壊していると思う。嬉しくて笑顔とかそういうレベルじゃない。受け取った紅茶は程よい熱さで、一口飲むと最高の幸せの味がした。


「美味しい」

 私の笑顔を見て、あきらかにガブリエルがほっとした。

「どうしたの?」

『何度も練習したが、成功するか不安だった』

 そう言って、ガブリエルも同じように紅茶を淹れて飲む。ベッドの端に腰かけたガブリエルと二人で顔を赤くしながら紅茶を飲んで笑顔を交わす。


 これは幸せな朝。そうとしか思えない。


「……もしかして、紅茶の淹れ方を小次郎さんに習ったの?」

 メイクアップアーティストのコジローは動画の登場時に、紅茶を飲む姿がトレードマーク。

『ああ。剣術より厳しい特訓を受けた』

 頬を赤くしたままのガブリエルが可愛くて内心悶える。


「も、もしかして……パジャマの上下を分けて着るっていうのも?」

 ずっと疑問に思っていたものの、嬉しくて聞くことができなかったことを口にする。

『これは紋三郎が大事な女性と同じ寝台で眠る時の、この世界の常識だと……まさか違うのか?』

「う、ううん。じょ、常識なんだけど、どうして知ってるのかなって思ったの」

 咄嗟に嘘を吐いてしまっても、ガブリエルは疑問にも思わなかったらしくて笑顔を見せたのでほっとする。


『思い返せば一緒に眠る直前から、くららが好きになっていた』

 追撃としか思えない告白に、胸が射抜かれたような気がした。もうこれ以上は幸せに耐えられないかもしれないと涙が溢れた。


『く、くららっ?』

 ぽろぽろと零れる涙を見て、ガブリエルが慌てて私を抱きしめる。

「う、嬉しくて……幸せなの」

『私も幸せだ』

 笑いながら泣き続ける私と、笑いながらキスを繰り返すガブリエル。二人の初めての朝は、幸せ以外の何物でもなかった。


      ◆


 ガブリエルとの新しい日々が始まって、将来の話も少しずつ進んでいく。スケジュールを見ながら私の両親への挨拶、結納や結婚式の日取りと具体的な形が見えてきた。


 宗助は私に会わせる顔が無いと言って、以前から打診されていた米国の本社に赴任することを決めたらしい。元恋人の妊娠は狂言で、上司との別れ話がきっかけで自暴自棄になって宗助の部屋に乗り込んだと清流から聞いた。


 未だ使う事の無い演奏用の部屋を覗くとパールホワイトの竪琴があの日のままの状態で放置されていた。

「ガブリエル、竪琴、弾いてみてもいい?」

『ああ、構わないが……いいのか?』

「私にもよくわからないんだけど、すっきりしないの」


 書き物机の上に揃えられた白い紙は、異世界の楽譜が書かれている。

「この曲は何?」

『「届かない月を掴む」……クラーラと最後に合奏した曲だ』


「えっと……前世の私と一緒に合奏しようって約束したのよね?」

『……ああ』

「それが気になってるのかも。よし、前世の私を供養する!」


 その日から私はガブリエルと一緒に竪琴を練習した。竪琴を手にすると、私の手は勝手に動き出す。練習を重ねると、自分の手とは思えない滑らかな動きができるようになった。


 『届かない月を掴む』は一時間半に及ぶ長い曲。天才を超える天才で無ければ弾けないと言われていた難曲だったらしい。


「でも、ガブリエルも前世の私も弾いてたんでしょ?」

『二人で必死になって練習したから弾けただけだ。お互いが目標だった』

 ヴァイオリンを抱えたガブリエルが笑う。奇妙な懐かしさは、もう心を焼かない。ただ懐かしいと感じるだけ。


 二カ月が過ぎ、冬が始まる直前になって、星降る草原が広がる公園で演奏する許可を取った。元々人の少ない地域で周囲に民家も何もなく、これまで誰も使用許可を申請したことの無い場所だった。


『くらら、寒くないか?』

 そう言って私の手を包むガブリエルの手が温かい。

「大丈夫。ガブリエルが温かいから」

 触れ合うだけのキスを交わしてから、用意された椅子に座って竪琴を膝に乗せ、ガブリエルは立ったままでヴァイオリンを構える。


 二人だけの演奏会が始まると、竪琴の音色とヴァイオリンのピチカートの音色が混ざり合い、不思議な異世界の音楽が流れだす。


 何度も目を合わせ、微笑みながら演奏する竪琴は楽しくてしかたない。難しい箇所になっても、笑顔は絶えない。


 夕焼けに染まる空には白い満月が現れた。気のせいか遠くて届かないはずの月が、この手に掴めそうな気がする。


 長い長い演奏も楽しい時間なら、あっという間。

 最後の一音が響きを終えて、私はすべてを思い出した。


 そう。私はクラーラの生まれ変わり。最期にガブリエルが唇にキスをしてくれなくて、ガブリエルに女として愛されたいと女神に願った。


 今まで前世を思い出すことを拒んでいたのは、前世の私のままだったら、ガブリエルはまた妹としか見てくれないとわかっていたから。生まれ変わって完全に別人になることで、ガブリエルは私を女として見てくれるようになった。自分のしたたかさに笑うしかない。


 前世の私の願いが叶って、ここからは今の私の願い。

「ガブリエル、何か物凄くすっきりした!」

『それは良かった』

 ガブリエルが明るい笑顔を見せて、私の唇に迷わず軽いキスをする。ガブリエルの綺麗な青い瞳には私しか映っていない。まっすぐに見つめ合ってから目を閉じると、熱いキスが降ってきた。頬が火照って熱い。

 目を開くと、ガブリエルの恥ずかし気な微笑みに鼓動が跳ね上がる。


「ね。お腹空いたから、うどん食べに行きましょ! 私は月見うどん!」

「行こう。私はきつねうどんがいいな」

 照れ隠しに笑いながら楽器を片付けて立ち上がると、そっと手を繋がれた。


 並んで見上げる夜空に白い満月が浮かんでいる。前世で見た異世界の空には、赤と緑の月、そして小さな白い月が浮かんでいた。

 少し物足りない光景に、私は微笑む。

 ここは、前世の私と今の私が望んだ世界。


 ――私は、ようやく一番欲しかった幸せを手に入れた。

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晴れた空の中、遠い月に手を伸ばす ヴィルヘルミナ @Wilhelmina

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