第29話 本当の気持ち

 休日の三日目の朝、私は宗助と出掛けることになった。宗助は毎日会いたがったけど、私は片付けと掃除があるからと言って断り続けた。


 宗助と出掛けることを清流に電話で報告したら止められてしまった。本当は行きたくないと思っている私の心を知っているかのよう。


「くらら、宗助には結婚するまでは絶対に手を出すなって言っておくけど、変なことされそうになったら逃げるのよ?」

「そ、そうね……」

 清流は宗助が私に良からぬことをすると決めつけている。


「もー! 大量注文入ってなかったら着いていったのに! ホント、気を付けて」

「態度を改めるって言ってたし、大丈夫じゃないかな……」


「子供の頃から二十年以上くららに意地悪してた馬鹿がすぐに変わると思う? 絶対無理。……あの男ガブリエルはどうしたの?」

「……車のCM撮影で外泊中」

 そのスケジュールに合わせて、竹矢は私に休暇を与えた。撮影に着いて行けという訳ではなくて、きっちり休みを取れということらしい。


「くらら、声がおかしいわよ。もしかして、喧嘩した?」

「喧嘩じゃなくて……ガブリエルが見てるのは、私じゃなくて私によく似た人だって気が付いたの……」

 私が抱え込んでいた気持ちを吐露すると、清流の優しい声が返ってきた。


「何、その程度であの男のことをあきらめるの? ずっと好きだったんでしょ。くららを見てもらえるように、もうちょっと頑張ってみてもいいんじゃない?」

「清流……」

 頑張れと言われても、どうしたらいいのかわからない。可愛い服を着て、女性らしいメイクをしてもガブリエルとの距離は変わらなかった。ガブリエルが好きだから、私を見てもらえないという苦しくてもどかしい気持ちが増えていくだけ。


「とにかく、あの男が振り向いてくれないから宗助にするなんて馬鹿なことはやめなさいよ」

「そんなことしないから、大丈夫」

「それならいいけど。とにかく気を付けてね」

「ありがと」

 心配する清流の声に、私は感謝の言葉を返すことしかできなかった。


      ◆


 待ち合わせ場所に時間ちょうどに行くと宗助が待っていた。白のTシャツにジーンズというラフな服装でも、スタイルが良いのでカッコイイ。


 ガブリエルと違って、視線が鋭く声を掛けにくい雰囲気を醸し出している。遅れてはいないのに嫌味を言われそうで不安になった。


「くらら!」

「ご、ごめんなさい。待たせちゃった?」

「いや、さっき来た所だ」

 それは嘘だと気が付いた。手に持っている珈琲缶の飲み口からタバコの吸い殻が見える。何本吸っていたのだろうか。謝罪するべきか迷っている間に、嫌味を言うこともなく宗助が歩き出したので、慌てて着いていく。


 近くの駐車場に止められていた車は、国産の高級車。黒い車体はピアノの黒鍵のように艶やかな光沢があって大きく見える。


 宗助が運転席に乗り込むのを見ながら、いつもの癖でドアを開けてくれるのを待っていると助手席側の窓が降りた。


「くらら、乗っていいぞ」

「え? あ、うん」

 そうか。宗助はドアを開けてはくれない。というか、これがきっと普通なのだと自分でドアを開けて助手席に乗り込む。車内に人工的な柑橘の香りと微かなタバコの臭いが漂っているのが気になる。


「くらら、シートベルトしてくれ。出発できない」

 シートベルトも自分で掛けなければと気が付くまで数秒掛かった。慌てながら慣れないベルトを着けると、車が走り出す。


「車に乗り慣れてないんだな」

 宗助のからかうような口調に反論したくなっても、口を閉ざす。宗助にガブリエルと同じことを求めてはいけないと思う。


 宗助の運転も上手いと思うのに、ブレーキの掛け方が気になって仕方ない。急に減速するからか、内臓に変な力が掛かる。


「流行ってる面白い映画が……そうか、劇場が苦手だったな。遊園地はどうだ?」

 宗助は映画を見るつもりだったらしい。予定を変更しようとして調べると遊園地は平日で休園中。SNSで話題の体験型美術館も臨時休館で、結局は買い物をすることになった。


「そうだよな。平日だったな」

「急に休み取ってよかったの?」

「ああ。有給なんて全然使ってないからな。総務から有給取れ取れって言われてたから丁度良かった」


 湾岸地域のショッピングモールは、夏の緑に包まれていた。春とは違う生き生きとした明るさが眩しい。


「服でも何でも買ってやるぞ」

「いらない。そういう押しつけがましいのって、苦手だからやめて」

 宗助の前で服を買ったりしたくはない。無理矢理服を買われても困ると思って、雑貨のフロアを歩く。


「お前の部屋、殺風景じゃないか? 女だったら、もっといろいろ飾ってるもんだろ」

「いろいろ飾るのはやめたの。掃除が面倒だから」

 家政婦という仕事を始めてから小物があると掃除がしにくいと気が付いて、部屋に細々と飾っていた物を処分しただけ。あまり部屋にいないというのも理由の一つ。


 あの部屋に戻るのだから、少しは物を増やしてもいいかもしれない。そう思い直して、雑貨を見て回る。


 アイボリー色で幾何学模様のジャガード生地で作られたクッションに心惹かれて手に取る。金茶色のパイピングがガブリエルの髪色に似ていて、どことなく懐かしい感じがする。


 懐かしいと思うのなら、これはきっと前世に関わる何か。思い出してみようと考えると、楽譜に似ていると気が付いた。


 ――異世界では真っ白な紙は貴重品で、貴族もアイボリー色の紙を使っていた。楽譜は五線譜ではなく八本の線の上に書かれていて、音符はちょうど幾何学模様に見える。


「くらら? どうした? 気分でも悪いのか?」

「な、何でもない。昔のこと思い出してただけよ」

 宗助に声を掛けられ、慌ててクッションを戻して歩き出す。


「あれが気に入ったなら……いや、何でもない」

 言い直した宗助は、これまでの態度を改めようとしているのかもしれないと思うと、何故か罪悪感が湧いてきた。


 雑貨店を見て回っていると、ペット用品店が目に付いた。最近、法律で猫や犬の生体販売が制限されて、決められた場所でしか売買できなくなったので、首輪や服、餌やケージ類しか置かれていない。ショーウィンドウの中では、ぬいぐるみで覆われたロボットの猫や犬が眠っていたり遊んでいる。


 良く出来た猫ロボットを横目に通り過ぎようとした時、宗助が呟いた。

「結婚したら、猫でも買うか。犬でもいいぞ。くららの好きなのを選べばいい」

「宗ちゃん、私、結婚とか考えてないから。勝手に押し付けるのはやめて」

「……すまん」

 溜息を吐きそうになって我慢する。他人の行動に対して溜息を吐くなんて、性格の悪い嫌な子にしか見えない。それでも、宗助と結婚なんて考えられない。もう帰ると言いかけた時、宗助の足が地下の食品売り場へと向かう。


「なぁ、俺、ずーっと外食続きでさ、簡単な料理でいいから夕食作ってくれないか?」

「外食に飽きたなら、実家に帰って食べればいいじゃない」

「男がわざわざ家に寄るには理由がいるだろ。夕飯目当てなんて理由にもならん」

 きっぱりと言い切られるとそんなものなのかと感じてしまう。


 断る理由が見つからなかった私は、夕食を作る約束をしてしまった。


      ◆


 さっさと作って帰ろうと決意して、買い物してから宗助のマンションへと向かうと午後三時半に到着。夏の空はまだまだ明るい。


 宗助が借りている部屋のマンションは高級住宅街の中に建っていて、周囲には緑あふれる公園が広がっている。

「た、高そうな所ね」

「住宅補助が出てるから、かなり安く借りてる」

「そうなの?」


「俺の営業成績良いからな。逃がしたくないってことだろ」

「そっか。期待されてるのね」

 エントランスは明るい白の大理石。鍵を案内盤にかざすとガラス扉が開く。エレベータに乗って、十階で降りた。


 自分の部屋とは違い過ぎる廊下に気が引ける。竹矢のマンションは部屋の内部は豪華でも、廊下や外から見える部分は普通のマンションにしか見えない。


「ここだ。入ってくれ」

 宗助が扉を開くと電気がついていた。玄関のたたきには、可愛らしい淡い水色のパンプスが揃えられている。


「もしかして、美波ちゃん?」

 宗助の歳の離れた妹は、今は高校二年生。仲が良いとは聞いていなかったけれど、こうして部屋に来ることもあるのだろうか。


「いや。違う。ここで待っててくれ」

 顔色を変えた宗助が買い物袋を置いて廊下を歩いていく。奥の扉を開くと若い女性の声がした。


「おかえりなさい」

「何だお前、合い鍵なんて渡してないだろ? それに、三カ月前に別れてるだろ」

 元恋人。そんな単語が頭に浮かんだ。


「子供ができたの。責任取って結婚して」

 ドラマの中のようなセリフを耳にして、さっと血の気が引いていく。

「は? 本当に俺の子か? 上司の子じゃねーのか? お前が上司との不倫のカモフラージュに俺を使ってたのは知ってるぞ」

 私に対する言葉でなくても、不機嫌極まりない宗助の声が怖くて震える。


「そうよ! お腹の子はあの人の子供。いいじゃない。私はあの人が好きで、宗助は他の女が好き。報われない愛を抱えてる二人で結婚すれば、きっと何もかも上手くいく!」

「俺はそんな不毛な結婚は御免だ! 出て行けよ、不法侵入で警察呼ぶぞ」


 報われない愛。不毛な結婚。二つの言葉がぐるぐると頭で回る。二人の口論が続く中、私は玄関から飛び出した。


      ◆


 鞄を胸に抱えて走りながら、ここがどこなのかもよくわからなかった。時々、宗助が追いかけてこないか振り返り、ただひたすらに住宅街を駆け抜ける。ついには大きな道路に行き当たり、先に見えた歩道橋へと向かう。


 振り向いてくれないガブリエルを愛していながら、宗助の結婚話に乘ろうとしていた自分に気が付いて涙が零れる。宗助は意地悪だけどカッコ良くて収入も良いと心の奥底で計算していた。


 結婚話を断るなら、きっぱりと遊びの誘いも断るべきだった。それをしなかったのは打算のせい。自分の醜くて浅ましい本音が二つの言葉で露わになった。


 歩道橋の階段を登り、泣きながら俯いて歩くと人影が視界に入った。慌てて指で涙を拭う。

「くらら」

 幻聴だと思った。それはガブリエルの声。CM撮影に行っているのだから、ここにいるはずがない。


 顔を上げると白いシャツに黒のジーンズ姿で、困ったような表情を浮かべるガブリエルと目が合った。泣き顔を見られたくないと、踵を返して元来た道へと走り出す。


 たった数メートル走った所で、後ろから抱きしめられた。

「ど……して?」

 後悔と混乱で言葉がでない。何故ここにガブリエルがいるのかわからない。

『くららが泣いているのが見えた』

 また幻視したのだろうか。優しい囁きに心臓が破裂しそう。


「撮……影は?」

『終わっている。天気が良くて早く終了した』

 抜け出してきたのかという心配は一掃されて、腕から抜け出ようとすると、さらに強く抱きしめられた。


「ガブリエル?」

 離してとは言えない。私の本心はガブリエルに抱きしめられることを喜んでいる。

『くらら、私の話を聞いてくれないか?』

 一体何の話なのかさっぱりわからない。無言で頷くと腕が緩んで、手を握られた。夏の気温より熱い体温にときめく。


 歩道橋を渡った先の時間貸し駐車場で車に乗り込む。ガブリエルはやっぱりドアを開けてくれて、シートベルトを掛けてくれた。普通じゃないと思っても、嬉しいと思う気持ちは隠せない。


『今夜の予定は?』

「……大丈夫。メールだけ入れとく」

 宗助に「帰ります。心配しないで」とだけメールを入れた。落ち着いてみるとあの後、女性とどういう話になったのか知りたいと思う気持ちがある。


 案の定、着信の嵐が始まって、ガブリエルの前で電話に出るという選択肢は私にはなかった。ガブリエルからどんな話があるにしても、打算で宗助と結婚するようなことは絶対に選ばないし、宗助に期待を持たせたりするのはいけないと自分に言い聞かせる。


 何の話なのかとは聞く勇気がない。車内に流れる音楽を聴きながら、時折目を合わせて微笑むだけ。ただそれだけなのに心地いい。


 高速に乗って二時間。夕焼けが過ぎて宵闇が降りてきた頃、ガブリエルが車を停めた。

「ここは?」

『公園だそうだ』

 そう言われても、周囲は木ばかりで店も家も何もない。数台しか止まっていない駐車場から、手を繋いで歩いていく。


「あ……綺麗……」

 木々の間を抜けた途端、草原が広がっていた。空には一面の星が輝く。

『くららと一緒にこの空を見たいと思った』

 新月に近い月は星々の輝きを邪魔しない。空を見上げていると星が落ちてきそうな錯覚さえ感じて震える。


『くらら。私の……本当の気持ちを伝えてもいいだろうか』

 話とは、このことなのだろうか。答える言葉がみつからなくて、無言で頷く。


『私は、くららを愛している』

「え?」

 夢見ることはあっても、実現するとは思わなかった言葉に驚いて向かい合う。その青い瞳が嘘を吐いているとは思えない。


『妹のようなクラーラを愛することはできなかったが、くららは愛していると気が付いた。……身勝手なことを言ってすまない』

 その告白が嬉しくて、涙が零れた。


『……くらら? すまない。い、嫌なら……』

 慌てた表情になったガブリエルの手を両手で握る。

「違うの。嬉しいの。私、ずっとガブリエルが好きだった。諦めようと思ったけど、やっぱり諦められなかった」

 笑いながら流れる涙を、優しく笑うガブリエルの指が拭う。


『くらら、口づけてもいいだろうか?』

 頷いて目を閉じると、唇に柔らかくて温かい感触。初めてのキスに心が震える。


 遠慮がちに離れてしまった熱が寂しくて、ガブリエルの瞳を見つめると、また熱が戻ってきた。


 くすぐったくて嬉しくて。

 降るような星の中、私たちは抱き合いながら、何度も優しいキスを交わした。

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