第20話 白いマグカップ
目が覚めると青い瞳と目が合った。優しく微笑む顔が近くて……何故か心が痛む。指を伸ばして、その唇に触れるとびくりと体が震えた。
――私には、口づけてくれないのね。
その諦めは誰のもの? 自分の心の中にある言葉が回り続ける。それは前世の私の諦めの気持ちであって、今の私ではなくて。
「おはよう。くらら」
ガブリエルの声が耳に響いて、寝ぼけていた頭が急速に覚醒した。
「お、お、お、お、おはようございますっ!」
いやいやいやいや。ガブリエルと一緒に寝ているなんて、あり得ない。頭が真っ白で、自分がどこにいるのかわからない。
「え、えーっと。えーっと」
ガブリエルの上半身が裸でさらに混乱する。一体、何が起きているのかと熱くなっていく頬に手を当て、紺色のパジャマの袖を見てやっと状況を思い出した。
昨日のことが何日も前のことのように思える。というより、実感は薄い。
「い、今何時?」
「六時五十二分」
随分はっきりした返事だなと思いながら視線を追うと、壁には大き目のデジタル時計が掛かっていた。
起き上がったガブリエルがカーテンを開くと、大きな窓から朝の光が部屋に満ちる。爽やかな朝の空気が、部屋に残っていた夜の空気を洗い流していく。
窓の外から見えるのは青空。
「こっち側って、住宅街なのね」
眼下には普通の家並みが広がっていて、高くても五階程度のビルしかない。
何となく並んで空を見ていると、ガブリエルが私の肩を包み込んだ。どきりと高鳴る胸を押さえて見上げれば、優しい笑顔と視線が合う。ふわりと甘く感じる空気の中、何を話したらいいのかわからない。
「あ、あ、あ、あのっ……さ、寒くない?」
口にした自分でも、雰囲気ぶち壊しだと思った。エアコンが効いた室内は適温。上半身裸でも寒いわけがない。馬鹿馬鹿、私の馬鹿。
「ああ、大丈夫だ。寒いなら、温かい物でも飲もうか。身支度をするといい、私は部屋の外にいるから」
離れていくガブリエルに掛ける言葉も思いつかずに肩を落とす。こういう時、何を言えばいいのか、全く思い浮かばなくて語彙力の無さにへこみそう。
パジャマを脱いで自分の服を着る。クリーニングされたパックの中に毎回パジャマがあるのは知っていても、実際に着ている所を見るのは初めて。
細身でもしっかりした筋肉質の上半身を思い出して緩む頬と、これでは変な人と思われてしまうという理性とがせめぎ合う。落ち着いてと心の中で繰り返す。
ベッドのある部屋から出て、リビングへ入るとガブリエルがレンジで温めたミルクティを用意してくれていた。パジャマの上着を返して、白いマグカップを受け取る。
「ありがとう」
甘さと温かさで、ほわほわと緩む頬はきっとミルクティのせい。上着を羽織ったガブリエルが隣に座ると、増々温かく感じる。
何を話そうかと考える中、テーブルの上に置いていた鞄が振動した。スマホをマナーモードにして入れたままだったと気が付いて慌てて取り出す。
「うわ。鬼電入ってる……」
着信履歴が凄まじい。宗助の着信が大量で、
『くらら! お前、何やってんだ! どこにいるんだよ!』
耳をつんざく宗助の叫びがスマホから飛び出した。
「う・る・さ・いー。何、まだ朝七時じゃない。何か用なの?」
ずっと電話を掛け続けていたのだろうか。心配してくれたのかもしれないけど、圧倒的な着信履歴は正直言って怖い。
『何か用じゃねーぞ! お前、どこにいるんだ?』
「どこって……職場」
マンションと言いかけて慌てて訂正する。多少不自然になってしまったかもしれない。
『は? 泊まりがあるなんて聞いてねーぞ!』
「ちょっとトラブルがあったから泊まっただけ。別に私には何も問題ないから心配しないで」
『トラブルで女を泊まらせる会社なんて辞めちまえ! 俺が養ってやるよ!』
「……い・り・ま・せ・ん。人の仕事に口出さないで。働きやすいし、待遇も良い会社なんだから」
今時、養ってやるなんて非常識。宗助の言葉を真に受けたら、後で悲しい思いをするのは分かり切ってる。
『いつ戻ってくるんだ?』
「トラブルが解決するまでしばらく帰らない。一週間くらいって言われてる」
『何訳のわかんないこと言ってんだ? 迎えに行ってやるから、今、どこにいる?』
「他人の職場に押し掛けるなんて非常識でしょ。訳のわかんないこと言ってるのは宗ちゃんよ」
『俺は……お前を…………心配して……』
急に宗助の声のトーンが下がって、私もヒートアップしそうな頭が冷えた。
「心配してくれるのは嬉しいけど、私は一人の大人なの。宗ちゃんが考えてるような変な仕事はしてないし、社員として大事にしてもらってる。だから大丈夫」
私の身を心配して護衛まで付けてくれるんだから、とは言えない。ちらりとガブリエルを見ると、困ったような苦笑を浮かべながらミルクティを飲んでいる。
「そろそろ仕事始める準備があるから。じゃあね」
『おい、待てよ! まだ……』
埒が明かないので通話を切ってスマホを鞄に戻す。
「心配……されているんだな」
ガブリエルの言葉に戸惑いのようなものを感じる。
「あ、あの、そうだ。宗助っていうのは、単なる幼馴染で恋人でも何でもないから」
ずっと説明するきっかけが無かったから、これは良い機会。
「恋人……ではないのか?」
「宗ちゃんはモテるから、ずーっと彼女が途絶えたことないの。私なんて、家政婦候補くらいにしか思われてないもの」
自分で言って、自分で落ち込む。はぁあと溜息を吐いて、ぬるくなったミルクティを飲み干す。今まで私のことを見向きもしなかったのに食事を作って欲しいなんて、都合のいい存在としか思われていなかったと認めたくないけど認めるしかない。
「恋人ではなかったのか」
柔らかな笑顔が眩しくて、めまいがしそう。パジャマ姿であろうとも、カッコ良さは遜色無くてズルい。それどころか色気さえ感じて頬が熱くなる。
「あ、仕事は? 何時から?」
ガブリエルの今日の予定を聞き忘れていたことを思い出して慌てる。
「十時半に迎えが来るから時間はある」
「あ、それじゃあ、朝食も一緒に食べられる?」
「ああ」
ガブリエルの返事に緩みきった頬で笑顔を返し、私たちはマグカップを持ってソファから立ち上がった。
◆
ガブリエルを仕事に送り出した直後、大きな紙袋を肩から下げた紗季香がやってきた。入れ替わるように竹矢が外出していく。
ゆるやかに巻かれた長い髪は先日見た色とは違っていて、ミルクたっぷりのココア色。抜群のスタイルを包むのは、ハイブランドのベージュ色のスーツにハイヒール。一着いくらするのか想像するのも怖い。
「昨日は大変だったみたいねー。何かわからないこととか、不便なことある?」
「えーっと……あの……買い物に出ることはダメなんでしょうか」
「あー、それね。この一週間は私が代わりに買い物に出掛けるから我慢して欲しいの。あ、これ、服と下着の差し入れ。好みがわからなかったから、私のおすすめ」
ぱちりと片目を閉じる表情が色っぽい。差し出された大きな紙袋を受け取っていいものなのか迷う。黒や茶色の無地の紙袋なのに、光沢があっていかにも高そうな雰囲気を醸し出している。
「これも特別手当と思って受け取って。代金は竹矢から貰うことになってるから」
そう言われると安心できたものの、袋の中でちらりと見えたブランド名に動揺する。
「え? こ、これ、とっても高い……」
「あ、大丈夫大丈夫。洗濯できるラインで選んできたから。そんなに高くないわよ」
ハイブランドは基本、洗濯することを考えられてはいない。何度か着用して汚れたら捨てることが普通と聞いて、頭を殴られたような気がした。大富豪の世界は庶民とは違い過ぎて怖い。
買い物のメモを渡すと紗季香は出掛けて行った。あの格好でスーパーに行くのかと気の毒な気もしつつ、気になっていた紙袋の中身をそっと出してみる。
紗季香の好みなのか、シンプルなデザインにさりげなくリボンやレースがあしらわれた可愛らしいデザインが多くて嬉しい。
「か、可愛い!」
一週間分以上の服は、カットソーや動きやすいものが多めでジーンズやチノパンも入っていた。
真っ赤なビニール袋の中身は下着。サイズを教えた覚えはないのにぴったりなのは、モデル派遣会社の社長さんだからなのかも。
「……待って。これは……」
白やピンク、水色の中、黒の上下が目に入る。透ける花柄レースにフリルたっぷり。極限まで布が少ないショーツはサイドをリボンで結ぶタイプ。
「ど、ど、どうみても実用性はなし!」
ガブリエルにこれだけは見られたくない。黒い上下は小さく畳んで袋の底へと押し込んだ。
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