第14話 唐突な異世界

 体験コーナーが見えなくなる所まで走って立ち止まる。日頃の運動不足のせいなのか、鼓動が鎮まらない。

 河川敷の公園の端、目の前には広い野球のグラウンドがあって、中央に仮設のステージが組まれている。今は演奏のない時間帯なのか、周囲の人もまばら。


「くらら、ここで待っていてくれないか?」

 ガブリエルは息を全く乱してもいない。頷くと近くのベンチへと案内された。

「あ、そんな。ハンカチとか要らない。ほら、汚れてないし大丈夫」

 ポケットから出した水色のハンカチをベンチに敷こうとしたガブリエルを止めて送り出す。


 ベンチに一人座って、青空を見つめていると息も落ち着いてきた。温かい日差しの中、背中に嫌な汗が流れていく。


 竪琴を演奏している時は楽しかった。でも今は知らない自分がいるようで怖い。初めて持った外国の楽器を弾いてしまった自分は一体何者なのか。


 戻って来たガブリエルの手には缶のミルクティとココア。どちらがいいかと聞かれて、ミルクティを選ぶ。手渡されたミルクティの温かさが冷たくなった指を温めていく。


「飲んだ方が体が温まると聞いた」

 隣りに座ったガブリエルの声は優しい。飲み物よりもガブリエルの存在感の方が温かいような気がする。

「ありがとう」

 缶のフタを開けて、ミルクティを口にすると甘さと温かさが口に広がっていく。一口、二口と時間を掛けて飲む。


「……話をしてもいいだろうか」

 ココアを飲み干して、ガブリエルが口を開いた。私は何も言葉が見つからなくて頷くだけ。


「これまでも何度か確認する機会があったが、先程の竪琴の演奏で確証を得た」

「確証?」


「くららは、異世界で亡くなった女性の生まれ変わりだ」

「い、異世界?」

 生まれ変わりより、異世界という言葉に疑問を持った。小説や漫画でしか聞いたことがないし、想像上の世界だと思っていたのにガブリエルの表情は真剣。


「常時、空に赤と緑の二つの月が輝く世界を覚えてはいないか? 朝には小さな太陽が昇り、夜には小さな白い月が満ち欠けを繰り返す」

 ガブリエルとマンションの屋上で空を見上げた時の気持ちを思い出す。あの時、何かが足りないと理由もなく思った。


「……ごめんなさい。覚えてない」

 他の世界を知っていると認めるのが怖かった。咄嗟に口から出た嘘で、ガブリエルの瞳が揺れる。


『この言語は覚えているだろう? これが異世界の言葉だ』

 ガブリエルが話すのは、聞いたこともない言葉。発音を再現できないのに意味が分かることが怖い。


 震え出した体を包むように、ガブリエルの手が私の肩を抱く。触れられたときめきよりも、安堵の気持ちが強い。

『前世のくららは宮廷楽師だった。音楽を愛し竪琴を常に携えて、明るく笑うとても可愛らしい女性だった』

 ガブリエルの不思議な言葉は続く。いつもと違って言葉は滑らかで途切れることはない。ガブリエルから他の女性の話を聞くのは初めてかもしれない。


「……私が生まれ変わりってことは、その女性は死んだの?」

 異世界の存在を俄かに信じることはできなくても、奇妙な嫉妬のような焦燥感が心を焼く。その口ぶりは親しかった関係性を示しているような気がした。


『ああ。事件に巻き込まれて、亡くなった』

 深い悲しみが短い言葉に含まれている。その女性はガブリエルにとって、どんな存在だったのだろうか。


「えっと……その人は友達……だったの?」

 恋人だったのかとは聞けなかった。

『ああ。大事な友人だった。性別を超え、互いの音楽の才能を認めて高め合うことができる希少な友人だった』

 友人という言葉が二度繰り返されて強調されたことで、恋人ではなかったと言われたような気がした。


「ガブリエルも生まれ変わったの?」

『いや。前世のくららが死んだ数年後、私は異世界からこの世界に神によって飛ばされた』

 異世界転移という単語が頭をよぎっても、違う言語を聞かされても、冗談としか思えない。ガブリエルの端整過ぎる顔が、現実味を奪っていく。まるで映画やドラマを見ているよう。


『くららに会った時、私はとても嬉しかった。こうして近くで話が出来て、最期の約束を果たすこともできた』

「最期の約束?」


『息を引き取る直前、いつかまた一緒に合奏しようと約束した』

 微笑むガブリエルは優しいのに、私の心は沈んでいく。


 ――その約束は、私が本当に望んだこととは違っていた。私が本当に望んでいたのは。


『くらら? 気分が悪いのか?』

 うつむいた私を気遣う言葉が嬉しくもあり、その言語で聞きたくないとも思う。

「……ちょっと疲れちゃった。……異世界とか、よくわからない」

 物語の中で異世界転移した人々を迎えた現地人は、きっと今の私と同じような心境だと思う。理解できる域を超え過ぎていて、現実味がない。


 この不思議な言語を理解できたり、体が勝手に楽器を演奏したりすることが無ければ、ガブリエルには妄想癖があるとか心の病と決めつけていただろう。


『わからない……か。それは仕方ないな。私もこの世界に来た時には混乱した』

 ガブリエルの言葉に苦笑が混じる。


『気分が落ち着いたら、帰ろうか』

「……せっかくだから、もう少し楽しみたい」

 青空に昇る太陽はまだ高い。最期の約束を叶えてしまったガブリエルは、もう私を誘ってくれないかもしれない。


『それは良案だ。まだ訪れていない場所もあるな』

「…………日本語で……話して欲しい」

 いくら意味が理解できても、その不思議な言葉で話すガブリエルは、現実とかけ離れている。思い切ってガブリエルを見上げると、優しい瞳に視線を受け止められた。


「わかった。日本語にしよう」

 笑顔のガブリエルは、私を包み込むようにして抱きしめた。


      ◆


 その後、私は異世界の話を極力忘れるように努め、音楽フェスを楽しんで帰った。夜までしっかり遊んだせいなのか、その日は何も考えることもなく眠りにつき、翌日は酷い筋肉痛に悩まされていた。


「あいたたたた」

 とにかく足腰が重くて痛い。異世界の話を忘れようとして、子供のようにはしゃぎすぎたと反省する。


 掃除の手を止めると異世界のことや、自分の前世について考え始めてしまう。今は仕事の時間と心の中で繰り返し唱えながら、重い体を無理矢理動かす。


 玄関の扉が開いて早朝から出掛けていた竹矢が戻って来た。今日は黒いインバネスに高級スーツ。ひょろりとした鳥の魔物。そんな印象を持ってしまって、慌てて取り消す。


「お。働いてるなー。これ今月の給料明細な。明日振込予定だ」

 竹矢が居間の書類箱から出した明細を私に手渡した。箱に哲一さといちという名が掛かれた明細も入っているのが目に入る。車の改造狂も竹矢の不動産会社の社員だとガブリエルに聞いた。同僚ということになる。


 そういえば明日は給料日。家政婦の仕事を始めてから、給与も高いし食費も浮くしで給料日前のギリギリ感が全くない。

 ちらりと目に入った数字に驚いて声が出てしまった。

「ありがとうございます。……え? 多すぎませんか?」

 いつもの倍近い金額が書かれている。


「いいのいいの。俺は先々月分のカード請求明細見てぶっとんだからさ」

「ぶっとんだ?」

「いつもより二百四十万少なかったの」

「少なかった?」

「請求金額が安くてなー。二百四十万節約できたってこと」

 脱いだコートを肩に掛け、火のついていないタバコを咥えた竹矢は上機嫌で笑う。


 私が竹矢の部屋で担当しているのは食事と掃除、リネンの取り換えやゴミ出し程度。毎日の外食が無くなっただけでその金額になるのか。大富豪は怖い。


「何か疑問あるなら今、聞いとけよー?」

 思ったことは今すぐ言え、というのが竹矢の考え方。どんなに失礼なことでも笑って答えてくれる。


「あの……一日八万くらい使ってたってことですよね? どうやって使ってたんですか?」

「あー。そのあたり全然わかんないんだよなー。月にまとめて請求だし」

 過剰請求もあったかもしれないと、竹矢は笑う。


「ま、請求してくれば払う。請求してこないヤツには払わない。それが世の中の基本ってヤツさ」

 理不尽だと思っても、竹矢の言葉は概ね正しいような気がしてきた。追加で浮かんだ疑問を口にする。


「私は請求していません」

「俺が払いたいヤツには払うっていうのは、俺のルールな」

 竹矢はそう言うと、咥えタバコのまま得意げな笑みを見せた。

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