第11話 交渉は闘争

 あっと言う間に日々が過ぎて家政婦の仕事に慣れ始めていても、雇い主の竹矢の仕事がよくわからない。日中、咥えタバコの作務衣姿でソファに座って書類やニュースを見ていることもあれば、物凄く高そうなスーツを着て出かけていくこともある。


 海外との取引先の交渉が始まると、三つ揃えの仕立ての良いスーツに時計、磨かれた革靴、整髪料で整えた髪。完璧すぎる姿で執務部屋へと入っていく。部屋は完全防音で、何の音も聞こえてこない。


 エリートサラリーマンとか若社長とはまた違う、マフィアとかヤクザの若頭みたいな鋭さを伴う空気を醸し出していて怖い。普段の緩い姿を見ていなかったら、絶対に近寄らないと思う。


 竹矢が部屋から出てくると、まずはネクタイを緩めてタバコを咥える。タバコに火をつけることはない。

「あー、腹減ったー」

「お疲れ様です。昼食が用意できています」

「お、ありがたいな。手ぇ、洗ってくるわ」

 鼻歌混じりに洗面所へ歩いていくのは、交渉が上手く行っているのだろうか。


 昼食の時間はきっちり十二時。決まっているから料理がちょうど出来上がるように調整できる。

「どうした? 何か疑問があるなら聞いとけよ。聞くは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥っていうだろ?」

 時計を見上げていた私の顔を見て、竹矢が笑う。


「話し合いとか会議って、時間通りに終わらないものだと思っていました」

「あー、俺は最初に終わりの時間を宣言しとく。話の途中だろうがなんだろうが、そこで強制終了。時間配分ができないヤツは鍛えろよーってことだ。今も俺が昼飯食うからっていうので、話を切った」 

 いつもは緩く柔軟に対処してくれたらいいと言うのに、交渉相手にはとても厳しいらしい。


「そういえば、海外なら時差があるんじゃないんですか?」

「もちろんある。で、俺は日本時間で指定する。そこからすでに交渉は始まってるんだ。相手が俺と話すことを重要視してるかどうかをまず確認できる。どうでもいいなら、時間が合いませんねーじゃあさようならーってなるだろ?」

 

「それじゃあ、相手は夜ってことも?」

「今の交渉相手との時差は……まぁ、夜中だわな。くそ高いプライド持ったヤツらが、それでも話したいっていうなら、それなりにこっちも対価を用意してる。口先だけで一方的に奪っていくのに慣れたヤツらにギブアンドテイクっつー基本を叩き込む。……あれだ、交渉は戦闘だな」

「は、はあ……」

 交渉は戦闘。さっぱりわからない。交渉事というのは、もっと穏やかに行われると思っていた。


「これ、美味いな」

 竹矢がスプーンで食べているのは、茶わん蒸し。電子レンジでも出来る簡単レシピを参考にしている。


 ごぼうの炊き込みご飯と具は少なめのお味噌汁、茶わん蒸しと焼いた切り身の鯛。ほうれん草のお浸しは勝手に付けた。どうも竹矢のリクエストは圧倒的に野菜が少ない。


「やっぱ、日本人は米だよなー」

 しみじみと言われると、だんだん恥ずかしくなってきた。麺つゆだったり、液体出汁を味付けに使っているとは言いにくい。もちろん、自分では使わないような化学調味料無添加の高級品を選んではいる。


「ごちそーさん。美味かった」

 炊き込みご飯三杯、お味噌汁を二杯を追加で完食して、竹矢は珈琲を飲む。ガブリエルも竹矢も、細身の体のどこにこの大量の食事が消えているのか不思議でたまらない。

 

「お。もうこんな時間か。そろそろあいつが帰ってくるんじゃないか?」

 今日の私の昼食はガブリエルが帰ってくるのを待っていると最初からバレているらしい。一緒に食べるかと誘われなかった。


「よし。じゃあ、張り切っていきますか!」

 珈琲を飲み干して、竹矢が膝を叩きながら立ち上がる。最初はびっくりしたけど、気合を入れているらしい。


 洗面所で髪を整えてネクタイを締め直し、上着を着た竹矢はすっかりマフィアの姿に戻ってしまって、近寄りがたい空気が漂う。


「いってらっしゃい」

「おう」

 変な挨拶だと思っても、竹矢のリクエストなので仕方ない。竹矢は片眉を上げ、得意げな笑みを見せて、執務部屋へと入っていった。


      ◆


 竹矢が交渉に入った十日間、休日はなくても休憩時間が長い。しかも賃金は割り増しなのだから、少々の罪悪感すらある。


 店が休みの清流せいると待ち合わせて、お茶を飲む時間も余裕で取れる。

「で、くらら、どうなの? 進んでる?」

 にやにやと笑いながら清流はチョコレートパフェを崩していく。


「べ、別に……っていうか……全然」

 溜息の替わりに、カロリーを気にして頼んだ素朴なプリンを口にする。濃厚な卵の風味が舌に広がって美味しい。


「いつも宗ちゃんが待ち伏せしてるから部屋でお茶っていうのもないし」

 職場では絶対に何もないし、万が一でも何かしてはいけないと自戒している。

「あー、そうみたいね。宗助は部屋に入ってない?」


「お茶淹れろっていうこともあるけど、絶対入れない」

「そっかー。宗助も一応約束守ってるんだ」

「約束?」

「昔、くららの同意なしに二人きりにならないって、約束したの。約束破ったら一生許さないって。余計なお世話だった?」

「とっても助かってる。ありがと」

 全然知らなかった。いつも素直に帰るのはそれが理由なのか。


「あの男なら、部屋に入れてもいいって思う?」

「……それは聞かないで」

「頬赤いわよー。あー、くらら可愛いー」

 部屋に入ってもらって、お茶を淹れて、一緒に音楽を聴いて……それから? 妄想が一気に広がっても、それ以上の経験がないから具体的にはわからない。


「……そういえば、ガブリエルの名前がムカつくって言ってなかった?」

「ムカつくのは変わんないわー。だから、唐突に新聞丸めて殴っても気にしないで」

 ガブリエルなら軽く避けてしまうかもしれない。と、殴る気満々の清流には言えない。


「あ、そうだ。車に乗るなら長めのスカートが良いって言ってくれたけど……」

 私は話題を替えることにした。


      ◆


 休憩時間も終わって、マンションに戻るとちょうどガブリエルが帰って来た所だった。モッズコートに黒のジーンズ。似合わない黒ぶち眼鏡姿も見慣れてきた。

「おかえり。くらら」

「た、ただいま……」

 不意打ちの挨拶が鼓動を跳ね上げる。夫婦みたいでくすぐったくて仕方ない。


 悶えてしまいそうになるのを我慢して視線を下げると、ガブリエルの片手に液体パックを見つけた。

「あ、それ。洗剤?」

「ああ。下に届いていたから運んでおく。くららは先に部屋に行っていていい」

 笑顔で返されたけど、ついでにセットすると言って一緒に屋上へと向かう。


 屋上からは青い空が一面に広がっていた。マンションの周囲には同じくらいの高さのビルはあっても、超える建物はない。屋上にはフェンスもなく、十センチくらいの壁とは言えない壁がぐるりと取り囲んでいるだけで視界を遮る物がない。 


 二人並んで空を見上げていると、青い空に何かが足りないような気がしてきた。

「新宿ってもっと高いビルばかりって思ってた」

「この辺りは、建築物に高さ制限があると聞いた」

 近くに政府専用の施設があるらしい。


「青空、綺麗ね」

「……そうだな」

「え?」

 ガブリエルが私の手を握った。驚いて見上げると、悲し気な表情と視線がぶつかる。


「何?」

 胸の鼓動が跳ね上がる。大きな手が熱い。何も言えずに見つめ合っているとガブリエルが口を開いた。

「…………落ちると危ない」

 ガブリエルの言葉を聞いて、ときめきは一気に冷えた。


「子供じゃありません!」

 宗助の言っていた通り、ガブリエルが手を繋ぐ時は、私を子供扱いしているだけなのかもしれない。


「ああ、そうだな。すまない」

 苦笑して謝罪しながらも、ガブリエルの手は何故か離れなかった。

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