第8話 マンションの管理人
メッセージを見た私の動揺は竹矢にもすぐにわかったらしい。バイトを辞めたことが幼馴染にバレたと私は白状した。
「あー。まぁ、なぁ。家政婦のバイトっていうのは親御さんには言いにくいなぁ」
竹矢の理解は早い。古い頭の両親に独身男性の部屋で家政婦をしていると知られたら、実家に連れ戻されかねない。
『職業に貴賤はない』というのは、綺麗過ぎる建前だというのはわかっている。ガブリエルにご飯を作ってあげたいという安易な気持ちと、前職以上の給金に惹かれて頷いてしまったけれど、今の日本で家政婦という職業の印象はあまり良くない。
「このマンションの管理人っていうことで、俺の会社で正社員として契約するか? 辞めたくなったら、いつでも辞めていい」
竹矢の言葉に驚いた。仕事内容は変わらないのに名称が変わるだけで随分印象が変わる。正社員という響きも魅力的。
「あの……いいんですか? そんなに簡単に社員を増やして」
迷う私に、社員六名の小さな会社だからと竹矢は笑う。意味がわからないという顔をするガブリエルに竹矢が簡単に説明をする。
「……この世界でも差別というものはあるのか」
「この世界?」
まるで他の世界から来たような物言い。聞き返すとガブリエルが曖昧な笑みを浮かべる。
「とりあえず、決まりだな」
竹矢の即断即決に流されるまま、私は承諾した。
一時間もしないうちに、きっちりとした鉄紺色のスーツに銀縁眼鏡の三十代半ばの男性がマンションを訪れた。
竹矢の専属弁護士という男性は、
真面目を絵に描いたとは、この人のことを指すのだと思う。醸し出す空気に、物凄い圧がある。鋭い視線はガブリエルや竹矢の柔らかさとは全く異なっていて、蛇に睨まれた蛙の気分を味わえる。
「あ! あの、もしかして……被害者専門に弁護活動をされている……」
視線が怖くて、名刺に視線を集中させて気が付いた。スラップ訴訟や加害者が被害者を訴える理不尽な裁判に必ずと言っていい程、弁護士として名前が出る人で、報酬も受け取らない正義の味方だとネットでは話題になっている。
「ええ」
短く答えた柳見は、私に手早く指示をして書類を仕上げ、後日提出する物を告げた後、次の裁判の準備があると言ってお茶も飲まずに帰って行った。
「あっと言う間でしたね……」
ここに来る人々は、静かな嵐のように仕事を片付けて去っていく。
「四角四面で生真面目過ぎる性格だからな。仕方ない」
そう言って竹矢が笑う。被害者専門の弁護活動は竹矢が指示している訳ではなく、本人が空き時間を作って行っているらしい。
「ここだけの話な。あいつ、蛙が超苦手なんだぜ。この前もアマガエルがスーツの肩に貼り付いてるから取ってくれって、真っ青になって駆け込んで来たこともあるからな」
「え? アマガエル? あの、小っちゃくて緑の?」
「そ。公園の近くを歩いていたら飛びついてきたんだと。あいつ、妙に蛙に好かれるんだよなー」
嫌いなのに好かれるというのは災難だと思う。空気が鋭くて怖いと思ってしまったけれど、弁護活動の件も含めて、本当はとても優しい人なのかもしれない。次に会ったら怖がらずに話してみたい。
私の手元に残されたのは契約書と真新しい印鑑、仮の社員証まで揃っている。
「ありがとうございます」
お礼を言うと竹矢が苦笑する。
「じゃあ、晩飯は昭和のオムライスで頼む。肉じゃがは明日な」
「はい」
昭和のオムライスって何だろう。そんなことを考えながら、私は笑顔で答えた。
竹矢のリクエストのオムライスは、ケチャップで具材とご飯を炒めて、シート状にしっかりと焼いた卵で包むというものだった。いつも作るオムライスとは全く違うことに怯みつつも、これだこれだと喜んで食べてもらえた。
◆
午後九時前に自分の住む部屋へと送ってもらうと、エレベーターホールで宗助が待っていた。
「こんばんは」
ガブリエルが宗助に挨拶をしているのに、宗助は鋭い視線を投げかけるだけだ。
「また、そいつか」
吸っていたタバコを灰皿でもみ消して捨てる仕草は、かなりイラついているように見える。
「宗ちゃん! 挨拶くらいできないの!?」
「だーかーら、ちゃん付けするなって言ってるだろ?」
「私はもう帰るから構わないよ。それじゃあ、また明日」
ガブリエルは優しい笑顔で私の頭を撫でて、ちょうど開いたエレベーターに乗ってしまった。
「あーあ」
結局説明できていないし、また宗助とのことを誤解されたかもしれない。私は溜息を吐くしかなかった。
宗助を部屋には入れたくなかったので、近くのファーストフード店へと向かった。
「で。話って、何?」
ミルクティを飲みながら、話を切り出す。早く部屋に帰りたい。
「お前、バイト辞めてるだろ」
営業周りの際、私が働いていた飲食店を外から覗いていたと聞いて、私は頭にきた。
「何それ、監視してたの?」
「近くに取引先があるから、通り道なんだよ」
「どうして辞めたって知ってるの?」
「今日、昼の忙しい時間なのにワンオペだから、お前のこと聞いてみた」
「ワンオペ? そんな筈ないわよ」
昼の時間は常に六人以上が詰めている。六人でも捌くのが難しいのに、一人なんてあり得ない。
「お前が辞めた後、バイトが次々辞めたんだとよ」
竹矢の言葉がずしりと重みを持って思い出される。本当に潰されようとしているのかも。一方的な解雇に腹を立てていたのに、少し可哀想な気もしてきたから不思議。
「……仕事ねーなら、俺んち来るか?」
独身者向けの社宅にいたはずの宗助は、いつの間にか賃貸マンションを借りていたらしい。一部屋空いているから来てもいいと言う。
「は? 結構よ。仕事してるし!」
「何の仕事だよ。辞めてすぐに仕事なんてあるのかよ」
「不動産会社の正社員よ」
鞄の中から、仮の社員証を取り出して宗助に見せる。
「ICカードか……写真入ってないじゃん」
「仮だもん。入社したばかりだから、今、作ってもらってるの」
「こんな不動産会社聞いたこと……あるな」
宗助の言葉に、私は拍子抜けした。
「聞いたことあるの?」
宗助が聞いた所によると、あちこちのビルや土地を保有していて、オフィスにはほとんどいない、変わり者の社長がいると有名らしい。
「で、お前はこの会社で何の仕事してるんだ?」
上から目線で偉そうな態度にムカつく。
「……通いでマンションの管理人」
「お前が? 管理人?」
「共用部分を掃除したり、いろいろよ」
仕事の内容を言うのはためらわれるので、もらった雇用契約書をテーブルに広げる。
真剣な目で雇用契約書を素早く読んだ宗助は、驚愕の表情で顔を上げた。
「嘘だろ。待遇すげーな」
「何が?」
びっしりと詰まった文章の中には、勤務時間中に怪我やその他の被害にあった場合の補償について記載されていて、その補償金はサラリーマンの平均年収の三倍だった。その他にも、手当が厚い。
書類製作者の柳見の名刺を見て、宗助は言う事を無くしたらしい。
「ふーん。ま、それは置いておくか。あの男との関係は?」
「まるで尋問みたいね」
ガブリエルとの関係と言われて、私は顔が赤くなった。関係って言っても、私はガブリエルのファンで、声を掛けられて、助けられて、ベッドを借りて、抱きしめられて、キスの直前まで……と思い返した途端に、恥ずかしくてテーブルに突っ伏した。
「お前……何、顔芸してんだ?」
「別に。変な事は考えてないもの」
「変な事?」
「宗ちゃんが考えてそうな事よ」
「お前っ! あの男と付き合うつもりじゃないだろうな!?」
「は? だから、それが変な事ってことよ!」
思わず大きな声で返してしまったので店内で注目を浴びてしまっている。慌てて周囲に軽く頭を下げて、声も小さくする。
「……絶対違うから。有名なモデルさんなんだもの。近くて遠い存在よ」
ガブリエルは憧れの対象だから。私は自分に言い聞かせるように呟いて、ミルクティを飲み干した。
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