第7話 華の嵐
「おはよーございまーっす」
誰もいないとわかってはいても、念の為に挨拶をしながらマンションの扉を開ける。今日は竹矢は朝から出かけていると聞いている。昨日の夜食のハムサンドの皿は予想通りに居間のテーブルの上に置きっぱなしにされていた。
ガブリエルは朝のトレーニングの時間だろう。買ってきた食材を冷蔵庫に入れて食器を洗っていると玄関の扉が開く音がした。きっとガブリエルだと期待に胸が高鳴る。昨日、キスされそうになったことは、繰り返し思い出しては身悶えてしまう。
「あら? 何、この子」
玄関から入ってきたのは、アッシュカラーの長い髪にゆるやかなパーマを掛けた年齢不詳の美女。深緑色のカシュクールニットワンピースは、強烈な胸の谷間と細いウエスト、腰回りの曲線を強調している。片手にはベージュのコート、片手にはクリーニング店のロゴが入った大きなビニール袋を二つ下げている。
「あ、あの、家政婦です!」
「あー、聞いてる聞いてる。思いっきり若いわねー」
そう言われても二十六歳。若くはないですと口にしそうになって、それは嫌味になるかと曖昧に笑って返す。
「私は
ガブリエルのスマホに登録されていた名前だと、すぐにわかった。
「音代くららです」
私が名乗ると、紗季香の表情が何か企んでいるような含み笑顔になった。
「くららちゃんかー。ガブリエルの彼女候補って聞いたけど、彼のこと、どう思ってる?」
「ええっ!? か、彼女候補っ!?」
私の思考が真っ白になった。どう思っているかと聞かれても、好きだとしか答えられない。ガブリエルを何故好きなのか考えて、私は冷静になった。
私は、いつから、何故ガブリエルが好きなのか。
きっかけは、CMでバイオリンをピッツィカートで奏でている姿を見てからと思っていたけれど、その前から、もっと以前から好きだったような気がする。
「あらあら、百面相してるわよ。可愛いわねー。うちに誘いたいけど、残念ながら、男専門なのよねー」
紗季香はガブリエルが所属しているモデル事務所の社長で、竹矢の恋人だった。だからガブリエルのスマホに登録されていたのかと内心安堵する。
「心配しないで。うちの事務所は
声を上げて笑う紗季香の言葉がよくわからない。枕営業?
「私が枕営業してるの」
ぱちりと音を立てそうなウィンクは色っぽい。私はどう反応していいのかわからないので硬直する。
「もー! 枕営業なんて、嘘よ、嘘! 寝ないと取れない仕事は受けないわ!うちの客筋は抜群にいいのよ」
私の沈黙をどうとったのか、紗季香は笑いながら背中を叩く。私は、ようやく枕営業の意味がわかって顔が赤くなる。
「私が今までやってた仕事をお願いしていいかしら。どーも、男どもったら、タオルとか汚れてても気にしないのよねー」
紗季香が持っていたクリーニング店の袋には、一枚ずつ袋に包まれたシャツやタオルがたくさん詰まっていた。
更衣場所の籠に入った洗濯物を袋に詰めて、洗濯済のタオルや下着を棚に入れる。
「あの。洗濯はしなくていいんですか?」
「んー。してもいいけど、干す場所ないのよ。乾燥機仕上げだと、アイロン掛けなきゃいけないでしょ? 男二人分のアイロン掛けは重労働よー」
そう言われれば、怯んでしまう。自分のハンカチやブラウスにアイロンをかけるのも面倒で、最近はハンドタオルやノーアイロンで着られる服ばかりを選んでいる。
「楽させてもらえるところはありがたく楽させてもらうっていうのでいいのよ」
紗季香は手早くベッドのシーツや枕カバーを替えていく。玄関から入ってきてから、無駄のない流れるような動線で手慣れた作業で家事を片付ける。
「すごーい! キッチン綺麗になってるじゃない!」
キッチンを覗いた紗季香が声を上げた。いつも時間がなくて、キッチンは素通りだったらしい。
さまざまなファブリックを交換し、袋には洗濯物がいっぱいになった。
「これは、後で角のクリーニング屋に持っていくの」
着いてきてと言われて屋上へと向かう。管理室と書かれた扉を開けると、大きな発電機とパイプに繋がった液体パックが並んでいた。
「あ。発電機があるんですね。太陽光パネルとかないんですか?」
ビルの屋上に太陽光パネルを設置するのが、昨今当たり前なのに、屋上には何もなかった。
「市販の太陽光パネルってね。劣化が早いのよ。それに、あれ、重金属の塊だから、廃棄する時の処理費用が物凄く高いのよ」
「重金属?」
「あー。ようするに毒物の塊。十年後に再利用回収してくれればいいけど、現状、その見通しは立ってないから、怖くて導入できないわ。もっと安全な素材でパネルが作られるようになれば検討するけどねー」
パイプに繋がった二十リットルの液体パックは、シャワーやトイレの自動洗浄システム用の洗剤だった。この管理室からマンション全室に繋がっている。
「ここまでは、住人の誰かが運んでおいてくれるんだけど、交換まではしないのよね」
このマンションには、竹矢とガブリエル、他に五人が住んでいるらしい。
「他の子たちは、自活してるんだけど、あの二人だけはどうしようもないわ」
紗季香の口ぶりだと、他の五人も良く知っているらしい。広い部屋なのだから、竹矢と一緒に住めばいいのにと思いながらも口にはできない。何か理由があるのかもしれない。
紗季香は一時間も経たないうちに、仕事があるからと言って出て行ってしまった。
華の嵐のような人だった。そんな印象が心に残っている。派手な美人なのに、ほのかに香るのは優しい花の匂い。清流と同じか、それ以上にスタイルはいいけれど、纏う空気が遥かに色っぽい。
二人とも、物凄くうらやましい。せめてもうちょっと胸が欲しい。
「ただいま」
背後から突然声を掛けられて、私は飛び上がる程驚いた。
「お、おかえりなさい!」
振り向くと、黒いトレーニングウェア姿のガブリエルが立っている。その笑顔は優しい。不意打ち過ぎて、昨日一生懸命に考えた言い訳をすっかり忘れてしまった。
「そ……そうだ! お腹減ってない?」
宗助のことを誤解しないで欲しい。そのことを念押ししておきたいのに、全然別の言葉が口から出てしまった。
「昼まで我慢する」
時間を確認すれば、もう十一時半だった。ガブリエルがシャワーを浴びている間に、慌てて昼食を準備している内に竹矢が帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
黒のインバネスコート姿で帰ってきた竹矢は、手に可愛らしい紙袋を下げていた。
「紗季香は?」
竹矢の問いに、もう帰ったと答えると目に見えて竹矢がへこむ。紙袋の中身は、チョコレートとチョコレートケーキ。わざわざ好物を買いに出ていたと聞いて、気の毒に思う。
今日のお昼も竹矢のリクエストのメニューで、焼きそば。少し太めの麺を使って作ると昭和レトロな雰囲気になる。紅しょうがを添えるとますます古臭い。
「おおー。これよ、これ」
レトロな焼きそばを見て竹矢は少し浮上したらしい。大量に作った焼きそばがどんどん減っていく。わかめスープと水菜とトマトのサラダも竹矢のリクエスト。
ガブリエルはお箸で焼きそばを食べている。茶金髪と青い瞳に全然似合わない可愛い。味のことを聞いてみたい誘惑に駆られつつ、あまりしつこく聞いても嫌がられるかとぐるぐる迷う。笑顔で食べているから大丈夫と、自分の心に言い聞かせる。
食後の珈琲を飲んでくると言って、竹矢がソファから立ち上がった時、私のスマホからメッセージの着信音が鳴り響いた。
「あ。すいません。切っておくの忘れてました」
いつも仕事中は電源を切っているのに、今日は忘れていた。
「お。別にいいぞー」
竹矢は気していなくても気持ちは焦る。慌てて鞄の中からスマホを出すと、メールの一部が表示されていた。
〝――お前、バイト辞めただろ。今晩九時に待ってる。〟
バレた。宗助からのメッセージに、私は動揺するしかなかった。
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