第6話 隣にいる不安と隣にいる幸せ

「思い出さなくていいって、何?」

 ガブリエルの腕の中で、私は問いかける。この人は、一体何を知っているのだろうか。そして私は何故知らない言葉を話し、知らない合図を当たり前のように行ってしまうのか。


「すまない。……私が原因のようだ」

「原因? 何なの? 意味がわからない」

 ガブリエルの顔を見て話をしたいのに、顔を胸に押し付けられる。ガブリエルの心臓の音が早い。聞いていると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。


「……説明はしてもらえないの?」

「少し時間をくれないか。どう説明すればいいのか、考える時間が欲しい」

 そう言われれば、私は引き下がるしかない。ガブリエルは優しいけれど、一度心に決めると絶対に揺るがないと、私は知っている。


 知っている? 私は自分の考えに疑問を持った。数日前に知り合ったばかりのガブリエルのことを、そこまで理解している訳がない。

 こわばっていた体の力を抜けば、ガブリエルの腕の力も緩んだ。腕の中で見上げるガブリエルの目は寂しさを含んでいる。


「どうして、そんな顔をするの?」

 左手を伸ばして、ガブリエルの頬に手を添えると、ガブリエルの表情が驚きと悲しみに満ちたものに変わった。左手をそっと握られて、背中に片腕が回される。


 青い瞳が、ゆっくりと近づいてくる。私は目を閉じることも出来ずに、まっすぐに見つめるしかない。

 キスをされる。そう思ったのに唇に息が掛かる距離まで近づいて、ガブリエルは止めてしまった。


「……すまない」

 また強く抱きしめられた。

 ……ああ、やっぱりガブリエルは私にキスをしない。

 懐かしい温かさと匂いに包まれながら、私の心は、何故か諦めに満ちていた。


「……掃除をしなくちゃ」

 いくら言葉を尽くしても、ねだっても、今のガブリエルはきっと説明はしてくれない。仕事に戻らないと。

 私はガブリエルの胸を押して、その温かい腕の中から抜け出した。


      ◆


「掃除もせずに、二人でどうやって暮らしてたのか、知りたいわ」

 先程の件は忘れようと、私は大げさな仕草でハタキを振り回し、廊下を歩きながらガブリエルに問いかける。ガブリエルは少し困った笑顔でバケツを持ってついてくる。


 割と綺麗だと思っていた個所も、雑巾で拭くと引く程汚れていた。

「え、これ凄すぎ……」

 妙に綺麗だと思ったトイレは自動洗浄機能付き。常に泡で内部は洗われて、壁と床は使用後に洗浄水が流れて温風乾燥。シャワーにも同様の機能が付いていて、最新設備以上の設備に驚きは隠せない。どんなに便利でも、維持費を考えると夢のまた夢。


 五十畳の広い居間、ガブリエルと竹矢の部屋がそれぞれ十二畳、キッチンは四畳、ウォークインクローゼットが三つ、シャワーとトイレは三カ所、お風呂が一つ、バルコニーが二つ。竹矢の仕事部屋。おそらくは、ワンフロアが一つの物件という贅沢な造り。


「外の廊下に玄関ドアがいくつもあったけど、あれは何?」

「偽のドアだ。非常脱出用のドアもある」

 本当にいろいろと異常なマンションだと思う。入り口のガラス扉は防弾だし、居間やバルコニーの窓もすべて防弾で二重窓。壁も相当厚いみたいで、私の賃貸部屋の壁みたいな石膏ボードに壁紙とは全く違う。


 不動産会社の社長というのは、実はいろいろと身の危険もあるのかもしれないと考えつつも、単なる趣味なのかとも思う。暴漢を名前だけで退けた姿と、咥えタバコでだらしない姿との違いが激しすぎて、どちらが本当の姿なのかわからない。


 竹矢が籠るという仕事部屋の扉を開けると、別世界が広がっていた。床も天井も壁もすべて黒い大理石。奥の壁には数年前にニュースで見た覚えのある静物画が飾られている。当時の最高額で落札されて、購入者は日本人と言われていた絵によく似ていた。


「ほ、本物? まさか、ね」

 これが本物なら、竹矢は大富豪。

 絵の前には重厚な革のリクライニングチェアを取り囲むような大きな机。こちらも高級そうな木で出来ていて、巨大なモニタが四台取り付けられている。


 設置されているWEBカメラの角度から考えると、椅子に座る竹矢の背景に絵が映る。私でも知っているのだから、取引相手もわかるだろう。


「力のある絵だ」

 そう評したガブリエルは、これが高額な絵だとは知らなかった。自分の好みではないけれど、筆に勢いがあって力を感じると笑う。


 この部屋はほこりがないと思ったら、床や壁に吸引装置が付いていた。装飾的なデザインだからわかりにくいけれど、空気が吸い込まれていく。

「それでもやっぱり汚れるのねー」

 見えない汚れとでもいうのだろうか、雑巾で乾拭きすると黒い汚れが付いた。


 仕事部屋の掃除を終えると、夕方近くになっていた。

「あ! 晩御飯作らないと!」

 キッチンで晩御飯の準備をしていて思い出した。床に置かれていたゴミ袋が消えている。


「今朝、ゴミは出した」

 ゴミはガブリエルが分別して袋に詰めてゴミ出ししていると聞いて、似合わないと笑ってしまう。ガブリエルがこの部屋に来た当時は、ゴミが部屋に放置されていて酷い状況だったらしい。今よりも酷かったのかと想像するだけで背筋が寒くなる。


 ガブリエルに野菜を洗ってもらいながら、私は調理を始める。

 晩御飯は竹矢のリクエストのうち、親子丼を選んだ。鶏のモモ肉と砂ずりの二種類を使うレシピをネットで探しておいたから完璧。炊飯器はまだ届いていないので、パックのご飯を使う。


 白菜のお味噌汁を作っていて気が付いた。竹矢のリクエストは献立まで込みの具体的なものばかりだから、迷わずに作ることに集中できる。何でもいいと言われたら、きっと迷いに迷っていただろう。実は見かけによらず、本当に有能な人なのかもしれないと、失礼なことを考える。

 外国の取引先と外国語でやり合うと聞いてはいても、現場を見ていないので実感がない。


 夜食のハムサンドを作ってラップを掛けた所で、竹矢が帰ってきた。


「ただいまー。お。くららも食べてけよー」

 竹矢の言葉に内心喜ぶ。まだ午後六時前。これから帰って一人分のご飯を作るのは寂しいと思っていた。竹矢がどっちでもいいと言っていたので、ちゃっかり三人分を用意している。


「はー。家庭料理って、こうじゃなくちゃなー」

 親子丼と白菜のお味噌汁。きんぴらごぼうにゆず大根。温野菜は私が勝手に献立に入れた。

「肉じゃがはいつの予定だ?」

「明日作ります」

 私の返事に竹矢が目を輝かせて喜ぶ。大袈裟だと苦笑しつつも、頑張って作ってあげたいと思う。


「若い奴はオムライスだとかが好きらしいが、やっぱ俺くらいの年齢になると、肉じゃがって時々無性に食べたくなるわけよ。ほら、男が好きな料理だって雑誌で煽られ続けた年代じゃん? 彼女が張り切って鍋いっぱい作って、無理矢理食べさせられたなーって、甘苦い思い出があるからさー」

 竹矢の歳を聞いて驚いた。四十八歳。若々しいので全くそうは見えない。そして彼女がいるらしい。

 

「美味しい?」

 レシピ通りに作ったので失敗はしていないはず。好みの問題はあると思うから、ガブリエルにも聞いてみる。

「ああ。美味い」

 食べている時の笑顔が可愛いというのは、見ていて本当に嬉しくなる。私は、ふわふわとした気分で食事を楽しんだ。


      ◆


 帰りはガブリエルがマンションまで送ってくれた。今日も駅までで良いとは言えなかった。理由のわからない不安を感じる瞬間があっても、それ以上に隣にいることに幸せを感じてしまう。少しでも長く一緒にいたいと思う我がままな心に、私自身も驚いている。


「お茶でも飲んでいかない?」

「ああ。それはいいな」

 今日こそお茶でも飲んでもらおうと、私は部屋へと誘った。あれから、徹底的に掃除して、見られてマズイ物はすべて隠してある。誰が入っても、クローゼットの扉さえ開けなければ大丈夫。


 エレベーターの扉が開いた途端に、タバコを吸う宗助の姿が見えた。今日は濃いグレーのスーツの上にベージュのトレンチコートを羽織っている。脇に書類鞄を挟んでいるから、会社帰りなのだろう。


「宗ちゃん! だからそこでタバコ吸わないでって言ってるでしょ!」

「最近、喫煙者は肩身が狭いからな。吸える場所は限られてる」

「禁煙すればいいじゃない」

「営業はストレス溜まる仕事なんだよ」


 無視してガブリエルを部屋に案内しようとすると、宗助が廊下に立ちふさがった。

「こんな夜遅くに男を連れ込むのか?」

 宗助の言葉がいつもより攻撃的だ。目つきも鋭い。

「送ってもらったから、お茶飲んでもらうだけよ。まだ九時じゃない」

「もう九時だ」

 宗助の言葉に、ガブリエルがくすりと笑う。


「そうだな。もう九時だ。帰るよ」

「え? お茶くらい……」

「ありがとう。また、明日」

 ガブリエルは、大きな手で私の頭を撫でて、降りてきたエレベーターに乗って行ってしまった。


「また明日って、明日も約束してんのか? 仕事はどうした?」

 宗助に家政婦のバイトが知られたら、実家に伝わってややこしいことになりそうだ。私は隠すことにした。

「ちゃんとやってるわ。何の用なの?」

「お前に変な虫がつかないように見に来ただけだ」

 そう言いながら、宗助は私の後ろをついてくる。


「見に来ただけなんでしょ! ついてこないで!」

「お茶くらい淹れろよ」

「もう九時なんでしょ! 彼女の所でお茶でも何でも飲めば!」

 私は、宗助に八つ当たりしてから、部屋の扉を閉めた。

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