第5話 得体の知れないもの
緊張しながら、竹矢と約束した午前九時の少し前にマンションを訪れた。
黒い墓石のような台に近づくと、黒い面に数字入力パネルが表示される。手をかざし、教えてもらった番号を打ち込むとガラス扉が開いた。
「お。入れ入れー」
今日の竹矢はぼさぼさの髪で無精ひげ。墨色の作務衣に草履姿で口の端には茶色のタバコを咥えている。
「おはようございます」
部屋に入ってそっと見回してもガブリエルはいない。会えると期待していたので、少し残念。これは仕事なのだからと、自分の気持ちを引き締める。
「食料も掃除用具もなんもないから、買ってきてくれ」
竹矢に渡されたのは、プリペイドカードと現金の入った分厚い封筒。金額を聞いてめまいがした。カードは絶対に落とせない。
「お預かりします。お金は基本的にどこに収納しておけばいいですか?」
「お? そうだなー。ガブリエルの部屋に……」
竹矢の言葉が途切れて、玄関の扉が開く音がする。きっとガブリエルだと私の鼓動が跳ね上がった。
「ただいま帰りました……くらら?」
ゆったりとした紺色のトレーニングウェアにスニーカー姿のガブリエルが首に掛けたタオルで汗を拭きながら入ってきた。カッコイイ。心臓が早鐘を打っている。
「お、お、お、おはようございます」
いろいろ言いたいことは沢山あるのに何を言っていいのかわからない。ソファから立ち上がって挨拶すると変な声が出てしまった。竹矢が噴き出して、ソファを叩きながら笑っているし、ものすごく恥ずかしい。
「今日から一ケ月、家政婦のバイトしてもらうからな。お前も食いたい物があるならリクエストしとけよ」
竹矢のからかうような声に、内心冷や汗が出る。竹矢の希望する料理はネットでレシピを調べてきたから完璧でも、ガブリエルのリクエストに応えられるかどうかは自信がない。
「くららが作ってくれるなら、何でもいい」
青い瞳が優しい弧を描く。どうしよう。ときめきが止まらない。
「ま、とりあえず着替えてこいよー」
竹矢の声で我に返った。そうだった。ここにはもう一人いた。
ガブリエルが私の頭を撫でてから、自分の部屋へと向かう背中を見送る。
「あいつ、毎朝ジム行って、二十キロ近く走ってるぞ」
「毎朝!?」
あの肉体美はそうして作られているのかと思うと感心してしまう。
「俺は三日に一回のジム通いでひーひー言ってるのになー」
「え? 竹矢さんも体を鍛えてるんですか?」
「そ。老後に寝たきりにならないよーに鍛えてんのよ」
ひょろりとした竹矢に筋肉があるようには見えないと、かなり失礼なことを考えながら、ソファに座りなおす。
少しして、ガブリエルが着替えて出てきた。シャワーを浴びたのか髪が濡れていてそこはかとなく色っぽい。こげ茶色のYネックのカットソーに白のチノパン、黒革のスニーカーが似合っている。
「二人で買い出しに行ってきてくれ」
竹矢の依頼で、ガブリエルと私は出かけることになった。
◆
新宿の街を歩いて、様々な物を買い込む。フライパンや調理器具、掃除用具。ガブリエルと一緒に選んでいると、これから二人で暮らすみたいで、心がくすぐったい。
新婚さんに見えたりして……という妄想が走り出しそうで、頭を振った。
「どうした?」
「な、な、何でもないっ!」
幼馴染の宗助のことも誤解しないように釘を刺しておきたいのに、話題にするきっかけがつかめない。いきなり宗助とは付き合っていないと言うのも変な話だし。
「私も荷物持つから」
ガブリエルの両手には、紙袋やビニールバッグが大量に下げられている。黒の皮のトレンチコート姿には似合わない。さらに似合っていない黒ぶちの眼鏡は、UVカットレンズで度が入っていない。
「大丈夫だ」
笑うガブリエルが私の頭を撫でようとして、荷物で手一杯だということに気が付く。
「ほら。ちょっとくらい私が持った方がいいでしょ?」
私は、笑いながら荷物を少しガブリエルから奪った。
家電量販店で竹矢指定のコーヒーメーカーと炊飯器を届けてもらうように注文して、マンションへと戻ったのはお昼前。
お昼ご飯は竹矢が食べたいと言っていたスパゲティ・ナポリタンをケチャップ増量で作って出す。レタスサラダとコンソメスープも竹矢の希望。
「おおー。これこれ。最近見なくなったよなー」
ちょっと焦げがあるくらいがいいというのでリクエスト通りに作ったけれど、失敗したように見えるので不満がある。
「竹矢さんの希望どおりに焦がしたんですよ!」
「おう。この焦げがいいんだよなー。美味いぞ」
竹矢は上機嫌で山盛りのスパゲティをフォークに巻き取って食べている。
「ん? ガブリエルはお箸なの?」
ガブリエルはお箸でスパゲティを食べていた。お箸の使い方は叩き込まれたけれど、フォークの使い方はまだ慣れないとガブリエルは笑う。
「どう?」
「ああ、美味い」
ガブリエルの笑顔が可愛い。とにかく可愛い。どきどきしながら、私も一緒にスパゲティを口にするけれど、味なんてわからない。
二キロのパスタと二個のレタスが消えても、二人はまだ余裕らしい。食後の珈琲を飲んでくると言って、竹矢は外出して行った。
二人きりになると、何を話していいのかわからない。話したいことが沢山あったはずなのに、言葉が出てこない。
食器を片付けて、まずは玄関掃除からと廊下の茶色のざらざらとした床を見る。
「これ、もしかして、土?」
茶色の石だと思っていた床は、土や砂が踏み固められたものだった。箒で掃いただけではびくともしない。掃除用のヘラで表面を割ると、下の黒い大理石が顔を出す。土と大理石の間にヘラを入れると、べりべりと音を立てながら板状になった土が持ち上がった。
「うっわー、汚れが剥がれるって物凄く気持ちいいけど、何年掃除してないの?」
「少なくとも三年は掃除したことがないな」
ガブリエルも驚きながら、板状の土を見ている。二人で手分けすれば、大した時間もかからずに廊下が黒い光沢を取り戻した。
「黒い床って圧迫感あるけど、天井が高いから気にならないのね」
白い壁と天井はかなり高い。照明は脚立でも買わないと掃除ができない。
フローリングワイパーに乾いた雑巾を付けて壁を拭くと真っ黒になった。背の高いガブリエルにも手伝ってもらって壁を拭く。
「……白いと思っていた」
真っ黒になった雑巾を見て、ガブリエルが驚いている。肘までまくり上げたカットソーから見える腕は、程よい筋肉質。細くて長い指には色気が漂う。
仕事中に煩悩まみれは禁止と自分に言い聞かせてみても、胸のどきどきは止まらない。ガブリエルがモデルデビューして三年。ずっと画面や写真越しに憧れていた人が隣にいることが、まだ信じられない。
掃除は初めてだと言いながら、ガブリエルは楽しそうに雑巾を洗い、ハタキをかける。音楽が好きだからか、その動作音はリズミカルで面白い。私も箒で掃きながらリズムに乗る。
初めて一緒に掃除をしているのに、聞き慣れたリズムのように体が動く。
「よし。終わった」
「こっちも!」
自然に右手がガブリエルの方へと伸びた。ガブリエルも右手を伸ばしてくる。
ガブリエルが指を鳴らして、軽く手の平を合わせる。手の平を返して、手の甲を合わせて、また手の平を合わせる。
「……え?」
ガブリエルの手と手を合わせながら、私は不安を覚えた。手が自然に動いたのに、この動作の意味が全くわからない。
「これは、上手く行った時の合図だ」
笑顔のガブリエルの大きな手が、私の手を包む。
「……わからないの……勝手に手が動いた」
体が震える。何か、理由はわからないけれど、怖い。私は知らないのに体は知っていることが理解できない。
「……すまない。……もう思い出さなくていい」
ガブリエルの温かい腕が私を包む。その囁きは、少し残念な思いを滲ませているような気がした。
強く抱きしめられながら、私は得体のしれない恐怖に震えるしかなかった。
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