第3話 ついてない日

 スマホのアラームで目が覚めた途端、見慣れない天井にうろたえる。温かいお布団は軽くて、いい匂いがする。香水とかそういう匂いじゃなくて、人の匂い。

 アラームを止めて、思いっきり枕に顔を埋めて息を吸い込んだ所で、ガブリエルのベッドだと思い出した。顔が赤くなるのは止められない。


「うー。あー、もう! 可愛くてカッコいいとか、反則なんだからー!」

 きつねうどんを食べていた顔を思い出すと可愛くて、布団を抱きしめながら悶絶してしまう。CMや雑誌で見るガブリエルはクールでカッコいい印象だけど、実際のガブリエルは笑顔が可愛い。


 昨日、声を掛けられるまでは、ベッドを借りることになるなんて想像もしていなかった。ちょっといろいろを期待したのに、ガブリエルには全くそんな気はなかったらしい。運命の出会いなんていう都合の良い話は無かったという話。


「人の部屋って緊張するー」

 殺風景でもホテルとは違う生活感はある。クローゼットや引き出しを勝手に開けるのは気が引けるので脱衣場所に袋入りで積まれていたタオルを使わせてもらった。タオル類はクリーニング業者の袋でパックされていたから洗濯もしていないのだろう。


 時間は朝七時。ベッドを軽く整えてから、身支度をして扉を開けた。特に時間を約束はしていなかったけれど、ガブリエルはまだ眠っているだろうか。

 リビングへ向かうと、竹矢が座っていた三人掛けのソファで眠っているガブリエルの姿が見えた。私にベッドを譲って、自分はここで寝たのか。罪悪感を感じながらも、眠る姿を観察する。


 金に近い茶色の髪は少し長め。Yネックの白のカットソーとジーンズの下には、筋肉がしっかりと付いた細身の体。身長は百八十六センチだと公式サイトには載っている。微かに開いた唇が妙に艶めかしい。

「ん……?」

 ゆっくりと目が開き、私に手が伸ばされた。柔らかで夢見るような笑顔にどうしようもなくときめく。


「あ、あの……」

 二十六にもなって王子様の幻影を見ているなんて。そうは思いつつも近づいて、伸びた手に触れると腕を引かれて倒れ込む。


「!?」

 驚く間もなく、ソファに寝ころんだガブリエルに優しく抱き止められた。大きな手が背中を撫で、そっと柔らかく抱きしめられると心臓が壊れそう。


 恥ずかしいと思いつつも逃れるという選択肢は無かった。口紅を付けてしまわないように気を付けながら、頬をガブリエルの胸に寄せる。ファンデーションを塗らなくて良かった。変な安堵で息を静かに吐いて、穏やかなガブリエルの心音に包まれる。


 どうしたらいいのかわからない。このまま、永遠にいられたらと願うだけ。


『……昨日よりも随分……上達したね……クラーラ』

 ガブリエルの呟きが夢の中にいた私を引き上げた。日本語でも英語でもない、今まで聞いたことのない不思議な言語。それなのに私は意味がわかった。何故という疑問とクラーラという名前がひっかかる。昨日もガブリエルは私をくららではなく、クラーラと呼んだ。人間違いだと言っていたけれど、その女性はガブリエルにとって何者なのだろう。


『……今日は三十五章から……練習しよう……』

 ガブリエルは眠っているから、寝言なのだと思う。聞いたこともない言葉の筈なのに、意味がわかるということが理解できない。


 少し頭が冷えてきた。

 抱きしめられている状況でのときめきよりも、何故私が不思議な言語を理解できるのかということの方へと関心が向かう。再現してみようと思っても、口が上手く動かない。


「……ん?」

 ガブリエルの全身が一瞬硬直した。見上げると目を見開いて驚いている。

「あ、あの! その! ガ、ガブリエルがっ!」

 驚かれても、何と言っていいのかわからない。おろおろとするばかり。

「……ああ。すまない。……くららは暖かいな」

 ガブリエルの優しい笑顔は破壊力抜群。そっと頭を優しく撫でられると思考が飛んだ。


「え、えーっと。何があったって聞かないの?」

「夢の中で腕を引いた。私が実際にくららの腕を引いてしまったんだろう?」

 微笑むガブリエルに支えられて起き上がり、ソファに座りなおす。ガブリエルも起き上がって横に座る。舞い上がるというのは、今の私の状態かもしれない。ドキドキが止まらない。


「あの……泊めてくれてありがとう」

「いや、終電を知らなかった私が悪い」

 お礼をいうとガブリエルが苦笑する。竹矢は飲みに出掛けたまま帰っていないらしい。今日の仕事はと聞かれて、午後からだと答えた。


「朝食を食べに行こうか」

 誘われるままに着いて行くと、路地裏の喫茶店。高齢の店主と奥さんが営む小さな店だ。朝の忙しい時間の筈なのに、カウンターもテーブル席も空席が目立つ。


 二人掛けの小さなテーブル席に着くと、頼む前に料理が運ばれてきた。トーストにポタージュスープ、ベーコンエッグ、サラダに珈琲がセットになっている。

「ガブリエル? サラダは食べないの?」

 食べ始めたのに、ガブリエルはサラダに一切手を付けない。

「くららが食べたいなら、食べていい」

「そうじゃなくて! ……野菜、嫌いなの?」

 私の問いにガブリエルが眉を下げる。その表情は可愛くても見過ごせない。


「……生野菜を食べる習慣がない」

 ガブリエルの言い訳は聞く耳が持てなかった。

『食べないと、無理矢理口に詰めるわよ!』

 咄嗟に口から出た私の言葉に、ガブリエルが目を丸くしてから、声を上げて笑い出す。


「え? あれ? 今の何?」

 自分の口から出たのに、日本語ではなかった。きっとガブリエルの寝言と同じ言語。ガブリエルの言葉は怖くなかったのに、自分の言葉は何故か怖い。

「わかった。食べるよ」

 笑い終えたガブリエルがサラダに何も掛けずに食べようとするから、私は慌ててドレッシングを掛ける。あの言語の正体を聞いてみたいと思いながらも、知ってはいけない気がする。


 食べ終えた後、珈琲を飲みながらメールアドレスを聞くと、メールを使ったことがないと返された。それなら電話番号だけでもと言うと、番号がわからないとスマホを渡される。


「んー。人のスマホいじりたくないんだけど……」

 機種は違っても通信会社は同じで基本操作は変わらなかった。電話帳を開くと登録されているのは竹矢ともう一人。道風みちかぜ 紗季香さきかという女性の名前。

 誰なのかは怖くて聞けなかった。この人が恋人だから、私には手を出さなかったということだろうか。

 電話番号とメールアドレスを登録して、私のスマホへも登録する。


「家まで送ろうか」

「え? あ、はい!」

 ガブリエルの言葉は、私の予想を上回る。駅まででいいと言うべきだと思いつつも、一分一秒でも長く隣にいたい。



 新宿駅から電車で四つ目の駅の近くに私が住むワンルームマンションがある。親戚の伝手で借りているから、バイトの私でも払えるくらいの格安賃料。


 「……このマンションに入るのは登録も必要ないのか。危ないな」

 カードキーでマンションに入るとガブリエルが驚く。あのマンションの警備が異常なだけで、これが普通だと思う。

 室内干しの洗濯物や、何かマズイ物を出していなかったかどうか考えて、お茶くらいは飲んでもらえるだろうと部屋に誘う。


 賃貸の部屋の壁には何も貼れなくて、ガブリエルのポスターもカレンダーもファイル収納にしてあるし、写真集も退色しないように本棚には布を掛けてある。卓上カレンダーさえ隠せば何とかなる。


 エレベーターの扉が開いた途端に、幼馴染の火輪ひわ 宗助そうすけの姿が見えた。紺色のスーツ姿で壁にもたれてタバコを吸っている。ガブリエルの身長より少し低い百八十センチ。私にすればどちらも見上げるような高さ。


 このマンションのエレベーターホールには、灰皿が設置されている。それはエレベーターに乗る前にタバコを消すためのもので、吸うためのものではない。

「宗ちゃん! そこでタバコ吸わないでって言ってるでしょ!」

「くらら、ちゃん付けやめろって言って……誰だ、そいつ」

 私の横にいるガブリエルを見て、宗助の目つきが鋭くなった。


「と、友達よ!」

「は? 友達? そんなヤツ知らねーぞ!」

「どうして宗ちゃんに友達を教えなきゃいけないのよ! 関係ないでしょ!」

「関係ない訳ないだろ!」


 私と宗助の言い争いの中、ガブリエルが「ああ、良かった」と呟いた。

「え?」

 私が振り向くとガブリエルがとびきりの笑顔で微笑んでいる。

「君が幸せで、良かった」

 ガブリエルは私の頭を撫でて、ちょうど降りてきたエレベーターに乗って行ってしまった。


「……幸せで良かった? どういう意味だ?」

「わかんないわ!」

 たぶん、宗助と私が付き合っていると誤解したのだと思う。誤解されてしまったことが悔しい。メールを送ろうと思ったけれど、メールを見る方法を知っているかどうかわからない。タイミングが悪すぎて、もう溜息しか出ない。


「何の用なの? お仕事は?」

「営業周りで近くに来たから、顔見ようと思っただけだ。最近連絡がないっておばさんが心配してたけど、男と朝帰りなんてな」

「宗ちゃんと違って、変なことは一切してないから!」

 宗助は中学生の時から彼女がいる。次々と変わって、今は八人目と聞いた。高校生の時に朝帰りを目撃してから、何となく距離を置いている。


「ふーん。何だお前、まだキスもしたことないのか?」

 宗助のいつものからかいが始まった。いくら顔が良くても、嫌味ったらしい口調がムカついて仕方ない。

「うるさい! 帰って!」

 私は宗助に八つ当たりをしてから、自分の部屋へと入って鍵を閉めた。



 午後一番に飲食店のバイトに行くと、別室へと呼び出されて回りくどい話が繰り返された。

「……要するに、クビということですか?」

 私の問いに店長が眉を下げる。


「ごめん。昨日、音代さんが対応したクレーマーが、本社に怒鳴り込んだらしい。あることないこと吹き込んだみたいで、さっき本社から連絡がきた。本当にごめん」

 まだ三十代半ばの雇われ店長は、目の前で両手を合わせて私を拝む。

「対応と言っても、トラブルを起こしたのは私ではありません」

 私はお客とトラブルを起こした社員のフォローに入っただけなのに。顔に出してはいけないと思っても、理不尽さに耐えられない。


「それは聞いてる。クレーマーが覚えてたのが音代さんの名前だけだったんだ」

 フォローしたのは私だけではなかった。他に二人、合計四人が対応している。チェーン店の店長には何の権限もないとわかっていても不満は募る。

「あの……来月、正社員になるという話は……」

「ごめん。それは無理だ。他の店舗に回してもらえないか交渉したんだけど、難しいって」


 私は溜息を吐くしかなかった。前に勤めていた会社が突然倒産して、この飲食店でのバイトを始めた。来月には正社員として雇ってもらえる約束だった。


 生活の為に次の仕事を探す必要がある。職場都合による退職ということで書類が作成され、想像以上に高額の退職金は現金で渡された。給与は日割り計算されて後日振り込みだ。バイト仲間や社員に挨拶をして、私は店を後にした。



「あーあ。ついてない」

 朝から本当についてない。宗助のことをガブリエルに誤解されるし、バイトも運悪くクビだし。


 とりあえず鞄に入っている現金を銀行に預けようと歩いて行く。新宿の人混みの中、悔しくて泣きそうになったので、近道をしようと路地裏へと足を向ける。

 路地裏は人も少ない。深呼吸をしながら歩いていると、突然腕を掴まれた。


「あっれー? 昨日のおねーさんじゃん?」

 ぎりぎりと強い力で腕を掴むのは、昨日のピアスの男だ。

「今日も可愛いコート着てるねー。あー、今日はジーンズなのかー」

 服は替えたけどコートは昨日と同じものだ。ガブリエルがあっさり撃退したから、危機感を忘れていた。


 にやにやと笑う男の後ろには、昨日逃げ出した男たちが笑っている。

 私は片手で鞄を胸に抱きながら、恐怖に震えることしかできなかった。

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