第2話 初めてのきつねうどん

「彼女と部屋で話をしたいので連れて来ました」

 ガブリエルがそう口にすると、男はふにゃりと人の良さそうな笑顔を見せて、私は少しほっとする。


「お前が女の子連れ込むなんて初めてだな。入れ、入れ」

 連れ込むという言葉にひっかかるものはあるけれど、私が初めてと言われると少し嬉しくもある。それでも引き返すなら今しかない。

「すいません……。あの……どこか深夜営業の店にでも行きますから」


「あー、いいって。いいって。俺は竹に家で竹家たけや。俺にカップラーメンか何か作ってくれたら嬉しいなー」 

「あ、あの、私、音代くららです」


 流されるままに挨拶を交わし、微笑むガブリエルに促されて部屋の中へと入る。床は茶色の石で靴のまま。竹家の足元は裸足に草履。

 短い廊下を過ぎ、心地良い温度のリビングは乱雑。丸められた紙や脱いだままの服、ファイルや本が散らかっている。


 家具はツヤツヤとしたピアノのような黒い光沢の直線的なデザインで揃えられていて、白い壁とのコントラストがお洒落だけど圧迫感がある。中央には黒い革のソファセットと黒いテーブル。壁に掛けてある畳よりも大きなモニタには、海外のニュース番組が流れている。


「頼まれていたタバコです」

 ガブリエルがモッズコートのポケットから紙袋を取り出し、ソファに座った竹家が嬉々として受け取った。

「お。すまんな」

 紙袋の中身は茶色のタバコが四箱。ふわりと甘ったるくて毒々しい人工的なチェリーの匂いが漂ってきた。


「たまーに吸いたくなるんだよなー。これ」

 部屋でタバコを吸うのだろうか。それにしては喫煙者特有の部屋の匂いがないと思ったら、すぐに答えがわかった。

「火はつけないんですか?」

 竹家は咥えていたタバコを取り替えただけで、火をつけようともしない。


「俺、禁煙中なの」

 灰皿と思しき丸い缶には火をつけずに終えたタバコが刺さっている。意味が全くわからないと思いつつもタバコの煙は苦手なので助かった。


「キッチンお借りしますね」

 竹家の希望のカップラーメンを作ろうと、私はガブリエルとキッチンへと向かった。


「うわー。何これ……」

 素敵なデザインのキッチンは酷い状況だった。シンク内には何もなくても、いつ掃除したのかわからないくらいの茶色や黒の謎の汚れ。三ツ口のガスコンロにはヤカンが一つ乗っている。オーブン機能もついた電子レンジの中は真っ黒。床には分別されたごみ袋がいくつも置かれていて、気のせいかべとべとしている。


「……二人とも掃除とかしないの?」

 見上げるとガブリエルが目を泳がせる。

「掃除の仕方がわからない」

 確かに二人が掃除している姿は想像もつかない。カッコいいというイメージがどんどん崩れてしまっても、うろたえる表情が可愛いと思う。


「ん? 空じゃない?」

 カップラーメンが入っているという戸棚の中には何もなかった。

「カレーならある」

 そう言ってガブリエルが開けた戸棚の中には、様々な種類のレトルトカレーの箱とご飯のパックがぎっしり。大型の冷蔵庫の中には水と缶ビールのみ。調理器具はヤカンとフライパン。食器はラーメン丼が三つだけ。あとは割り箸と使い捨てのフォークとスプーン。


「ガブリエル……今日のご飯は何食べたの?」

「昼と夜にカレーだが」

「昨日は?」

「……カレー……」

 何故か怯んだガブリエルの表情に、ときめきやいろんな期待は完全に消え失せた。この二人に違う料理を食べさせなければという変な使命感が湧いてくる。


 ガブリエルと一緒にマンションの近くのコンビニへと出かけて、アルミの簡易鍋で汁ごと冷凍されたきつねうどんをカゴに入れた。これならコンロで温めるだけでいい。いくつかの惣菜と竹家に頼まれたおつまみを選ぶ。


 ガブリエルとの買い物は驚きの連続だった。何しろ値段を一切見ない。どっちがいいかなと尋ねると全部カゴに入れようとする。今まで、どうやって生きてきたのかと呆れてしまう。

 代金はガブリエルがスマホ決済で支払ってくれた。支払い方法だけは竹家に叩き込まれたらしい。


 部屋に戻ってきつねうどんを温めて、買ってきた食器用洗剤できっちり洗ったラーメン丼に盛る。違和感があるけどアルミの簡易鍋のまま食卓に出すのは個人的に抵抗があった。


「お。いい匂いだなー」

 竹家は上機嫌で食べ始め、ガブリエルはじっときつねうどんを見つめている。

「どうしたの?」

「……狐の肉をどう加工すれば、この形になるのかと不思議に思っていた」

 ガブリエルの言葉で、うどんを温めている時にも鍋を凝視していた理由がやっとわかった。気のせいか目を輝かせていて可愛い。


「これ狐の肉じゃないの。油揚げよ?」

「こいつは外国生活が長くて日本の常識が通用しないから、いろいろ教えてやってくれ」

 竹家が苦笑する。なるほど、きつねうどんは初めてなのか。油揚げは豆腐で出来ていると言えば、更に驚かれた。


 油揚げを一口食べて、ガブリエルが微笑む。

「おいしい?」

「ああ」

 あまりにも可愛い笑顔で胸が撃ち抜かれたような気がした。心臓に悪い。カッコよくて可愛いなんてズルい。

「あれ? くららは食べないのか?」

 竹家の声で我に返った。そうだ。ここにはもう一人いた。


「夜にご飯なんて、太るじゃないですか!」

「お。それは否定する論文がちょい前にでてるぜ。結局、太るのは摂取したカロリー総量が消費量を上回るからだ、ってのがな」

「ふ。それは知ってます。でも、女の幻想を壊すと恨まれますよ」

 先日、バイト先の常連さんからもその話は聞いた。

「おー、怖。まぁ、某科学雑誌に載った論文の九割が十年後には間違ってたって証明されるっていう話もあるからなー」


 竹家と話しながら、ちらちらとガブリエルの様子を見る。お箸を持つ手は上品で綺麗。どうやらきつねうどんは気に入ってもらえたらしい。次は、何かちゃんとした手料理を食べて欲しいと思いつつも、こんな機会はもうないだろう。残念過ぎる。


「ごちそーさん。泊ってくんだろ?」

「いえ! 泊るつもりはありません!」

 もっとガブリエルの話が聞きたいとは思っても夜は遅い。壁に掛けられた時計を見て、私の血の気が引いた。


「あ! 終電!」

 日付が変わって一時十五分。新宿からの終電の時間はとうに過ぎている。 

「泊り決定だな」

 竹家がにやりと笑って、新しいタバコを口に咥えた。


 リビングを出て案内されたガブリエルの部屋は、お洒落なのに殺風景。十二畳程の部屋にリビングと同じ黒い艶のあるベッドと大きなカウチ、クローゼットと本棚だけで、窓には白いブラインドが掛けられている。


 ガブリエルは眼鏡を外して本棚の空きに置いた。たぶん度は入っていない。

「えーっと。あの……」

 泊ることになってから、どうしようもなく緊張している。何を話していいのかわからない。助けを求めてガブリエルを見上げても、優しい笑顔が返ってくるだけ。


 二十六歳になるまで、幼馴染以外の男性の部屋に入ったことはない。それどころかキスをしたこともない。勢いだけでガブリエルに着いてきてしまったけれど、いざ二人きりになると、ときめきが止まらない。


 親友の言う通りに、いつも可愛い下着にしていてよかったと思う。彼氏もいないし、どうせ何も起きないと思いながらも、運が良くなるからと言われ続けて信じていた。


 肩を抱かれて、飛び上がりそうになった。コートの上からではなくリブニットの布越しの手の感触は暖かくて優しい。

「あ、あの……」

 こんな時、何て言ったらいいのかわからない。顔は熱くなっていくし、眼鏡を外したガブリエルの笑顔は近いし、心臓は煩いし。


「その扉の向こうにシャワーとトイレがある。この部屋の物は自由に使っていい」

 ガブリエルはそう言った後、私の肩を優しく叩いてから笑顔で扉を閉めた。


「……え? ………ええっ!?」

 部屋の中に独り取り残された私は、呆然と立ち尽くすしかなかった。


   ■


 部屋を出てリビングに向かうと竹家がソファに座って書類に目を通していた。

「お? 一緒に寝なくていいのか?」

「はい。すいません、終……電というものを知らなくて」

「そうだな。異世界には電車がなかったんだろ? 知らなくて当然」

 竹家が苦笑する。常に口の端に咥えたタバコに火がついている所を見たことはない。


「しかし、どういう風の吹き回しだ? 今までどんな女にも興味なかったろ?」

 竹家の問いはもっともだ。これまで私はどんな女性にも関心を持てなかった。クラーラに酷似したくららを見て、どうしても声を聞きたくなった。そして引き留めた。

「昔の友人に似ていたので、声を掛けてしまいました」

「異世界の友達か? 普通の嬢ちゃんにしか見えないけどなー。ま、男が女に興味があるのはいいことだ。すまん、座る前にビール取ってきてくれ」

「はい」


 冷蔵庫の中には、缶ビールと水のペットボトル、くららが買ったサラダとチーズも入っている。缶ビールを二本持って戻り、一本を竹家に渡し、一本は自分の為に開けた。


 竹家は次々と封筒を開け、書類を確認している。すばやく選り分けてファイルに綴じ、不要な書類はシュレッダーに掛けていく。手伝いたいとは思うが、漢字と専門用語が並ぶ書類はまだ読むことができない。


 私は異世界から転移してきた異世界人だ。この町に落ちた所で竹家と出会い、拾われた。


「どうした? 何か言いたいことがあるなら、すっきりしとけよ」

「……貴方にどうやって恩を返せばいいのかわかりません」

 素直な気持ちを告げれば、竹家が苦笑する。


「お前が楽しい異世界生活を送ってくれれば、それで俺は満足だ。……前にも言ったけどな、俺の手はいろいろと汚れてる。表向きは引退したってことになってるが、全身どっぷり闇世界に漬かってる」

 竹家は詳細を語らないが、危ない裏仕事もしているようだ。私を拾った数日後、どこからか天峰和久名義の戸籍と経歴を手に入れてきた。当時は理解できなかったが、三年をこの世界で過ごした今では、それが違法なことだと理解している。


「お前が空から落ちてきた時、恥ずかしい話だけどな、お前が天使に見えた。綺麗なものを綺麗なまま護りたいっていう俺のセンチメンタルに付き合ってくれよ。……あ、そうそう、俺は男色の趣味は絶対にないからな。寂しくてもベッドに来るなよ」

 私が空から落ちてきた時、竹家には白い翼が私を受け止めたように見えたらしい。実際、私は無傷だった。


 書類の整理が終わった竹家は、シュレッダーから出した紙片を布袋に詰めた。ごみを放置する癖のある竹家が、唯一管理するのがこの紙片だ。布袋は週に一度、竹家自身がどこかに持っていく。


「明後日、雑誌の撮影だろ? 寝不足だとアイツが怒るぞ。俺は朝まで飲んでくるから、俺のベッドを使え」

「いえ、このソファをお借りしたいのですが」

「女と結婚して養うのは金が要るぞ。稼げる時に稼いどけよ」

「結婚というのは飛躍しすぎです。友人になれたらいいと希望しているだけです」

 クラーラはとても明るい娘だった。年の離れた妹のようで、会えばいつも楽しい気持ちにさせてくれた。くららと友人になり、あの時の楽しい時間だけでも取り戻せたらと思っている。


「ほー。ま、友達でも何でも、人と繋がるっていうのはいいことだな」

 缶ビールを飲み干した竹家は、意味ありげな笑みを浮かべて外出していった。

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