晴れた空の中、遠い月に手を伸ばす

ヴィルヘルミナ

第1話 冬の夜の再会

 とある冬の夜、私の日常が突然壊れた。


 午後十一時の新宿駅は、飲んで帰宅する会社員と今から遊び歩こうという若者とで混みあっている。バイト帰りの疲れた体で人波を泳ぐのは、繰り返される日常の中で、ほぼ自動的な動き。


 通販で買ったばかりのベージュのコートが重い。裾のスカラップとリボンの可愛さに惹かれて買ったものの、疲れた体には結構キツイ。とはいえ、アイボリーのリブニットとチョコレート色のフレアスカートの組み合わせは可愛くて気に入っている。


 混雑を横切っていく人を避けた途端に、後ろから右肩を掴まれた。

「クラーラ?」

 驚きと優しさを含む声に振り向くと、茶色に近い金髪に青い瞳の背の高い男性が驚いた表情で私を見下ろしていた。モッズコートに白のYネックのカットソー、ジーンズに革のスニーカー。黒ぶちの野暮ったい眼鏡を掛けていても美形だとすぐにわかる。


 私はその男性を一方的に知っている。モデルのガブリエル。


「あ、あの、音代おとしろくららです。どうして私の名を?」

 私は毎日ネットや雑誌でガブリエルを見ていても、会ったことは無い。ドキドキと煩いくらいに心臓が早鐘を打ち始める。


「くらら? ……申し訳ありません。人間違いだったようです」

 少したどたどしい発音でガブリエルが苦笑した。苦笑とはいえ、初めて見る笑顔に心の中で悲鳴を上げる。


 嘘嘘嘘。目の前で起きていることが信じられない。動画や写真では一度も見たことのなかったガブリエルの笑顔が心に深く深く衝撃を残す。


 人目が無ければ絶叫したい。それでもギリギリ我慢した。憧れの人の前で騒ぐのは、みっともないと理性が一応仕事をしてくれた。


 単なる人間違い。学生の頃には運命の出会いなんていう夢を見たこともあるけれど、現実は甘くない。


「すいません。痛くありませんか?」

 ガブリエルの手が肩から外れると少し寂しい。

「だ、大丈夫です」

 これで別れてしまうのか。人間違いだろうが何だろうが、もうこんな機会チャンスは二度と起きないと思う。咄嗟に話題を続けようと私は口を開く。


「あ、あの、CM見ました! あの曲、とっても素敵です!」

 動画サイトでは、ガブリエルがヴァイオリンをピッツィカートで弾くCMが話題になっている。コンパクトなスポーツカーという商品よりも音楽が注目されて、CD販売を希望するデジタル署名がネットで行われる程の人気。私は、その独特な音楽を聞くと何故か懐かしさを感じていた。


 突然ガブリエルが私の肩を抱き寄せた。人目があるのに大胆過ぎる行動に飛び上がりそうなくらいに驚く。

「すいません」

 ガブリエルが謝ったのは、周囲の人に向けてのことだった。人波の中で立ち止まっているのだから、完全に邪魔な存在でしかなかったと気付いて私も軽く頭を下げる。


「……移動しようか」

 通路の端へと歩きながらもガブリエルの大きな手は肩に添えられている。口から心臓が飛び出そう。顔もきっと赤い。


 ありえない。ありえない。この状況はありえない。夢としか思えないけど、肩には間違いなくガブリエルの手が乗っている。


「そ、そうだ! お、お茶! お茶にしませんか?」

 何も無しで別れるという選択はなかった。午後十一時という時間も頭から消えていた。この機会を逃したら、ガブリエルとお茶を飲むなんて二度とない。


「ああ。それはいいな」

 そう言ってガブリエルが微笑むと、私の理性は完全に壊れた。


      ◆


「申し訳ございません。ラストオーダーの時刻を過ぎております。またのご来店をお待ちしております」

 時間は午後十一時半。三件目のカフェでも入店を断られた。後はお酒も提供している店か、にぎやかなファストフード店しかない。


「ごめんなさい。歩き回ることになっちゃって」

「大丈夫だ。私が店を知らないのが悪い」

 ガブリエルはこの近くに住んでいるらしい。歩きながら聞く話も驚くようなことばかりで実は楽しい。


 新宿に三年住んでいて、よく迷子になるので位置情報付のスマホを持たされていること。日本語の勉強中で時間を見つけては本を読んでいること。車のCMが決まったのに免許を持っていなかったので合宿所に放り込まれた話が特に面白い。

「車の免許取れたんですか?」

「ああ。運転は構造が理解できると簡単だ。筆記試験は例題を全部覚えた」

 長財布から出てきた免許証は、間違いなく本物。


「あ……ガブリエルって本名じゃなかったんですね」

 天峰あまみね 和久かずひさ。二十六歳の私より二歳年上の二十八歳。ハーフだと勝手に思っていたのでちょっと意外に思う。写真では眼鏡を掛けていないので、今掛けている眼鏡は度の入っていない物だろう。


「……いや、その……」

 何故かガブリエルが言葉に詰まった。

「えーっと、どっちの名前で呼んだ方が嬉しいですか?」

 私の問いにガブリエルの方がいいと答えが返ってきた。どうやら本名はあまり好きではないらしい。


「じゃあ、ガブリエルさんとお呼びしますね」

「いや。さんはいらない。ガブリエルで」

 ガブリエルの笑顔がまぶしい。写真ではいつも真剣な眼差しか憂いに満ちた表情しか見たことがなかったので、一歩下がってしまう程、破壊力抜群。しかも近い。近すぎる。


 とりあえずファストフード店に行こうと歩いていると 人のいない路地に入ってしまった。昼間は人通りの多い場所だから夜も人がいると勘違いしていた。途端に酔った若い男たちが絡んでくる。


「おねーさん、そんな男ほっといて俺たちと遊ばない?」

 両耳についた大量のピアスや首元のネックレスがじゃらじゃらと不気味な音を立てている。黒い革のライダースジャケットにカーキ色のプリントシャツ、破れ加工の黒のスキニーパンツは、流行りだけれど品はない。


「私の連れに何か用か?」

 私の肩を抱き、眼鏡を外したガブリエルの雰囲気が激変した。鋭い目つきは別人のよう。若い男が一瞬怯む。ごく自然な流れで手渡された眼鏡を預かる。


 あれ? 前にも私はガブリエルからこうして何かを預かったような気がする。一度だけじゃない。何度も。


「この野郎! 生意気だな!」

 殴りかかってきた若い男の拳をガブリエルは片手で止めた。腕を捻って背中を取り、他の男たちの盾にする。


「抵抗するなら腕が使い物にならなくなるが、いいか?」

 若い男に囁く静かな声が恐ろしい。若い男は首を横に振り、男の仲間たちは走って逃げ去ってしまった。

「お、おい! 待てよ!」

 独りになってしまった若い男の腕を離すと一目散に走って逃げていき、暗い路地にはもう誰もいない。


「……夜の新宿というのは、危ない場所なんだな」

 溜息を吐いて眼鏡を掛け直したガブリエルは、元の優しい表情に戻る。そう。いつも私はガブリエルに護られていた。


 そんな訳はない。私は今日、ガブリエルと初めて会った。気のせいというか、私の願望が錯覚を起こしているのかもしれない。


「あ、ありがとうございます」

「お礼を言われることではないよ。……私の部屋が近いから、そこで話そうか」

 ガブリエルの言葉に、私の心臓は破裂するかと思った。初対面でいきなり部屋に誘うなんて、それはどうかとも思うし、行ってもいいと思う私も異常だと思う。


「へ、部屋で? 話す?」

 緊張のあまりに、変な声がでた。恥ずかしくて頬が熱くなる。

「ああ」

 ガブリエルの綺麗な笑顔には、よこしまな影を一切感じない。でも、さっきみたいに別人のような鋭さもある。どちらが本当のガブリエルなのか。


 本当に着いて行ってもいいのか迷う。何かあったらという不安と、何かあってもいいと思う期待とを天秤に掛けながら、私は歩き出した。


      ◆


 緊張しながら同行した先は路地裏の地味なマンション。お洒落なタワーマンションや豪華なマンションを想像していたのに、それは勝手な妄想だった。

 エントランスは真っ黒な大理石で出来ていて、威圧感が半端ない。一歩入った途端に灯りが煌々と照らされて、ステージか何かに立った気分。


 ガブリエルは墓石のような黒い石に手をかざす。

『認証クリア。開錠コードを打ち込んでください』

 機械的な女性の声が響く。素早い動作でコードが打ち込まれるも、カバーが付いているので横から見ることはできない。


 ガラスの扉が開いて一緒に入ろうとした所で、アラーム音が鳴り扉が閉じた。

『同行者の登録が必要です』

「ああ、そうか。そうだった」

 ガブリエルが何かを思い出したらしくて、また黒い石の前に戻る。

「入るには一度登録する必要があるんだ。登録してくれないか?」

 一瞬迷ったものの私は素直に頷いた。黒い石に手をかざす。


『登録を開始します。身分証の提示もしくは生体情報スキャンを選択してください』

「せ、生体情報?」

『虹彩パターンが一般的です』

 音声の勧めが何となく怖かったので、私は原付の免許証を提示する。パシャリと撮影音がして登録が終わった。


「見た目と違って、セキュリティが厳しいマンションなのね」

 エレベーターも止まる階が決まっているようだ。表示される階数は三つしかない。

「他のマンションは違うのか?」

「違うというか、いろいろあるの。私が住んでる所は入るのにカードキーが必要だけど、ガラス扉が開いた時に知らない人も一緒に入ることができるもの」

「それは危ないな。……あのガラス扉は防弾だそうだ」

「え? 何それ」

「それも普通ではないのか……」

 ガブリエルが驚いている顔が可笑しくて、私は笑ってしまう。CMや雑誌では見ることのできない表情は貴重。私が笑うと柔らかい笑顔が返ってきて、ときめきが止まらない。


 ここまで来たら、もう後戻りはできない。運命の出会いなんて信じる歳ではなくなったけれど、無理矢理にでも運命の出会いにしたい。


 怖いとは思っても一夜限りでも構わないと思う。ガブリエルは人気のあるモデルさんだし。もしかしたら、こうして女の子を部屋に連れ込むのが日常化しているのかもしれない。


 最上階でエレベーターが止まった。気のせいか部屋の扉がとても頑丈な物に見えて仕方ない。廊下を歩きながらガブリエルが鍵を取り出す前に、扉の一つが開いた。


「お。おかえりー……あ? 女?」

 ぼさぼさの黒髪に無精ひげ。紺色の作務衣。口には火の付いていないタバコを咥えた三十代半ばのひょろ長い男が、私を見て目を丸くする。


「あ、あの、こんばんは。初めまして……」

 私はガブリエルに着いてきてしまったことを、初めて後悔した。

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