第3話 仰向け漂う償いおもちゃ

 第3章 アオむけタダようツグないおもチャ



      1


 本気かどうかじゃなくて。単純に一緒にいたかっただけ。

 こんなノイズで脅さなくたって。お別れならそうゆってくれればわかる。もう会えないならそうゆってくれれば。

 泣くかもしれないけど。

 泣いていいかな。僕にまつわる奇跡が一個消えちゃったわけだから。

 僕の声は弟にしか聞こえない。はずだった。ノリウキに聞こえたのはノリウキが頭いいからだと思うけど、ヨシツネさんに聞こえたのは。なんだろう。奇跡。

 もうちょっとカッコつけていいなら、運命。とかゆってみる。

 誰にも聞こえてないけど。

 データは消した。忘れたいけどデータみたいに簡単にいかない。

 メール。返すの忘れてた。怒ってるかな、ノリウキ。

 大丈夫みたいだった。ぴりぴりしてるのはいつものことだ。

  僕≫迷惑掛けてごめんね。勉強続けて。

  ノリウキ≫無理だよ。気になって。

  僕≫教えなきゃよかったね。

  ノリウキ≫不幸、て誰だと思う?

  僕≫実家、に引っかからないところがノリウキらしいね。

  ノリウキ≫だって実家なんか近畿地方だろうし。

  僕≫京都?

  ノリウキ≫たしかに京都って言ってたけど。

  僕≫京都じゃないの?

  ノリウキ≫まあそれはいいや。家族構成って聞いたことないよね。

  僕≫きいても教えてくれないし。誤魔化される。

  ノリウキ≫なんで教えてくれないんだろう。

  僕≫言いたくないんじゃない?

  ノリウキ≫なんで言いたくないんだろう。

  僕≫複雑な事情があるんじゃない?

  ノリウキ≫それって、なんだろうね。

 たしかに。特に考えたことなかった。言いたくないならいいや、で。無理強いするのは嫌いだし。ヨシツネさんははぐらかすの上手だし。

  僕≫巻き込みたくなかった?

  ノリウキ≫もう充分巻き込まれてるよ。そうじゃなくて、なんで巻き込みたくなかったか。巻き込むと困るような内容ってことにならない?

 さすがノリウキ。考えもしなかったことをあっという間に。

  僕≫そんなにスゴい家なの?

  ノリウキ≫そこは推測でしかないけど。ヨシツネさんて、過剰に干渉するくせに、肝心なときにひょいって引くと思わない? ここからさきはご自由に、てさ。最初は考えてくれた結果そうゆうことしてるんだと思ってたけど、本当のところ、そうじゃないんじゃないかな。親しくなるのを避けてたってゆうか。

  僕≫そう?

  ノリウキ≫うん。あ、俺の勝手な思い込みだけどね。

 勝手な思い込み。とは思えない。ノリウキの考えなら信じられる。可能性も高い。

  僕≫親しくなりたくないって?

  ノリウキ≫つまり、わかってたんだよ。別れの日が来るって。

 メールはいったん中止。本当は僕が行くべきなんだけど、ノリウキが来てくれるってゆうから。

 家にいると焦る。

 わからなくはないけど。僕が時間奪ってるみたいでつらいな。

 玄関で出迎えたときのノリウキの顔は、ちょっと怖かった。でもすぐいつもみたいにぴりぴり顔に戻る。

「話したいことあったんだよね?」

 僕は頷く。さすがノリウキ。なんでもお見通し。

「ピアノ弾いてないけど」

 〉〉立ち会う?て、訊いたんだけど逃げられちゃった。

 まだ引きずってんのかな。僕もだいぶ引きずってるんだけど。

 僕にはおじさんがいた。優しい優しいおじさん。僕らを置いていなくなっちゃった母親の弟だから、本当のおじさん。親戚をたらい回しにされてた厄介な双子、である僕たちの面倒を快く看てくれた。

 僕らは何かが欲しかったわけじゃない。ご飯も自分で作れるし、そうじだって洗濯だって自分でできる。でも小学生の僕らが唯一困ったことは、おカネ。それがないことには生きていけない。だから誰か大人に面倒看てもらわないといけなかったんだけど。

 みんな、僕らを疎ましく思ってた。居候。穀潰し。そうゆう意味じゃなくて、僕らのことが嫌いだった。好いてくれなかった。僕らが好いてもらわないように振舞ったのもあるんだけど。養ってもらってもうれしくなかったから。だって僕らは、おカネさえあれば二人っきりで生きていけた。

 そんなときに、おじさんと出会った。おじさんは一人暮らしだった。何の仕事をしてるのかわからなかったけど、とにかくおカネ持ちだった。たぶん冗談だと思うけど、一生かかっても使えきれないくらい貯金があるんだよ、とおじさんは笑った。おカネのない僕らとおカネのあるおじさん。見事にぴったり。

 おじさんと一緒には住まなかった。家はちょっと離れてたんだけど、僕らが困ったときや来てほしい時はすぐに駆けつけてくれた。適度な距離で、とっても楽しい時間だった。

 でもある日、おじさんのお父さんとお母さん、つまりは僕らの祖父母なわけだけど、その人たちが僕らを引き取るとゆってきた。

 お祖父さんとお祖母さんには昔、何度か会ったことがある。嫌な人じゃない。とっても優しい。だからこれはきっと喜ぶべきなんだろうけど、僕らはそんなにうれしくなかった。おじさんのほうがいい。それに、お祖父さんとお祖母さんが僕らを引き取るとゆってきた理由、もちろんなんとなくわかっちゃったんだけど、おじさんのことが嫌いだから大事な孫を任せられない。たったそれだけの理由。

 お祖父さんとお祖母さんの家に引越しした日。荷物運びのためにおじさんが付き合ってくれたんだけど、僕らは最後の抵抗を試みた。さびしい。そうゆったらおじさんは、ちょっと哀しい顔をした。

 それっきり、おじさんとは会ってない。遊びに行くつもりだったのに。二人で新幹線に乗って。おじさんに会いに行くはずだったのに。

「どうなったの?」ノリウキが言う。

 〉〉行ったよ。行ったんだけど、いなかった。

「約束してかなかったとか? 驚かせようと思って?」

 僕は首を振る。

「電話に出なかった?」

 僕は頷く。

 〉〉だから心配になって行ってみたんだけど。

 ちょっと留守にしてますって感じじゃなかった。ここはしばらく誰の出入りもない。そうゆう家になってた。廃墟の二歩手前。もう二歩早く僕らが来てれば、もしかしたらおじさんに会えたのかもしれない。そう思うと、よけいにつらくなった。

「心当たりはないんだよね? おじいさんとおばあさんたちは?」

 そこまでゆって、ノリウキは気づいてくれる。

 おじさんは嫌われてる。

 〉〉勘当ってわけじゃないんだけど、うっかりおじさんの話したことがあって。

 すっごく厭な顔された。

「なんで嫌われてるのか訊いてもいい?」

 〉〉昔ケンカしたんだって。そのままずるずる断絶。だと思う。

 ノリウキはちょっとごめん、とゆって立ち上がる。お手洗い。僕も休憩。これだけ文字式メッセージ送るととっても疲れる。文字式メッセージ。

 ヨシツネさんが命名してくれた。おじさんには届かなかった。

 でもおじさんは必死にがんばってくれた。僕の声が届くように。僕もがんばった。おじさんには聞こえてほしい。届いてほしい。無理だったけど、すごくうれしかった。

 ミカン箱からミカンを持ってくる。ノリウキはミカンが好きだからあげよう。

 ちょうど戻ってきた。

「ありがと。ミカンて小さいほうがおいしいよね」

 〉〉酸っぱいからね。

「大きいのってなんか間延びした味しかしない。なんでだろ。単に種類の違いかな」

 僕も食べよう。喉渇いた。喋ってないけど。

「さっきの話、まだ続くんだよね? いままでのは前置きで」

 僕は頷く。やっぱりノリウキは優しい。

 ミカンを口に入れる。

 〉〉おじさんとヨシツネさんは知り合い。

 ノリウキは特に吃驚した風じゃなかった。たぶん予想ついてたんだ。それでもしっかり僕の話聴いてくれるところが、本当に優しい。

「単なる顔見知りじゃないんだよね? ちょっと深い」

 〉〉深いか浅いかはわかんない。おカネの関係。

 ノリウキには伝わったと思う。

 僕のところに届いたノイズ。むーくんのところに届いた写真。ヨイチくんのところに届いた動画。これを総合すれば、つながる。

 おカネ。

「聞いたの? その、おじさんから」ノリウキが言う。

 〉〉ううん。ヨシツネさんから。

 俺、ツグちゃのおじさん知っとるよ。

 〉〉そのだいぶあとに、手紙もらって。

 渡そ渡そ思て、いまんなってごめんな。悪いんはぜんぶ俺やから。

 僕は座布団の下から便箋を出す。封筒はもらえなかった。たぶん、ヨシツネさんの宛名が書いてあったから。僕宛じゃなくて、ヨシツネさんに宛てた本題の手紙のなかに同封されてたおまけのメモ。そんな程度の。

 おじさんは、ヨシツネさんをすごく大事に思ってた。そうゆうことだ。

「読んでいいの?」ノリウキが言う。

 僕は頷く。読んでもらうつもりで渡したのに、ここで断りを入れるところがノリウキらしいとゆうか。律儀だなあ。

 すぐに読み終わる。たった、数行の。

 ノリウキは便箋を元の通りに折って僕に返す。

「深読みするなら、おじさんはもう」

 この世にはいない。

 はっきり書いてない。そんなことどこにも。でも僕にはわかる。ダーにもわかった。ノリウキには簡単にわかる。ヨシツネさんは、きっと読んでない。親展、とかそうゆうことじゃなくて、ヨシツネさんは。

「知ってるんだね」ノリウキが言う。

 僕は頷かなかった。ヨシツネさんが悪い、てことになっちゃうと思った。のりうきはそんなこと微塵も思ってないと思うけど。

「本当になんてゆうか、優しいよね、あの人」

 ほら。

 〉〉うん。

「詳しく聞きたい? えっとその、おじさんが」

 ノリウキはわざと訊いてくれた。答えなんか最初からわかってるのに。

 僕は首を振らない。頷くのもしない。

 ミカンの皮が散らばっている。ほとんどノリウキが食べた。皮を捨ててきたついでにお茶を淹れた。緑茶。お煎餅があればよかったんだけど、昨日ダーが食べちゃった。買ってこないと。

 ノリウキは縁側で窓の外を見てた。寒いのに。

「頭すっきりするんだよ」

 昨日降った雪は溶けつつある。夕方までにはなくなっちゃう。

「あーあ、ついにあと一ヶ月」

 〉〉余裕じゃないの?

「最後の詰めがね。あと俺、本番弱いから精神面の強化とか」

 〉〉なにそれ。

「合宿とか。あとは座禅?」

 〉〉頭丸めるとか。

 笑う。僕も笑う。

「そのくらいしないと受からないかも。中高って失敗してるし。何がいけないんだろう。運悪いのかな」

 僕も窓の外を見る。結露。見えないんだけど、見てみる。

 ノリウキが指で丸を書く。

「名古屋なんだけど」

 知ってるよ。そのくらい。


      2


 復帰早々3人か。と思ったが馴染みの父親がこれから用事があるとのことで退席。積立金順位暫定一位の割にはやる気があるんだかないんだか。帰ってきたら、という約束すらしてない。帰宅見込み時刻がわからないなんて、んなアホな。

 積立金暫定一位のせいだったりして。まあアホな。

 息子はメイドにそこで見てろ、と命ずると。階段の手すりに背をつける。上から下、下から上。そしてもう一往復。眼線。

「パパが絶賛するからどんなか楽しみにしてたってのになあ。ホントにお前? 部屋真下だからさ、うっさいんだわ」

「そらすま」

 んね、が聞こえなかった。主語はメイド。

 いきなり蹴りいれる礼儀知らず。

 睨むのもアホくさい。

「おかげでこっちはトラウマだっつの。呼んだ理由、それだから。誰がてめえみてえなのと」

 このタイプは初めてかもしれない。二世代の弊害。

「顔はまじィんだろ。明日も仕事だもんなあ、ヤローの下で」

 それでも想像の範囲内に収まる。それだけ小物だということ。七光り。確実にこいつの代で滅ぶ。

 避けたり防いだりするとよけいに興奮するだろうから。甘んじて。腫れるだろう。明日。アザキズがプラスになる相手だったかどうか。確認しないと。マイナスになるようなら組み直し。ああでもそうすると貸しが。滞在期間を延ばせだのなんだの。

 どんだけ払っても半日。もちろん下限あり。いっそ首から提げるか。

 相手にそれを読み取るだけの能力があればだが。

「女抱いたことねんだろ。ヤらしてやるよ」

 息子がメイドを顎でしゃくる。この展開は考えなかった。メイドの観ている前、は何度かあるが。

 アタマが痛い。

「うれしいだろ、おら。ゆってみろよ。勿体ないお言葉って」

「お前からもろうてへんさかいに」

「はあ? 聞こえねんだけど、なんつったよ」

「俺はカネと交換なんやけどな」

 息子が鼻で笑ってメイドに命令する。脱げ、と。

 脱がない。

 手と足とどっち、と考えていたら。どちらも出ない。出す必要がないのだ。自分の手と足は汚さない。汚れるのは自分ではない。

「パパが帰ってくるまでにそいつとヤっとけ。できなかったら」

 パパに言いつける。僕に冷たい。

 息子はげらげら笑って階段を上がって行った。吹き抜け構造なので最上階から観戦するつもりだろう。息子が七光りですらない、ことがよくわかった。年齢を聞いていなかったが会ったのは初めて。のはず。憶えてない。もしかしたらどこぞで作った愛人の子を。愛人が死んだとかで引き取り手がなくて、とか。

 面倒なことに。こちとら一万でも多く稼がないといけないというのに。ここで父親の機嫌を損ねさせるのは痛手。息子を甘やかしているから、息子の言うことは真実だと受け止めるだろうし。かといって。

 いや、無理だろ。メイドもそう思っているに違いない。眼は合わないが、わざと合わせないように逸らしているわけではなく、たまたま合わなかった。みたいな眼線。

 息子の野次が降ってくる。確実に童貞だ。あれでは無理矢理襲うほかに道はない。もしくはカネで釣る。それなら合法か。なんでも買える豊かな世の中に。

 て、買われたんだった。

「わたくしの雇い主はお坊ちゃまではありませんので」メイドが言う。

「まあせやろな」

「いつものお戯れです。お気になさらず」

 息子が手すりをどかどか叩いて吠える。降りてくればいい。近くで言えない。なんという小物。

「お口直しにあちらでお茶でも如何ですか。ご主人様にくれぐれも無礼のないようにと申し付けられております」

 縦長の大きな窓。まだ雪が降っている。結露。

 ミルクティかと思ったが、チャイだ。そういえばスパイスの味がする。カップというより湯飲みらしきに入ってるし。

「来ィひんな」

「お坊ちゃまはわたくしがお嫌いなようで」メイドが言う。

「なんで?」

 イチゴ大福を勧められた。イチゴの三分の二が外に飛び出している。案外美味しかったので二つ食べて。

 しまった。これをやるから詮索するな。にまんまと乗せられてしまった。客の家でメイドに持て成されたのは初めてだったような。

 たいてい厭な顔をされる。雇い主の趣味だから。とわかってはいるのものの。あからさまに顔を背けられるか、顔すら見せないか。優しくされると弱い。思わぬ弱点がわかってよかった。

 メイドは話題提供しようとかいう気がないらしく、キッチンでひたすら無言でがさごそやっている。仕事。こっちだって同じ。これでカネもらってるんだから。

 落下。破壊音。何かが割れた。

「手伝おか?」

「お構いなく。割りたくて割ったのですから」メイドがすかさず言う。

 小さなグラス。一口で終わりそうな量の。だったんだと思う。ほんの数十秒前まで。ペア。片割れをメイドが持ったまま。

「ご気分は如何です?」

「へ?」

 とぼけたふり。お茶を出された時点で気づいた。いや、もう少し遅かったかも。

 飲んでから気づくようでは。手遅れ。

 アタマもカラダもなまっている。

 メイドがお坊ちゃまに逆らえるわけがない。死活問題。路頭に迷う。恩がある。職業的メイドなど風俗にしかいない。あとはコスプレウェイトレス。フォルムだけ。催淫、或いは筋弛緩。わからない。アタマが。とにかく寒い。カラダが。ぐらぐらしてから気づくなんて。とにかく吐き気。莫迦くさい。

 息子の声。

 メイドの声。

 息子の声。

 メイドの声。

 父親の声。

 なるほど。最初からそうゆう運びの。

 見抜けなかったのが悔しい。から抵抗しない。歯向かうのも逃げるのも疲れた。から拒絶しない。

 半日規定が破られたのは、これが初めて。

 客側に、してやられたのはたぶん二度目。

 眼が醒めたら息子の顔が。近すぎてピントが合わない。

「次のお客様はかんかんだろうな。帰してやってもいいぜ。わかるよな。俺への非を詫びろ」

「ああそんなんでええの。すんませんね」

「なんだ、その態度。カネ払わねえぞ」

「別にええよ。お前に買われたのと違うさかいに」

 生意気。そっくりそのまま返す。

 しょぼい。

 なにもかも。生半可。慣れてない。これが本気。限界だろう。天井が低い。容器も小さい。

 視界になんだか見覚えのある。しかも着信。親切にも息子が出てくれた。

「延長? 何ゆってやがんだ、お前」

 ダサ。いや、手が離せないはずなので。誰だ。心配してくれたとは思えない。期日に戻ってこないレンタルビデオの督促。図書館の本。

「来てみろよ。ぜってえ無理だろうがよ」

 迎えに来てくれるらしい。それは一層面倒なことに。

 息子の愚の骨頂な会話に付き合っていたせいで、すっかり疲れてしまった。肉体労働より疲れるとはこれ如何に。

「友だちおらへんのと違う?」

 考えなしに口から出てしまったが、大当たりだったらしい。息子の顔が赤くなる。

 わかりやすい。そうか、なるほど。これも見抜けなかった。

「うっせえ。口塞ぐぞ」

「俺は構へんけど、話できへんよ。ええの?」

 息子がぐっと詰まる。やっぱりアタマが。悪いなんて口が裂けても。

「話したいわけじゃ、ねえし」

「ほんならええやん。とっとと口塞ぎ?」

 息子がケータイをちらちら見る。

「それな、仕事用やさかいに。個人用の持ってへんのよ」

「ちょっと待ってろ。逃げるなよ。いいか?」

 この状況でどうやって。縄抜けはできなくないが、あれをやるとカラダが痛む。それに極力無駄なことはしたくない。

 息子が戻ってくる。ケータイ。

「一個余ってるから」

 ケータイ余らすってどんな。

「受け取れっつってんだろ」

「そら勿体ないお言葉なんやけど、手ェがな、後ろ」

 息子はようやく気づいた。急にばつの悪そうな顔になって、拘束を解く。よく憶えてないがこれをやったのは父親のほうだろう。息子は観てただけ。もしくは中途退場。メイドは傍にいたかもしれないが。なにせ、何も憶えてない。

 背中が痛い。一番痛むのは他の部位の。麻痺していて。息子がタオルを持ってくる。お絞りのように生温かいのは、メイドが準備していたからだろう。ご主人様の言いつけで。とするならまだ、客のまま。

「風呂、入れるらしいから」息子が言う。

「ええよ。迎えくる」

「んな汚ねえ身体で帰れっかよ。案内してやっから」

 引き止めたい。時間稼ぎ。ポイント上げ。いずれにしろ、ダサだか某だかのあれがブラフだった可能性も含めるなら。

「連れてってくれへん?」

 息子は一緒に入らなかった。服のまま洗い場の椅子に座る。

 無駄にでかい風呂。二人しか入らないだろうに。それも別々に。

「見てねえからな」息子が言う。あからさまに顔を背けて。

「ええよ別に」

「お前、名前」

「ヨシツネ」

 沈黙。

「俺のも聞けよ」

「すまんね、気ィ回らんで。なに?」

 沈黙。天井から落ちた水滴がアタマに。

「知ってるだろ」

「名字はな」

「パパのこと、何っつって」

「なんやろ。呼んだことあらへんな」

「は?呼ばないわけ」

 客は客。呼ぶとしてもこちらで勝手にあだ名を付ける。

「なんでんなことしてんだよ」息子が言う。

「儲かるさかいに」

「儲かるったって、なんつーか、あんまし楽しいもんじゃ」

「楽しい楽しないで決めへんのよ、仕事はな」

 湯から出る。息子があからさまに顔をそっぽうへ。

「別にええてゆうたよ」

「だから見てねえって」

 洗い場にいる間、息子は背中を向けていた。湯に戻っても背中を向けたまま。だいたい想像はつく。童貞確定。

「お手伝いしよか」

「は、なにゆって」

「遠慮せんといて。そんために呼ばれ」

「パパのだろ」

「俺はな、なんぼ貢いでも半日しかおれへんの。引く手数多の人気もんやから」

 撤回。半日規定は破られていなかった。一人当たり半日。二人いれば。

「パパに」

「叱られる? 嫌われる? なんで」

「パパのだから」

「メイドさんに近づかへんのもそれのせい?」

 のぼせそうなので、淵に腰掛ける。脚だけ入れて。

「近づいたとこでなんも」

「パパのには触れない」息子が言う。

「気ィあるん?」

「ねえよ。誰があんな」

「仲良うしたい?」

 息子がゆっくり振り返る。まさか湯船からカラダを出してるとは思わなかったのだろう。すぐに顔を戻す。そしたまたゆっくり、人のいない方向を見る。

「知ってる思うけどな、俺はカネと交換でなんでもするん。まあたいていは俺のカラダ目当てやさかいに、はいはいカラダと交換ねゆう運びになるんやけど。たまーにカラダやない変わりもんがいてる。話し相手になってほしい。一緒に遊んでほしい。いっぱしの大人が、そないにガキくさいこと求めて俺にカネ払う。アホくさ」

 眼が合う。即行逸らされたが。

「せやからね、カネ払うたら、俺になに求めてもおかしないよ。いっちゃんオモロかったんはそうじしろ、やったかな。しゃあないから、半日かけて家ん中ぴっかぴかにしたよ。一緒に展覧会行こ、ゆうのもあったかな」

「本当に、なんでも」

「往ね、とか俺を黄泉の国に送るんはあかんけど」

「じゃ、じゃあ俺と」

 友だちに。

 最初からそう言え。七面倒くさい。

 迎えが来るまで、息子はずっと謝り続けた。迎えが来るまで。迎えが来たとき、息子は謝るのをやめた。やめざるを得なかった。止まった。止められた。

 言葉と一緒に、生命維持器官も。どんぱち好きな低反発でないなら、ひとり。知っている中では、という但書き付で。生存者を捜している様子だったので、下を指した。階段を静かに。

 静かに。雪が吸い取る。

 日本語じゃないので無視していたら、向こうもやっとわかったのか、わざとなのか。まあ前者だろうが。

「お怪我は」ゲスが言う。

「よう見て。ここ、見えへんかな」

「失礼。よくお似合いだったもので」

 檀那さま。

「まだヨシツネでええよ。父親のほう、どないなった」

 訊くまでもない。息子とメイドを皆殺しにしたところから考えて。もうこの客に用はない。吸い取れるだけ吸い取った。

「いいにおいがします」

「ああ、さっきまで風呂にな」

 そういえば名前を聞くのを忘れた。むしろ聞かなくてよかったかもしれない。

 友だち。

 どうせ死ぬのだ。ヨシツネと友だちになると。

 これだから。

 アホくさい。カネに還元できないものは。


      3


 試験強化週間が終わるまであと何日。持込み可も記述式も厭きてきた。

 本社から呼び出し。公欠にならないものか。入り組んだ家庭の事情を勘案し、試験などという瑣末な事象は免除してもらいたいものだ。

 訪問時刻を報せるとあれをやられるから突然行ったというのに。日付がわかれば読めてしまう。一日中張っていることもできる。エントランスに道ができる。両側に従業員が並ぶ。道が切れたところに、完璧な笑顔。

「出来はどう?」マサムラが言う。

 試験のことだろうか。

「あいつは」

「会長なら」

 お忍びデート。悪い冗談だろう。

「どこにしようか」マサムラが言う。

「上しかないだろ」

 エレベータ。最上階直通。

 箱に、ひとり。

「泊まってくんなら寄ってってよ。暇してるからさ」カケユキが言う。

「こいつ次第だな」

「んじゃ頼みますよう。用件は短く端的に」カケユキがマサムラの肩を小突く。

 鉄壁の笑顔は崩れない。

 ひとり、降りる。上昇。

「さっきのだが」

「ホントだよ。相手聞いたら卒倒すると思うな」マサムラが言う。

「誰だ」

 嘘だろう。なんだそれは。

「影響が出てるんじゃないか」

「要はバレなければいい。そうだね?」マサムラが言う。

 到着。

 足元がぐらぐらした。重力のせいだろう。

「誰が知ってる」

「僕と、ユキと」

 俺か。

「血筋だね」マサムラが言う。

「どうゆう意味だ」

 そこにソファがあってよかった。危うく倒れるところ。

「きちんと休んでる?」マサムラが言う。

「言いたいことがあるならはっきり」

「追いかけないよね?」

 釘刺し。但し釘は、五寸釘。

 呪いをかける気だ。

「連れ戻せばいいだろ」

「追いかけた、てゆう行動自体がまずいんだけど、わかってもらえてないかな」

 こうゆうときだけ、父親面。

 血なんかつながってない。血がつながってるからどうだと。

「会長の件は自然消滅を願えるけど、サネのはちょっと取り返しのつかない領域まで踏み込んでる気がしてならない。どうだろう。間違ってるなら訂正して」

 間違ってるのはお前だ。

「私生活にまで口を出すな」

「私生活だからあえて口を出してるわけなんだけど。大層心配なようだったから」

 告げ口か。よくもしゃあしゃあとそんな真似を。

 カネイラ。

「文句があるなら僕に言ってご覧。カネイラさんじゃなくて」マサムラが言う。

「趣味が悪い」

「主語は僕? お美しい会長?」

 なんでよりにもよって。あんな。新興宗教団体の総裁なんかと。

「どのレベルに対する非難だ。人に志向にいちいち」

「そのことは前に話し合ったよね。構わないよ。無駄遣いさえやめてくれれば」

「無駄遣い?」

「じゃなければなんだろうね。寄付? 募金のほうがまだ役に立つ」

「投資だ」

「返ってくる見込みはある? 殖えるんだろうね、生半可な額じゃないようだけど」

 ハイリスクノーリタン。

 言いたいことはよくわかる。わかりたくもない。言いたくない。

「取り返せばいいんだろ」

「いつまでに?」マサムラが言う。

「俺が死ぬまでに」

「完済の確認を僕が出来ないね」

「お前が死ぬまでに。なら文句はないだろ」

「それがそうもいかない。てっきり知ってると思ってたけど。割と傾いてるんだ、ここ」

 視線。足元。

「欠陥だっただけだろ」

「欠陥だとしても建て直さなきゃいけなくなる。壊れてからじゃ遅い。瓦礫の下に埋もれるのを黙って見てるわけにいかないんだ」

「すりゃいいだろ工事ぐらい。お前に任す」

 無駄な時間。無駄な空間。無駄な。無駄な。

「椅子がなくなるよ」マサムラが言う。

 そのときは潔く。

「地べたに座るだけだな」

 そんなに。マサムラの口が動いたように。

 そんな。煮え湯を飲まされたのはこっち。

 そん。何も失ってない手に入れてもない。

 そ。んなの。

 どうだっていい。ここがどうなろうと俺に関係ない。

 支部に戻る。カネイラが申し訳なさそうな顔で待っていた。申し訳ないと思っていながらどうして、と問い詰めそうになって、なんとか抑えた。悪気があった、なかったという次元なら簡単なのだが。

「謝りませんから」カネイラが言う。

「いい。悪いのはお前じゃない」

 お茶。カネイラが淹れてくれた。温かい。

 日が出ている間はいいのだが、日が翳ると途端に冷える。

「今夜また降るそうですよ」カネイラが言う。窓を見ながら。

「道理で」

 客が来たのでそこで会話は中断した。寒い中よくもまあご来店を。

「お一人ですか」

「あ、駄目でしょうか。スポンサ連れてこないと」

 どう見ても未成年。身長は一五〇すれすれといったところか。口調が意外に落ち着いていたので小学生ではないとして、中学生だろうか。高校生。どちらにせよ。

「申し訳ありませんが保護者の方と」

「え、あれ? もしかして僕」

 幼く見えてます? そう言って彼は微笑んだ。

 微笑み。カネイラもマサムラも相当完璧なものを身に付けている。営業スマイルと言ってしまえばそれまでだが、それを越える何かがあるように錯覚させられる。厭な気分はしない。自分は歓迎されている。ここにいてもいいのだ。そう思わせてくれる。少なくとも客はそう思い込んでいるようだ。だが、彼のそれは。

 厭な。

 微笑。

「よく間違われるんですよね。ははは、まあこの身長にこの顔じゃ仕方ないですかね」

 彼は財布から免許証を取り出してカウンタに置く。

 年上。まさか。偽造だろう。

「納得いただけませんか」

「いいえ、とんだ失礼を。どうぞお掛けくださって結構です」

「それには及びません。KREクレの敏腕社長さん。僕はあなたに折り入ってお話が。しかも至極個人的な用件でして。できればあちらの」

 指し示す。

 俺から見て左。彼から見て右。

「音の漏れない部屋で」

「どのようなご用件で」

「あちらで話しましょう。いいですか」

 厭。とは言わせない。そんな微笑だった。

 カネイラに眼で合図して鍵を。カネイラがこちらを見ない。眼線は俺以外の。

「僕のこと、ご存知のようですが」

「間違っていたらごめんなさい。白竜胆会の」

 しろ、

 りんどう

 かい

「どうゆうことだ」

「僕に訊いてくださいよ、社長さん。本人がいま眼の前にいるんですから」

 なんで。

 よりにもよって。あんな。

「新興宗教団体で間違いありませんよ。総裁には四人の子どもがいまして、まあつまりは後継者候補なんですけど。僕はその次男です。朝頼トモヨリアズマといいます。どうぞ以後お見知りおきを」

 握手。俺より二周りは小さい手。

 応じない。したくない。

「僕が言うのもなんですが、きょうだいのなかで僕がいちばん優秀です。社会的に認められないことをして評判を落とさない限り、おそらくはいずれ総裁と呼ばれるでしょうね。本当は厭なんですよ。そうゆうのって」

 彼が手を引っ込める。

「反吐が出ると思いません? いまどき世襲制ですよ。おかしくて可笑しくて。あまりにも莫迦らしいから、兄さんも妹も姉さんも」

 いなくなりました。

「そうすると自動的に僕しかいないので仕方なくというか渋々というか」

 いなくなった。

 人はそう簡単にいなくなれるものだろうか。

「何か? 仰ってください」

「会長のことなら黙っていてほしい」

「黙る? ああ、そうか。弱みを握ってるも同然でしたね。いいですよ。でも条件があります。きっと社長さんたち、KREの方々にとっても悪い話じゃない。むしろ地獄に仏とはこのことではないかと。僕は地獄も仏も信じてませんけれど」

 続きはあちらで、と彼は応接室の前に立つ。

「開けてくれません?」

「吸収か」

「まあまあ。そんな怖い顔しないで。ことは穏便に済ませるのが得策ですよ」

 応接室。カネイラが立ち会いたそうだったが、店番がいなくなるので首を振った。

 マサムラを呼んだほうが。いや、駄目だ。いましがたのあれがまだ効いている。確実に機嫌が悪い。それにあれの話を出されないとも限らない。あの女のそれに加えて、俺のことまで知れたらもう。KREに未来は。

「総裁と会長さんは大学が同じだったそうで、ご存知です? そのときにお付き合いがあったとかなかったとかで。婚約もしていたらしく。可哀相ですよね。二人は引き裂かれる運命にあった。とか、劇的に煽ってみました。ははは。現実も似たようなものですかね。総裁は総裁に、会長さんは社長にならなければいけなかった。いわば発展的解消だと、僕は思っています。それでよかったんですよ。しかし、会長さんは会長になった。おわかりですか? あなたが産まれた」

「要点を掻い摘んでくれないか」

「すみません。話は具体的なほうがいいと思って。別にあなたが産まれようが産まれまいがどうだってよかったんですよ。政略結婚ですからね。愛があろうがなかろうが、世継ぎが必要になる。ご存知でしょうから。深くは追求しません。あなたの」

 父親がどなたなのか。

「まだ本題じゃない気がするが」

「気に障ったならすみません。有名な話ですから。いまここで部外者の僕なんかがいちいち蒸し返さなくてもよかったですね。あなたが、社長として相応しいかどうかの」

「本題を聞く」

 彼は鞄から小型のノートパソコンを出す。慣れた手つきでキーボードを叩いて、モニタをこちらに向ける。

 応接室に。

 しようと言った意味が。音の漏れない部屋。

 続きはあちらで、の意味が。

 至極個人的な用件。

 光速で流れていった。

 やけに眩しい照明。物が散乱している。足の踏み場は辛うじて。

 作ったのだ。このために物を退けて。

 ひとが。

 ふたり。

 寝転がれるスペースを。

 写真。音声。動画。

 いまわかる。あいつらが持ってたあれは。

 彼が微笑む。

 モニタの彼もまったく同じ顔で。

 微笑む。

「止めろ」

「よろしければ差し上げましょうか、データ。お淋しいでしょう。見限られて」

 脚の低いテーブル。その上に載っているものは。

 載っているもの。

 床に。置いたとしても。

 落としてやる壊してやる壊れろ。こわれろ。こわれろこわれろ。

 息がしづらい。破片。

「あーあ、弁償していただけるんですよね。大事なデータがいろいろ」

 彼の手の平。

 バックアップ。

「まあ、こうゆうときのために保険は掛けてありますが」

「何しに来た」

「呑んでもらいますよ。断るだなんて考えないでくださいね。ことは穏便に、そして秘密裏に処理しましょう。お約束致します。およそ僕が知っている、KREのあらゆる不利な情報を、墓まで持っていきます。それにしてもなんて名誉なことでしょう。いまのあなたは、白竜胆会をはじめKREに関係するすべてのニンゲンを幸せに出来るんですから。総裁も会長さんも、あなたの家族も部下も。同時に、不幸のどん詰まりに叩き落すことも出来る。頭のいい社長さんならば、二つ返事で頷いていただけるのではないかと」

 脅迫よりひどい。見捨てられるわけがない。

「条件とやらは」

「平たく言えば」

 接近禁止。永劫に。

「簡単でしょう。彼はもう戻ってこない。社長さんはここに留まる。この状態を保っていただければいいだけのことです」

 失ってない。手に入れてないんだから。

 しかしいまここで承諾すれば、

 二度と手に入らない。

 追いかける追いかけない。その二択がそもそも違うというのに。

 いなくなった。

 眼の前にいないだけ。守るべきは。

 俺じゃない。

「ああそうだ。ちょっと小耳に挟んだのですが、ずいぶんと無謀な投資をされていたようで。ハイリスクノーリタンて何も返ってこないじゃないですか」

 それ

 だれに

 ひとりしか

「ええ、本当に。ご聡明なお父様で羨ましい限りですよ。僕のところなんか」

 ただの

 ま

 まごと

 さ

 かしい

 む

 だぐち

 ら

 んちき

 椅子ごと固定する気だ。五寸釘で打ち付けて。建物の崩壊と運命を共にする。誰がそんなこと。任せてない頼んでない願ってない。

 くそう。

 さっきのあれはすでに。

「仲良くやっていきましょうよ。これからは」

 きょうだい。

 冗談じゃない。厭だ。マサムラ。

 あいつを真っ先にリストラすべきだった。

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