第2話

 窓際の席に陣取る私の隣に座るのは、難しい顔で教科書を広げる杉内くん。

 結局、頼み込む杉内くんに根負けして、私は勉強を教える事になった。

 だって仕方ないじゃない。あなたの事が苦手なので嫌ですなんて、とても言えるわけがない。


 そうなると、そんな気持ちが顔に出ないよう努めながら引き受けるしかなかった。


 とは言え一度やると決めたからには、手を抜くなんてできない。どこがわからないのか確認するため、杉内くんに許可をもらって彼のノートを開き目を通す。


「へえ、ノートは結構細かく書いてあるんだ」


 あまりに苦手だと言うから、てっきりほとんど白紙なんじゃないかと失礼な事を思っていたけど、どうやらそうじゃないみたいだ。


「一応、授業中黒板に書いてあるのはできるだけ写しておいた」


 少しだけ得意気に言う杉内くん。だけど私は、それを聞いて何だか嫌な予感がした。

 確かに彼の言葉通り、ノートには所狭しと様々な言葉で埋められている。しかも色とりどりのボールペンが使われていてやたらカラフルだ。多分、先生がどの色のチョークで書いたかまで再現しているんだろう。


「時々中途半端な所で途切れているのはなんなの?」

「それは、全部写す前に先生が消したんだ。あとは……途中で眠くなった」


 それを聞いて、私はため息をついた。

 やっぱりね。眠くなったのは論外としても、これじゃ効率が悪すぎる。


「あのね、書いてある事全部写すくらいなら、教科書や参考書見た方が早いよ。その間先生が何て言ってるか、ちゃんと聞こえてる?」

「いや……」


 どうやら痛いところを突かれたようで、とたんにシュンとする。そこから私は、畳み掛けるように言葉を続けた。


「いきなり全部を覚えようとするんじゃなくて、要点を絞るの。初めは難しいかもしれないけど、まずは先生の話をよく聞いて。その方が余計な手間が減るし、何が大事か、どれから優先して覚えたらいいか分かるようになるから。あと、一々細かく色分けをする必要もなし。大事な単語のいくつかにアンダーラインでも引いておけばそれで十分」

「お、おう」


 目を丸くしながら頷く杉内くん。それを見て、しまったと思う。いくら頼まれたとはいえ、こんなふうに語ったりしたら、引かれるかもしれない。

 だけど杉内くんは、少しだけ圧倒されながら、それでもすぐにニコッと笑って言った。


「すげーな。そんなの考えた事もなかった」


 きっと、皮肉じゃなくて本心から言ってるんだろうなと思った。引かれるかと身構えていただけに、その反応は正直嬉しかった。

 それからは、個別の教科毎に要点を教えていく。少し意外だったのは、彼が思った以上に私の話を真剣に聞き、問題に取り組んでいた事だ。

 今までは効率が悪かっただけで、やる気や集中力はあるのだろう。この調子で続けていけば、赤点回避くらいならなんとかなるかもしれない。


「藤宮って、やっぱり有名大学とか狙ってるのか?」


 一息ついたところで、杉内くんがそう聞いてきた。何気ない質問、だけど私は返事に困る。


「今のままだとそうなるかも」


 出てきたのは、はっきりしない曖昧な答え。杉内くんもそう思ったのだろう。不思議そうな顔をしながら、今度はこう聞いてくる。


「そんな勉強して、やりたい事とかなりたいものってあんの?」


 それはちょっとした好奇心か、単に社交辞令から出た言葉なのだろう。だけどそれを聞いて、私の心はざわついた。


「別に無いよ。ただ、選択肢が増えるからやってるだけ」

「選択肢?」

「いざやりたい事が見つかった時に、今やってる勉強が役にたつかどうかは分からない。でもやっておいた方が、進路とか就職先とか、選べる選択肢が増えるから。だからやりたい事ができるまでは、とりあえず勉強する」


 いつか役に立つ日が来るかもしれないから、今のうちにそれに備えておく。それが、私が勉強に打ち込む理由だった。

 それに疑問を持ったことはないし、大切な事だとも思う。ただ――


「そんなことまで考えてるなんて、ほんと凄いな」


 無邪気に、純粋に、杉内くんは私を誉めてくれた。

 ここは喜ぶべきか、照れるべきか。迷ったけれど、私の本心はそのどちらでもなかった。

 ただ、ザワザワと心が落ち着かなくなるのを感じた。


 あんまりこの話題は続けたくないな。そう思って、何か別の話題に変えようと思い、とっさに口を開く。だけどそれは失敗だった。


「杉内くんこそ、野球頑張ってるじゃない」


 そう言ってから、しまったと思った。どうしてこんな事を言ってしまったんだろう。これは、できる事なら一番出したくない話題だった。


 だけど杉内くんはそんな私の思いなんて知るよしもなく、とたんにパッと顔を明るくさせる。


「ああ。先輩達は今度の大会で最後だし、迷惑かけられないからな。そのためにも、まずやらなきゃいけないのは赤点回避だけどな」


 それはほんの短い言葉だったけど、そう語る杉内くんは確かな熱を放っていた。

 笑顔が眩しくて、本当に野球が好きで、夢中でやっているんだと分かる。


 だから、それを聞いて聞いて心がザワザワする。杉内くんが苦手なんだと、今更になって思い出す。


 彼の放つ熱が苦手だった。人が何かに夢中になった時に放つ、想いのようなものを目にする度に、無性に胸が苦しくなる。だってそれは、私には無いものだから。


 さっき私は、いつかやりたい事が見つかった時、選択肢が増えるから勉強していると言った。だけど時々不安になる。やりたい事なんて本当に見つかるのだろうか?杉内くんみたいに何かに、熱を放てるような人間になれるのだろうか?

 少なくとも今の私には、そんな自信はない。だから今は、ただ選択肢を増やすと言う言い訳で、ひたすらに机に向かっている。我ながら、つまらない、冷めた人間だ。


 多分これは、やりたい事が見つからなくて焦っているのとは少し違う。

 私に足りないのは、もっと単純なもの。熱量だ。

 杉内くんみたいに好きな事に夢中になり、私なんかを素直に凄いと驚ける。そんな熱が、私には無い。


 私にとって、杉内くんは眩しすぎるんだ。キラキラしていて、自分とはあまりにも違う種類の人間だと思い知らされて、胸に秘めた熱を羨ましいと思ってしまう。

 だから私は杉内くんが苦手だ。



 きっと、杉内くんは考えもしないだろう。

 この部屋の窓から、野球部の練習がよく見える事も、その中にいるあなたを、私がいつも眺めている事も。


 もう一度言う。私は杉内くんが苦手だ。

 だけど、苦手なはずなのに、なぜか目を離すことができない。まるでその熱に 惹かれるように、いつも目で追ってしまっている。

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