その熱に焦がれて

無月兄

第1話

 うちの学校の校舎の二階の隅っこには、自習室と呼ばれる部屋がある。その名の通り生徒が自主的に勉強するための部屋で、各学年各教科の参考書がおかれている。


 だけど試験前でもない6月の序盤、この部屋を使う人はほとんどいない。数少ない例外と言えば、私くらいのものだ。


 解いていた問題が一段落つき、シャープペンを置く。校舎の隅と言う立地条件から、ここはとても静かだ。聞こえてくる音と言えば、校庭で練習している野球部の掛け声くらいだけど、そんなのは些細なもの。だけどこの日は違った。


 急に、ガラッと扉の開く音がしたかと思い目を向けると、そこには一人の男子生徒が立っていた。

 見上げるくらいの長身に、早くも日に焼けてきた肌はいかにもスポーツマンと言った感じだ。そんな彼を見るなり、私は不思議そうに呟く。


「杉内くん?」

「よ、よう藤宮」


 お返しのように名前を呼ばれる。なれない場所に緊張しているのかその声はどこかぎこちないけど、それよりも彼が私の名前を知っていた事に少し驚いた。

 今まで喋ったことなんてほとんどないし、クラスだって違うのに。


 私だって彼の名前は知っていたけど、彼の場合は特別だ。

 杉内圭吾くん。恐らこの学校でも、トップクラスの有名人だろう。私と同じ二年にもかかわらず、野球部のエースとして活躍していて、彼の仕上がり次第では初の甲子園出場も夢じゃないと言われていた。


 そんな彼がなぜここにいるのだろう?

 さっきも言ったように今は試験前でもないし、外では相変わらず野球部の練習する声が聞こえてきている。


 だけど彼の姿をよく見て、私はあることに気づく。


「……その足」


 杉内くんの体は、不自然に傾いていて、右足には物々しくテーピングがしてあった。


「これ?昨日練習中に捻挫したんだ。お陰でしばらく部活は休み」

「それって大丈夫なの?」


 今や全校の期待がかかった彼の怪我。もうしばらくしたら大会だって始まる。だけど杉内くんは、何でもないように笑い飛ばした。


「安静にしておけば完治まで一週間もかからないって。監督なんて、いい機会だかゆっくり休んでおけって言ってたよ」


 だけど杉内くんはそこまで言った後、うって変わって沈んだ表情を見せる。


「いや、本当はちょっと違うんだ」


 いくら大丈夫と言われても、やっぱり不安はあるのだろうか?

 そう思ったけど、続いて出てきた言葉は全く違うものだった。


「本当は、休めじゃなくて勉強しろって言われたんだ。今度の試験の結果次第じゃ、試合に出られないかもしれないぞって」

「えっ?」


 予想外の言葉に思わず固まる。

 うちの学校の決まりでは、赤点をとった生徒は補習と追試を受けることになっている。そして赤点が3つ以上あった生徒は、ペナルティとしてしばらくの間部活動を禁じられるのだ。

 もし今度の試験の後部活禁止を言い渡されたら、恐らく大会には出られないだろう。


「そんなに厳しいの?」


 恐る恐る聞くと、彼は恥ずかしそうに言った。


「いつも全部赤点ってわけじゃないんだ。でも今まで一回でも赤点とった事のある教科をあげると、国語、数学、英語、歴史、科学……」

「ほとんど全部じゃない!」


 あまりの酷さに言葉を失う。彼が野球でいかに凄いかは嫌でも耳に入ってくると言うのに、勉強の方はそこまで苦手だったのか。

 確かにこれは、勉強しろと言われても仕方ない。


 すると杉内くんは、そこで私に向かって大きく頭を下げた。


「だから頼む。藤宮って頭いいだろ、俺に勉強教えてくれ」

「ええっ!」


 思いがけないお願いに驚くけれど、杉内くんは真剣だった。


「初めは先生や部活の奴らに教わったんだけど、なかなか上手くいかなくて。藤宮、テストは毎回トップクラスだろ。何かコツがあるんじゃないかと思ったんだ」

「もしかして、最初からそれが目的でここに来たの?」

「まあ、そうなるかな……」


 私が毎日ここにいるなんて、一体誰に聞いたんだろう。

 彼が入ってきた時の、どこかぎこちない表情を思い出す。あれはそういう事だったのか。


「なあ、頼むよ」


 再度お願いしてくる杉内くん。けれど私は困ってしまった。

 彼が真剣なのは分かるし、誰かに勉強を教えるのが嫌ってわけじゃない。だけど、その誰かが杉内くんと言うのが問題だ。


 今は普通に話しているけど、実は私はずっと彼にある想いを抱いていた。


 ほとんど喋った事も無い相手に、こんな事思うなんておかしいから、極力バレないように頑張っているけど、こればかりはどうしようもない。


 私は、杉内くんの事が苦手だった。彼を見ていると胸の奥がザワザワして、理不尽な苛立ちが募るくらいに。

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