3.昨日
昨日は雨が降っていた。
自主体力作りの部活は自主休暇に変更して、ぶらぶら歩いていたおれはフェンスの向こう、プールの傍で傘をさして立っている狛江の姿を見つけて声をかけた。
「狛江、お前もサボリか? なにしてる?」
狛江の髪は雨で湿っていた。その貼りついた毛先をわずらわしそうにしながら顔を上げた彼女の表情は多分、いつもと同じだった。
「別に。なんでもないよ」
「そんな所で突っ立って、自殺でもするつもりか」
「自殺? プールで? するんだったらもっと深くて人のいない所でするよ」
おれの言葉に狛江は笑って、もう一度プールを見下ろした。水面には、やむ気配もない雨粒がびしゃびしゃと落ちて、雨水とプールの水が次々と混ぜ合わさっていった。
「周防、ずぶ濡れ」
先に傘を投げ込んでフェンスを乗り越える間に、おれの制服も髪もびしゃびしゃになっていた。狛江は鞄から青と白のストライプのタオルを出して、それを爪先立ちになることなく、おれの頭に被せた。
「悪ぃ、サンキューな」
髪をほどいて水気をタオルに吸わせている間も、狛江は何も言わずにプールを眺めていた。
元々口数の少ない狛江は、たとえ二人でいてもあまり喋らない。無口な狛江といる時が、時に一番楽と思うおれは、本当は喋るのがあまり好きではないのかもしれない。
少し偏向的な映画や本の趣味が合うことから親しくなった狛江とは、会話がなくても過ぎる時間を苦痛に思うことはなかった。異性を殊更に意識しないでいい狛江は外見も含めて同性感を漂わせ、近くにいても常につかず離れずの距離にいて、おれの感情を波立たせることもなかった。
「お前、こんな所でなにしてるんだ?」
「周防、それ、さっきも訊いたよ」
「それはそうだけど、お前ちゃんと答えてないし、さっきからぼーっと突っ立ってるだけに見えるそれ、あんまりにも無意味な時間経過にしか見えないからさ」
「そう……無意味か。うん、そうかもね」
狛江の返事はいつもどおり素っ気なかったが、溜息もついてないのについた気がして、おれは不意に不安を感じた。
「まぁ……こっちにはそう見えても、狛江にはもしかしたら意味があんのかもしんないけどさ、でもこんなとこで湿ってるより、今からおれんちに来ないか? 母ちゃんは夜勤だし、録画してまだ見てない映画もあるし、前回の酒も残ってるし、いい加減ここ、寒みーし」
今思い直しても、その時の口調には必死感が紛れていたと思う。
狛江の影が薄かった。もちろんそれは現実の影じゃない。存在そのものが消えてしまうような意味不明な切実感が訳もなく、雨に叩かれる足元に見えた気がした。
「うん」
「うん? その、うんってのは来るっていう意味のうん?」
「うん。行くのうん。ねぇ、周防」
「なんだよ」
「私、セックスしたい」
「は?」
前触れ感のない突然のそれには、間抜けな表情を返していた。その表情を見ただけでもこちらの意図は完全に伝わったと思うが、相手の言葉は雨の落ちる速度と同じ淡々とした調子で続いた。
「もしその気になれたら、私としてくれる?」
「その気って、つーかお前、おれのこと好きなの?」
「好きだよ。愛してるじゃないけど好きだよ」
「それはおれだってそうだよ」
「私、自分がどう変わるか見てみたい。でも他に頼める人がいない」
「それってお前……もしかしてそんな実験的な目論見でこんなこと言ってんの? そんな理由でおれとヤって、この先の親友関係潰す気かよ」
「怒ってる?」
「怒ってるよ」
「じゃ、やめる。もう言わない。ごめん」
「はぁ? 本当か? じゃ、こんなこともう他の奴にも頼んだりしないか?」
「うん、頼まない。多分」
「そっか、じゃこれからおれんちには来るか? もちろん今の話は無しで」
「うん……行くよ」
雨の中を歩き始めた背後を、狛江も歩いていた。
家までの約十五分。雨に紛れる足音が途絶えたような気がする度に振り返って、その度に狛江と目が合った。
狛江はこの件についてその後も自分から口にすることはなかった。おれは自ら言及した他の頼める奴の存在も知らないし、その存在をこれまで感じたこともない。けれどおれは狛江が発した、「多分」という言葉をいつまでも心の端に引っかけていたのだと思う、多分。
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