第19話 健全な密着 on ICE

「大事なことを聞きたいんだけど」


 いつもの石垣での密会で、小戸森さんはそう切りだした。表情は真剣そのものだ。


「い、いいけど、なに?」


 雰囲気に飲まれて緊張してしまう。


「園生くん――」


 小戸森さんは僕を見すえて言った。


「スケート、滑れる?」

「……ん? スケート?」


 それだけ? あのみなぎる緊張感はなんだったのか。


「いや、あんまり滑れないけど」

「そっか、そっちのパターンね」


 小戸森さんは満足そうに頷く。


 ――……どっち?


 謎のリアクション。なぜ嬉しそうなのかもよく分からない。


「ところで、最近めっきり寒くなってきたけど」


 小戸森さんは急に改まった調子で言う。


「そろそろスケートのシーズンだね」

「そうだね。肉まんがおいしい季節だよね」

「わたし結構スケート得意なんだよ」


 ――僕の肉まんがスルーされた……。


「そ、そうなんだ。たしかにすごく上手そうなイメージはあるね」

「え? そ、そうかな」


 頬に手を添えてはにかむ。

 しかし「はっ」と息を飲むと、また元の調子で言葉をつづけた。


「で、でね、園生くんにスケートを教えてあげようと思ってね。ちょっとやってみようかと」

「なんかすごく漫才の導入部っぽいけど」

「じゃあわたしが先生ね。園生くんは教え子やって」

「完全に漫才だねこれ」


 小戸森さんは立ちあがると、いつか『地獄の業火』を呼びだしたときみたいに、空に向かって捧げるように腕を伸ばした。しかし伸ばしたのは左腕だけ。右腕は下げ、地面を指さしている。

 そして呪文をつぶやく。


「冬の精霊よ、雪の精霊よ、こちらを向きたまえ。我の呼びかけに応じ、この円に力をそそぎたまえ」


 よく見ると、地面にはすでに五芒星のペンタクルが描かれていた。


「スカディの息吹」


 そう唱えると、彼女の指先から白く濁った冷気が噴出した。まるでドライアイスの煙のようだ。

 冷気はもやのようにしばらく地面にとどまると、徐々に薄くなって、やがて消え失せた。


「おお……」


 僕は感嘆の声をもらした。

 石垣の前の歩道がすっかり氷で覆われていた。まるでスケートリンクみたいに。


「魔法で作られた特別製の氷だよ。ふつうの靴でもスケート靴みたいに滑れる」


 小戸森さんは氷の上をすいっと滑り、くるりとこちらに身体を向ける。そしておずおずと手を差しだして言った。


「さ、さあ、わたしの手を――」

「うわ、ほんとだ、ふつうの靴なのにすごく滑れる」


 僕は氷の上をすいすいと滑り、リンクの縁で氷を蹴るようにしてブレーキをかけた。削られた氷の粉が巻きあがって、きらきらと輝く。


「すごくいい氷だ。さすがだね、小戸森さ――」


 振りかえると、小戸森さんは冷凍のサンマみたいな目で僕を見ていた。この目を見るのは多分三度目くらいだ。彼女は差しだした手をわきわきさせたあと、だらりと下ろした。


「……滑れないんじゃなかったの?」

「う、うん、あんまり滑れないけど」

「見事なスケーティングでしたけど?」

「いや、でも、スピンとかはできないし」

「なんなのその上級者の基準。自分に厳しすぎる……!」


 小戸森さんはわなわなと震えた。


「だったらわたしが滑れないことにしたのに……」


 ――『滑れないことにしたのに』?


 怪訝に思っていると、小戸森さんは慌てて訂正した。


「ち、違うの。漫才……そう、漫才! わたしのほうが教え子役にぴったりっていう意味で!」

「ああ、なるほど。でも、そもそも漫才にする必要ないよね? ふつうに滑ったほうがきっと楽しいよ」


 小戸森さんはまた冷凍サンマの目になった。すい~っと滑ったあと、まるでグロッキー寸前のボクサーみたいに石垣に座りこんで、ぼそりと言った。


「あ、うん。すごく楽しいね……」


 ――すっごい楽しくなさそう……。


 僕も滑るのをやめて、小戸森さんの隣に座った。


「大丈夫? もしかして体調が悪くなった?」

「ううん、体調は――」


 小戸森さんはなにか思いついたような顔をした。


「――悪くないんだけど。手がかじかんじゃって」


 小戸森さんは両手に息を「はあ」と吐きかけた。

 たしかに今日は曇りで太陽が隠れているし、けっこう寒い。それに、彼女は冷え性なのだ、と僕はほぼ確信を持っていた。


 ――ほら、手が冷たいひとは、心が温かいひとが多いって言うし……。


 小戸森さんは息で手を温めながら、僕のほうにちらちらと目を向けてくる。その視線はどうやら、ポケットに入れた僕の手にそそがれているらしい。


 ――なるほど、そういうことか。


 僕はお尻ひとつ分、彼女に身体を寄せると、


「手、出して」


 と微笑みかける。

 小戸森さんは驚いたように目を見開く。


「う、うん!」


 小さい声で「よし!」と言うのが聞こえた。そんなに嬉しいのだろうか。

 小戸森さんは恥ずかしそうにうつむき、手を差しだす。

 僕は彼女の手に、手を近づける。彼女はさらに顔をうつむける。


 彼女の手がを握った。


「あったかい……」


 小戸森さんは顔を上げた。

 冷凍サンマの目だ。


「カイロが」

「あったかいよね。これ考えたひと、天才だよね」

「持ってるよね、使い捨てカイロ。園生くんだもの」


 どこかの詩人みたいに言う小戸森さん。


「よかったらもうひとつあげようか?」

「ううん、ひとつで充分。ありがとう……」


 ぐったりと肩を落とす。そして幽鬼のようにゆらりと立ちあがった。


 そのとき。


 小戸森さんの身体が急に傾いた。氷に足を滑らせたのだ。


あぶなっ……!」


 僕はとっさに飛び出して、氷の地面と小戸森さんのあいだに身体を滑りこませた。

 小戸森さんを受けとめる。

 どん、と衝撃。

 僕の左腕に小戸森さんの頭が乗った。腰が僕の膝の上に、脚は右腕で受けとめた。


 ちょっと変形だけど、いわゆる『お姫様抱っこ』というやつだ。


 僕は小戸森さんの顔を見おろした。

 彼女はきょとんとしている。まだ状況を把握できていないらしい。

 目が徐々に大きく見開かれる。と同時に口を大きく開かれた。


「あ、あ、あ」


 うめき声が漏れる。きちんと状況が把握できたらしい。

 ぼんと爆発するみたいに赤くなった顔を彼女は手で覆い隠し、震える声で叫んだ。


「は、ああ、あぁあぁああ!」


 その瞬間である。


 ジュワ! と音がしたかと思うと、地面から猛烈な湯気が立ちのぼった。

 氷が一気に蒸発したのだ。


「うお、おお!?」


 今度は僕が声をあげる番だった。

 視界は真っ白。上昇気流で小戸森さんの長い黒髪が逆立つ。はためく黒髪が僕の顔をぴたぴたと叩く。


 ――あ、ああ、これはちょっと……幸せ、かも……。


 異常事態で僕の思考もおかしくなっている。

 やがて蒸発する氷もなくなり、立ちのぼった湯気は風で散った。石垣の前には、お姫様抱っこをする僕と、される小戸森さんだけになった。

 小戸森さんはがばっと立ちあがり、鞄を引っつかんだ。顔は片手で隠したままだ。


「ごごごごめん。あ、ああ、ありがとうございました」


 じりじりと後じさりして、言った。


「も、もうええわっ」


 そしてくるりと身を翻し、猛ダッシュで走り去った。


「ええ……?」


 ――漫才の設定、まだ生きてたの……?


 それならば「ありがとうございました」と「もうええわ」は逆のような気もしたが、いまはそんなことを冷静に考えている余裕はなく。


 僕は自分の腕をまじまじと見た。


 ――さっきまでここに、小戸森さんが……。


 軽かった。柔らかかった。しなやかだった。いい匂いだった。肌めちゃくちゃきれいだった。くちびるつやつやだった。まつげ長かった。あと、あと……。


 かわいかった。


「~~~!」


 僕は声にならない声をあげた。多分、小戸森さんと同じくらい、顔が赤くなっている。


 あのとき、僕の心は完全に隙だらけだった。でもどういうわけか、小戸森さんは僕にしもべの契約を結ばせることはしなかった。彼女にとっても事故だったのだろうか。


 分からない。でもいまはそんなことどうでもいい。


 僕は目をつむる。まぶたの裏に、腕のなかにいた小戸森さんの姿が浮かぶ。

 いまは少しでも長く、この甘い感覚を味わっていようと思う。

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