第7話 欲望の体育用具室

「ふたりで抜け出さない?」


 小戸森さんは僕にそう耳打ちした。


 僕の記憶がたしかならば、このセリフは合コンやパーティで意気投合した男女が、宴を抜けだしふたりきりになるために発せられるものである。

 しかもこれを『混野まじるの高校の奇跡』とまで呼ばれる小戸森さんから提案されたら、ふたつ返事でオーケーしてしまうことだろう。


 いまが体育の授業中でなければ。


「それはサボりだよ」


 僕が正論を吐くと、小戸森さんはつまらなそうに、少しだけ下唇を突きだした。


「とにかく、体育用具室へ」


 有無を言わさず、背を向けて用具室へと歩いていく。


 ――しょうがないなあ。


 小戸森さんの言葉を無視できるはずもない。バスケットボールに興じているクラスメイトたちの目を盗み、彼女のあとを追う。

 僕はびくりと立ち止まった。


 ――あれ? 僕、もうしもべになってない?


 ごく自然に彼女についていこうとしてしまった自分に気がついたのだ。

 ぶんぶんとかぶりを振る。


 ――いや、大丈夫、僕は正気だ。これは僕の意志、僕の意志……。


 僕は小走りで体育用具室に向かった。



 体育用具室の匂いは嫌いじゃない。汗を吸いとった布の乾いた匂いや、カビの匂い。好きというわけではないが、なんとなく定期的に嗅ぎたくなる匂いだ。


 用具室に入ると、小戸森さんはドアをがらがらと閉めた。

 すると不思議なことに、それまで聞こえていたクラスメイトたちの歓声やボールをつく音、ワックスの利いた床を上履きの底がこする音がまったく聞こえなくなってしまった。


 ――なにをする気だろう?


 僕は警戒しながら尋ねた。


「それで、なにか用事?」

「園生くん、死んだことある?」

「……あの映画みたいに、僕が実は幽霊ってことはないよね?」

「それは大丈夫、あなたは『こちら側』。いまはね。――わたしが聞いているのは、たとえば小さかったころ、死にかけたことはあるかってこと」

「あるけど……」


 小学校に上がる前、車に轢かれて生死の境をさまよったことがあると聞かされたことがある。

 小戸森さんは「やっぱり」とつぶやいた。


「園生くんが『垣根』でわたしを見つけられたのはそのせいだったんだね」


 垣根はあちらとこちらの世界の境。前に彼女はそう言った。

 でも僕は「そのせい」どころか「そのおかげ」と言いたい気分だった。


 ――1回死んでよかった……。


 当時の両親の心配や苦労を思えばひどく不謹慎だ。でも僕はそのとき本当にしみじみとそう思ってしまったのだ。

 ただ、その思いに浸っている場合ではない。


「用事はそれだけ? そろそろもどらないと、みんなに怪しまれるよ」


 僕は小戸森さんの脇を抜け、ドアに手をかけた。


 びくともしない。


 押しても引いてもまったく動かない。

 小戸森さんは「ふう」と小さくため息をついた。


「閉じこめられてしまったみたい」

「そんなバカな」


 体育の授業中だし、まだボールも片付けていないのに鍵を閉めるわけがない。なのにドアは、どれだけ力を込めても微動だにしない。


「小戸森さん、なにかしたでしょ」

「疑うの?」

「疑ってはいないけど」


 ――ほぼ確信してる。


 小戸森さんは魔法を使った。

 最近、魔法の成功率が上昇しているから気を引きしめていかねばならない。


 なのに小戸森さんは、

「ああ、困った」

 とか、

「どうしましょう」

 などと、演技がかった調子で嘆いているだけだ。


 考えてみればおかしな話だ。僕になにをするにしても、自分まで閉じこめられる必要はないんだから。趣旨がまったく分からない。

 などと思考を巡らせているあいだも、小戸森さんはああだこうだと嘆いている。ときおり、ちらちら、と意味ありげな視線をこちらに寄こしながら。


 ともかくなにもしてこないらしい。ならば、やるべきことはひとつだ。

 僕は伊達巻きみたいに巻かれていたマットを床に広げた。


 小戸森さんはぎょっとした。


「え!? 嘘、いきなり……? 園生くんがそんな大胆だったなんて……」


 そして襟元をかき合わせるような仕草をした。顔が真っ赤だ。


「でもそれはまだ早いっていうか、もっと段階を踏んで……」


 などと、そわそわもじもじしている。


 ――ひとりでなにやってるんだろう……?

 

 僕は小戸森さんの奇妙な行動を尻目に、マットに横になると、お腹の上で指を組んで目をつむった。


 やるべきこと。それは体力の温存。


 ドアは開かないし、どういうわけか音を完全に遮断しているし、授業中だからスマホを携帯しているわけもなく、やれることはなにもない。ならば黙って助けを――いや、小戸森さんがあきらめるのを待つしかない。


 眠気はすぐにやってきた。もともと午後の授業は睡魔との戦いだし、バスケットボールの観戦も退屈だった。マットの寝心地が少しだけうちのベッドと似ているせいもある。僕は固いマットレスが好きなのだ。腰にもいいし。


 ぼこん、ぼこん、と音が聞こえた。僕は寝返りを打つ。


 ぼこん、ぼこ、ぼぼこん。


 不規則なリズムが気になって眠気はどこかに行ってしまった。

 僕は身体を起こした。


 小戸森さんが、三角コーンで三角コーンを叩いていた。


 ぼぼこん、ぼこ、ぼこ、ぼこん。


「眠れないんだけど」

「そうよ」


 受け答えとしてはまったく適切ではないけど、ともかく僕を寝かさないという強い意志が感じられた。

 僕は正座をし、憤然とする小戸森さんに尋ねた。


「それで、なに?」

「なにって……、園生くんがどうしたいかでしょ」


 ――僕がどうしたいか?


 意味が分からない。僕は体力を温存したい。それを妨げたのは彼女なのに。

 小戸森さんは視線を逸らして言う。


「体育用具室で、わたしと一緒に閉じこめられてしまった園生くんは、いったいどうしたいの?」

「……体力を温存したい」


 小戸森さんは三角コーンをぼこんと打った。どうやら答えを間違ってしまったらしい。


「園生くんには若さがない」

「よく言われるよ」

「あるでしょう、欲望が」


 僕は腕を組んでうんうんうなりながら考える。そしてようやくひとつ、欲求らしきものを見つけた。


「匂い、かな」

「匂い?」

「用具室の匂いって嫌いじゃないんだけど、さすがにずっとだと気が滅入るから、いい匂いが嗅ぎたい、かな」


 小戸森さんは三角コーンを振りあげた。

 また間違ってしまったかと思ったとき、彼女は脱力するみたいに三角コーンを下ろした。


「いい匂いね」


 少し呆れたようにそう言って、人差し指で自分の胸になにかを書いた。その動きから、おそらくペンタクルではないかと思う。

 そして「ふう」と息を吐く。その息には緑の色がついていて、雲散霧消すると、用具室にはまるで森林のような匂いが充満した。

 僕は思わず立ちあがった。


「え、すごい! 魔法ってこんなこともできるの?」

「つぎの欲望は?」


 興奮する僕をよそに、小戸森さんはちょっと不機嫌そうに言った。


「つぎの? ううん……。――ちょっと蒸し暑いかな。涼しいと助かるんだけど」


 すると小戸森さんはロジンバッグで床に小さな魔方陣を書いて呪文を唱えた。

 魔方陣が鈍く光り、そのなかから僕の背丈ほどもある氷の柱が現れた。ひんやりとした冷気が心地よい。


「すごい! これどこから出てきたの?」

「いいから、つぎを言って。片っ端から叶えるから。そうすれば最後に……」

「最後に?」

「い、いいから言って」


 さっきからずっと不機嫌そうな彼女の顔を見て、僕は思った。


 ――小戸森さんに笑ってほしい。


 でも口にするのは恥ずかしいし、口にしたらしたで、多分余計に怒らせてしまう。

 だから僕は無難な欲望を探した。


「そうだな……。ちょっと暗いよね、ここ。明るくなるといいな」

「お安い御用」


 小戸森さんが壁に触れる。すると壁が間接照明のようにぼんやりと光った。


 臭くて暑くて暗かった用具室は、まるで木陰のような快適さになっていた。


 不思議なもので、あるていど快適になってくると、僕のなかで贅沢の虫がむくむくと大きくなって、用具室をもっと快適したいという気持ちが強くなった。


「もっと広くしてほしい」

「わかった」


 呪文を唱えながらボールカゴを押すと、跳び箱となんの抵抗もなく重なった。テレビゲームのバグでこういうのを見たことがある気がする。

 小戸森さんは同じように、スコアカウンターやホワイトボードを手際よく重ねていく。すると用具室はぐっと広くなった。


「それで、つぎは?」

「ちょっと喉が渇いたかな」


 小戸森さんはロジンバッグで壁に長方形を描いた。床から腰の高さくらいまである縦長の長方形と、その上に積まれた横長の長方形だ。彼女が下の長方形の端に指で触れて手前に引くと、なんとパカッと開いてしまった。


 ――冷蔵庫……!?


 絵の冷蔵庫が具現化したのである。冷蔵室のなかにはコーラやスポーツドリンク、プリンなどもある。

 小戸森さんは『濃~いお茶』とラベルに書かれたペットボトルを僕に差しだした。


「なんでこれが飲みたいって分かったの?」

「分かるよ」


 分かるらしい。小戸森さんは無糖のカフェラテをチョイスした。


 ――小戸森さん、カフェラテが好きなのか。


 好きなひとの好きな飲み物を僕は心のなかに赤い字で書きとめた。


「さあ、つぎは?」


 僕は濃~いお茶に目を落とした。


「お茶を飲むなら、やっぱり座りたいかな」

「ほんと、若さがない」


 小戸森さんは氷の柱を呼びだしたときと同じように、魔方陣で二人掛けのソファを召喚した。カジュアルな雰囲気のあるグリーンの布張りソファだ。


「すごい、ふかふかだ」


 僕はソファに座り、ペットボトルの蓋をぱきっと開けて喉を湿らた。


 小戸森さんは所在なさげに立ち尽くしている。


「座らないの?」

「え!? わ、わたしが!?」


 すっとんきょうな声を出す。


「もちろん。さ、どうぞ」


 ソファをぽんぽんと叩いてうながす。


 小戸森さんはしばらくためらったあと、


「……お邪魔します」


 と、意を決したように僕の隣に腰を下ろした。カフェラテは肘掛けに置く。ぴんと背筋を伸ばし、太ももの上で手をもじもじさせている。


「どうしたの?」


 僕が顔を覗くようにして尋ねると、小戸森さんは弾かれるように仰け反った。


「ひゃ、ひゃい!? なんでもありませんけど!?」

「そう?」


 小戸森さんが敬語になるのはいつもなにか含むところがあるときだ。まあ、それがなんなのかはいつもよく分からないんだけど。


 彼女は髪をいじったり、ジャージの裾を直したり、とにかく落ち着かない。のどが渇いたのか、カフェラテをまるで麦茶みたいにごくごく飲んだ。

 口元を拭うと、ほとんど裏声みたいな高い声で言う。


「あのさ!」

「な、なに?」

「わたしと……」

「小戸森さんと……?」


 小戸森さんの顔は真っ赤だ。ぎゅっと目をつむり、ジャージの袖を握りしめている。


「わたしと……」

「?」

「キ、キキ、キs……!」

「??」

「キーック!」

「あ痛っ」


 いきなりふくらはぎのあたりを蹴られた。といっても、足でちょんと触れられたていどだが。


「つぎはゲームなんてどうかな!」


 小戸森さんはとうとつにそう提案した。


「いいけど。――さっきなにを言いかけたの?」

「は? なにも言いかけてませんけど?」


 また敬語だ。


「じ、じゃあ呼ぶね!」


 魔方陣でテレビとゲーム機を呼び出す。プラグはどこともつながっていなかったが、魔法の力で給電できるらしく、テレビもゲーム機も問題なく立ちあがった。


 ――僕の願いを叶えるっていう趣旨はどこに言ったんだろう……?


 小戸森さんがコントローラーを渡してきた。


 ――ま、いいか。


 僕はコントローラーを受けとった。


 赤い服を着たひげ面のおじさんのおじさんや擬人化された亀がカートに乗ってレースをする、誰でも知っているゲームだ。うちにゲーム機はないけど、友達の家でプレイしたことがあるから操作はなんとかなるだろう。


 しかしそれは甘い考えだった。小戸森さんの操作するマッチョなゴリラは、見事なスタートダッシュで僕の操作する平和そうな顔をした恐竜を置き去りにした。

 周回遅れでようやくゴールした僕は言った。


「小戸森さんは強いね」

「園生くんが弱いんだよ」


 さっきまであんなに慌てていた小戸森さんは、ゲームに勝利したためか少し余裕をとりもどしていた。


 つぎのプレイでは、小戸森さんは僕に合わせてスタートを遅らせ伴走した。手ほどきをしてくれるのかと思いきやわざと衝突したり、亀の甲羅をぶつけたりしてくる。

 やっとゴールが近づいてきたら、急に本気を出して勝利してしまう。

 完全におちょくられている。


 ついには甲羅をぶつけられて方向を見失い、僕はコースを逆走してしまった。


「ふふっ」


 その声に僕は小戸森さんの顔を横目で見た。


 笑っていた。大人っぽい顔を、子供っぽくくしゃくしゃにして。


 目を奪われた。

 気がつくと、僕の操作する恐竜はコースアウトして悲鳴をあげていた。


 ――願いが叶っちゃったな。


 小戸森さんの笑顔が見れた。氷の柱をもう一本追加してほしいくらい、僕の身体は熱くなった。


 そのあとも、横目で見られているとも知らないで、小戸森さんはいろんな顔をした。不満げに鼻にしわを寄せたり、目を輝かせたり、くちびるを尖らせたり、ぺろっと舌を出したり。

 そのたびに僕はコースアウトした。


 小戸森さんは天井を仰ぎ、ほうっと息をついた。そして立ちあがると、ドアのほうへ歩いていく。


「そろそろ開くんじゃない?」


 そんな白々しいことを言う。


「小戸森さんはいいの? なにかやりたいことがあったんじゃ」

「いいの。もう満足だし」


 背を向けたまま答える。

 僕もまったく同じ気持ちだった。一緒の空間で、一緒に飲み物を飲みながら、一緒にゲームを楽しんだ。それだけのことで、僕の心は幸せで満たされていた。


 ドアが開く。そのとたん、歓声とボールをつく音、床を靴底が擦る音が聞こえてきた。

 体感では一時間以上は経過しているはずなのに、その光景は閉じこめられる直前とまったく変わらなかった。


 ――時間の魔法かな……?


 小戸森さんは何事もなかったように、観戦するクラスメイトの輪にまざる。僕もそろりそろりとクラスメイトの後ろに並び、さもずっと観戦していたかのように振る舞う。


 しかし頭のなかは先ほどの出来事で一杯だった。


 小戸森さんの笑顔。カフェラテが好き。意外にゲームがうまい。


 ――ゲーム機を買って練習しようかな。


 ちょっと考えてから、僕は首を横に振った。


 ――やめとこ。


 多分、僕が弱いほうが小戸森さんは笑ってくれるから。

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