第5話 あまごい
「もうそんな時期か」
僕はつぶやいて立ち止まった。
ミルクパーラーの店先に従業員が丸テーブルとイスを設置している。
この『ミルクパーラー林田』は地元の林田牧場直営で、新鮮な牛乳や、その牛乳を使ったチーズなどの乳製品を販売しており、味の良さから他県でもちょっと知られている店だ。
夏の日中のみ、店先はオープンカフェの様相を呈する。休日などはそこで買い物帰りの親子連れがソフトクリームに舌鼓を打つ姿をよく見かける。
僕は子供のころから「日本の夏といえばかき氷、それも宇治金時こそ至高」と思っているのでソフトクリームはあまり食べたことはないが、それでも、夏の到来を告げられているようで気分がうきうきした。
――でも……。
傘を傾けて空を見る。
せっかくのオープンカフェ初日だというのに空はどんより曇っていて、ぱらぱらと雨が降っていた。
――お客さんは来ないだろうな。
僕は登校を再開した。
この雨は多分、いや間違いなく、小戸森さんのせいである。
「今週は絶好のお洗濯日和です」
週のはじめ、テレビで気象予報士のお姉さんがそう言い切っていた。週間予報にも傘どころか雲のマークすらなかった。お姉さんの言ったとおり、月曜日は一日中、雲ひとつない快晴だった。
でもその日の放課後、僕は見てしまったのだ。
小戸森さんが雨乞いしているのを。
小戸森さんとの『放課後の密会』を終えた帰り道、母から「ドラッグストアに寄って汗拭きシートを買ってきてほしい」とメッセージを受けて、ついでに買うものはないかとやりとりしているあいだに結構な時間が過ぎた。
そう、僕はスマホの入力が遅いのだ。ついでに母も入力が遅い。
やっとお目当ての乳液の銘柄を聞きだして、やれやれとなんとなく空を仰ぎ見る。
空に向かって一筋の白い煙が立ちのぼっていた。出所は密会の場所、つまり石垣の近辺のようだ。
不審に思ってもどってみると、トネリコの木がちょっとした林になっている場所の真ん中に小戸森さんが立っていた。その足元では木の枝が社のように組まれており、炎をあげ、ぱちぱちと爆ぜている。煙の出所はそこだった。
僕は木の陰に隠れて様子をうかがう。
小戸森さんは腕を伸ばし、炎の上で指をこすりあわせた。
するとそこから粉がぱらぱらと落ちて、炎が大きく吹きあがった。煙もよりいっそう濃くなる。
小戸森さんがなにかつぶやいている。
「流浪の神、嵐の神、オーディンよ。呼びかけに応じ、空を涙の雲で覆いたまえ」
彼女はそう言ってからちょっと首を傾げるような仕草をして、付け足した。
「明日の15時~17時くらいのあいだ、降水量は一ミリくらいで」
――なにその控えめな雨乞い。
多分オーディンも「え?」って言っていると思う。
ある国で干ばつが起きたとき、世界中から雨乞い師を集めて祈祷させたら未曾有の大水害が起きた、というまるで戒め系のおとぎ話みたいなことが実際にあったというから、気を遣ったのかもしれない。
小戸森さんが薄笑いを浮かべて、なにやらぼそぼそ言っている。僕は耳をそばだてた。
「園生くん……、園生くん……、うふふ……」
背筋が冷たくなった。
この雨乞いも、僕をしもべにするための下準備らしい。
そして今日、実際に雨が降った。
15時~17時ではなく、早朝からだが。
小戸森さんの魔法は、また失敗したようだ。
本日最後の授業中、横目で窓の外を眺めた。雨は休むことなく降りつづけている。
僕は音がしないように気をつけながら大きなため息をついた。
雨の日は憂鬱だ。べつに低気圧のせいで体調が悪くなるとか、舗装された道路の上に息絶えたミミズが横たわっているのが感傷的な気分にさせるとか、そんな話ではない。
小戸森さんとの放課後の密会を中止せざるを得なくなるからだ。
――やみそうにないな。
15時~17時といえば恒例の密会を行う時間帯だ。わざわざそこを指定したのは、どういう意図があるのだろう。
――もう僕と会うのがいやになったのかな……。
あ、駄目だ、ちょっと泣きそう。
僕はもう一度、静かなため息をついた。
未練がましく図書室で時間を潰してみたが、雨がやむことはなかった。
玄関の
そのときである。視界の端に人影が映った。
小戸森さんだった。
彼女も玄関の庇の下で、雨宿りするみたいに立ち尽くしていた。分厚い雲が垂れこめて灰色に染められた世界で、小戸森さんの夏服の白が目にまぶしい。
「園生くん」
「な、なに?」
嫌われてしまったのかもしれないと不安になっていた僕は返事をつっかえた。
小戸森さんは右肩にバッグをさげ、左手に傘を持っていた。ブラウンが基調の、落ち着いた色合いの傘だ。大人っぽい彼女によく似合っている。
その傘を少し持ちあげて、小戸森さんは言った。
「わたしの傘に……入る?」
「? いや、自分の傘あるし……」
僕はパン! と傘を開いた。
「ですよねー」
小戸森さんはなぜか敬語で言った。
「朝から雨だもん、みんな傘持ってますよね、ふふっ」
と、自虐的な表情を浮かべる。そして傘を開くと、
「つぎ」
とつぶやき、そそくさと庇の下から出ていった。
――……なんだ?
よく分からないが、つぎがあるらしい。
それはつまり、まだまだちょっかいをかけてくるつもりがあるということで。
――よかった、嫌われてなかった。
それだけで、どんよりとしていた僕の気持ちは快晴になった。
つぎの日の放課後も雨だった。でも今日は昼頃までは快晴だったから、多くの生徒たちがジャージの上着やバッグを傘の代わりにして玄関から駆けだしていく姿が見られた。
僕は庇の下から空を見あげていた。
そのかたわらに小戸森さんがやってきて、僕を見た――というより、僕の手を見た。バッグしか持っていない僕の手を。
そして「してやったり」といった感じで口角を上げた。
小戸森さんはブラウンの傘を少し持ちあげて言う。
「わたしの傘に入る?」
僕はバッグのなかから折りたたみ傘をとりだして広げた。
「大丈夫、念のために持ってきてたから」
「なんで!?」
小戸森さんは目を見開いて大声をあげた。
「い、いや、だから念のためって」
僕がそう言うと、いやいやをするみたいに首を振る。
「意味が分からない……」
「え、嘘? 傘を持ってきただけだよ……?」
小戸森さんはあごに指を当て、難しい顔でぶつぶつ言っている。。なにやら思案しているようだ。
――なにがそんなに分かんないんだろう……。
「あの……小戸森さん?」
「あ、そうか、わたしのじゃなくて園生くんのに……」
いいアイデアを思いついたのだろう、彼女は顔を上げて微笑んだ。
「じゃあ、また明日」
そう言って傘を開くと、庇の下から意気揚々と出ていった。
「また、明日……」
僕の声は彼女の背中には届かなかった。
その翌日も昼頃から雨だった。
僕は庇の下から空を仰いだ。
もうほとんどお決まりのように、小戸森さんがかたわらに立つ。
小戸森さんは小首を傾げるように僕を見て言った。
「今日、傘忘れちゃった。よかったら園生くんの傘に――」
「僕も今日は持ってこなかった」
「なんで!?!?」
そばで大声を出すものだから耳がキーンとした。
「乾かなかったから……。鞄が濡れるし……」
それにそろそろ魔法も切れるころじゃないかと思ったのだ。
本音を言えば、切れてほしかった。結局、思いは届かなかったけど。
「ビニール袋に入れればいいでしょっ」
「なんかほら、カビそうじゃない?」
小戸森さんはぽかんとした。冷凍のさんまみたいな目になっている。
「なんなの……」
――いや、僕が言いたい。
小戸森さんは幽鬼のようにゆらりと学校のなかへもどっていく。
「か、帰らないの?」
「気力が回復したら……帰る……」
そして薄暗い校舎の奥へ消えた。
――ええ……?
ひどい打ちひしがれようだった。
僕がなにかしてしまったのだろうか? いや、なにもしていない。それとも、なにもしなかったことが問題なのか。
「あ」
――もしかして……。
「相合い傘をしようと……?」
小戸森さんの行動を振りかえると、そうとしか思えない。彼女はしつこく『どちらか一方しか傘を持っていないシチュエーション』を作ろうとしていた。
――相合い傘かぁ……。
それは非常にまずい。
雨音に包まれて、ふたりの息づかいしか聞こえない傘の下。密着する肩。甘い匂い。雨に濡れて肌に張りつく制服……。
――耐えられるはずがない。
確実に心に隙ができて魔法をかけられてしまう。なんだかよく分からないうちに回避できたのは幸運だった。
やがて雨があがり、雲の隙間から日が差しこんだ。雨乞いの魔法が解けて、本来の天気にもどったらしい。
小戸森さんの魔法を回避できた。天気もよくなった。
なのに僕の気持ちは逆に曇っていく。
魔法は回避しなければならない。でも、小戸森さんのつらそうな表情を見たくはない。
僕は学校のなかに引きかえした。
馬鹿なことをやってるなあ、と思う。わざわざリスクをとりに行くなんて。
でもやっぱり僕は、彼女の笑顔が見たい。
教室に入る。
小戸森さんが窓際の席で頬杖をつき、窓の外を眺めていた。西日に目を細めた表情が物憂げにも見える。
「小戸森さん」
返事はない。返事をする気力もないといった様子だった。
「小戸森さん」
もう一度呼びかけると、彼女は長い髪を耳にかけ、
「なに?」
と少し眠たいような声で返事をした。
「ソフトクリーム、おごってあげるから食べに行かない?」
「え、行く」
即答だった。目がぱっちり開いてきらきらしている。よほど甘いものが好きらしい。
「あ」
小戸森さんは「しまった」というような顔をしてうつむいた。
「行こう」
僕がそう言うと、小戸森さんはちょっと照れくさそうな表情をして立ちあがった。
◇
夕方ということもあってか、ミルクパーラー林田のオープンカフェには僕たち以外に一組の客しかいなかった。
ソフトクリームを両手にひとつずつ持って、僕は小戸森さんが待つ席にもどった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
ソフトクリームを受けとった彼女は、でもまだ少しだけ元気がないように見える。
「ちょっと持ってて」
僕の分のソフトクリームを小戸森さんに手渡し、テーブルの中央にあるそれに手をかけた。
小戸森さんが怪訝な顔をする。
「大丈夫、ちゃんと許可をとったから」
僕はそれを広げた。
ソフトクリームを受けとり、イスに腰を下ろす。そして小戸森さんに話しかけた。
「食べないの?」
「いただきます」
彼女は伏し目がちにソフトクリームを口にする。
僕は上に広がるそれ――パラソルを見ながら言った。
「これ、まるで相合い傘だね」
小戸森さんがソフトクリームを口につけたまま固まった。目が大きく見開かれている。溶けたソフトクリームが垂れて、コーンを伝って手を汚している。彼女はそれでも動けなかった。
「あ、ごめん。変なことしちゃったね……」
僕はただ彼女に笑ってほしかっただけだ。困らせてしまっては元も子もない。
閉じようと立ちあがって、パラソルに手を伸ばす。
シャツの脇腹のあたりを引っぱられる感覚があって、目を落とした。
小戸森さんが僕のシャツをつまんで引っぱっていた。
彼女の顔は西日よりも赤々として、目はほとんど泣いているみたいに潤んでいた。
そして必死に、しぼり出すような声で言う。
「べつに……このままでいい……」
僕はその顔に目が釘付けになる。
気がつくと、僕の手にも溶けたソフトクリームが垂れていた。
「う、うん……」
やっと返事をし、僕は手の甲に伝う白い筋をぺろりとなめた。
――
日本の夏といえばかき氷、それも宇治金時こそ至高。その気持ちは変わっていない。
でも、ほんの少しだけ、
――ソフトクリームもいいかもな。
そう思った。
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