第3話 催眠術にもてあそばれる
――なるほど、『垣根の上にいる人』……。
僕は図書室で『魔女の生き方』という本を読んでいた。小戸森さんの魔法から身を守る方法を探すためだ。
どうやら『アミュレット』を身につけておけばいいということまでは分かったのだが、挿絵のアミュレットは高価な宝石で、高校生の僕には手が出せそうになく途方に暮れていたところ、聞き覚えのある『垣根』という単語が目に入った。
魔女はドイツ語で『
この『垣根』とは、実際の垣根というよりはあちらとこちら、つまりあの世とこの世の境界を指す。産婆や薬剤師として生と死を間近に見てきた魔女はたしかに、あちらとこちらの境に立つ者なのかもしれない。
『垣根は境界。こちらの世界とあちらの世界の、ね。わたしたちはその上にいる。だからひとは来ない』
小戸森さんの言葉はやはり冗談などではなかった。あの世とこの世の境である垣根には、ふつうの人間は立てない。
――……ん? じゃあなんで僕は垣根に入れたんだ?
もちろん僕は魔女じゃない。
――小戸森さんが僕と話をしたくて招き入れてくれた……なんて。
あり得ない妄想をした自分が猛烈に恥ずかしくなり、僕は本を棚にもどしてそそくさと図書室を出た。
玄関へ向かう途中、スマホをいじる生徒を何人も見かけた。でもこれはべつに風紀が乱れているのではない。
しかしその理念はもはや時代遅れだと思う。物心がついたころにはすでにスマホやタブレットが身近にあった、ほぼデジタルネイティブと言っても過言ではない僕らにとって、それは単なるゆるい校則でしかない。
――そのゆるい校則を、僕は満喫できてないけど。
SNSを活用できないのだ。デジタルネイティブとか言っておいてなんだが。
友達がいないわけではない。数人のクラスメイトとLINEのIDは交換した。
でもメッセージのやりとりがつづかない。
原因は分かっている。僕の返信が遅いのだ。
僕はあの『フリック入力』というやつが苦手だ。ひらがなの行の最初の文字を押したまま、上下左右に割りふられた段の方向へ指を滑らせる、あの入力方法。
指の腹が広いのか、タッチパネルへの理解度が低いのか、あ行を押しているつもりで、すぐ下のた行を押していることがしょっちゅうだ。だから『ありがとう』と入力したいのに、
『たりなもう』
などと意味不明の言葉を入力してしまい、打ち直しているあいだに時間は刻々と過ぎて、結局返信は遅くなる。
フリック入力練習アプリ『フリック道場』をダウンロードして練習をはじめてみたりもした。
道場主のキャラ(擬人化された犬の女の子)はいわゆるツンデレで、ふだんは「いまどきフリック入力もできないなんて!」とか「遅いのよ!」などと小言を言ってくるのだが、うまく入力すると「なかなかやるじゃない」とか「す、すごいだなんて思ってないんだからね」と褒めてくれる――らしいのだが、まともに入力できない僕にとってはただの口の悪い犬であり、頭にきて三〇分でアンインストールした。
なのでフリック入力はあきらめて、ボタンを押すごとに文字が切りかわる、いわゆるトグル入力を使っているのだが、それを用いたところで僕の入力自体は遅く、返信が遅れることに変わりはない。
遅れがちな返信のせいでやりとりは徐々に少なくなり、やがてほとんどなくなった。
スタンプを使えばいい? 僕はスタンプを探すのも遅いのだ。
とにかく僕はSNSに向いていない。デジタルネイティブなのにデジタルに弱い奴だっている。アナログネイティブが全員、アナログなものを使いこなせるわけじゃないのと一緒だ。
僕はSNSより直接会って話すほうがいい。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかいつもの低い石垣に到着していて、いつものように小戸森さんがそこに座っていた。
彼女は僕が近づいていることに気づかず、厳しい表情で手元に目を落としている。スマホを見ているようだった。
小戸森さんほどのひとであれば大勢とIDを交換しているだろうし、フリック入力だって早いだろう。そんな彼女でもSNSでのコミュニケーションに悩むことがあるのだろうか。
僕がそばに立つと、小戸森さんはさっとスマホを隠した。
「どうしたの?」
と尋ねると、小戸森さんはすまし顔をした。
「なにが?」
「いや、スマホ……」
「隠してませんけど?」
彼女は食い気味に答えた。しかもなぜか敬語だ。
まあ、スマホはプライベートな情報が満載だし、あまり突っこんで尋ねるようなことでもない。
聞かないでおこう。そう思った矢先、
「わたしのスマホが気になるの?」
と、小戸森さんのほうから話を混ぜっかえしてきた。
「え? いや、まあ」
あいまいに頷くと、小戸森さんはしてやったりといった表情になった。
「じゃあ、見せてあげる」
なにやら操作したあと、画面を僕に向けるようにしてスマホを差しだした。
動画が再生されている。黄金色の物体が右、左に揺れている。その物体は、白い糸で吊るされていた。
揺れているのは、糸を結んだ五円玉だった。
小戸森さんはスマホをさらに近づけてきた。眼前で五円玉が揺れる。
――なに、これ。
糸で吊るされた五円玉を目の前で揺らすのは催眠術をかけるための常套手段である。
が。
――それ、魔法……?
根本的な疑問が思い浮かぶ。催眠療法という言葉があるとおり、医療の分野なのではないだろうか。
――でもさっき読んだ本には、魔女は医者やカウンセラーとしての役割も担っていたと書いてあったし……。
催眠術は魔法の範疇に入るんだろうか? それにしても五円玉とはベタすぎないだろうか。
小戸森さんは低い声でつぶやくように言う。
「あなたはだんだん眠くな~る、あなたはだんだん眠くな~る……」
――ベタすぎないだろうか。
驚きと呆れのあまり、目はかえって冴えた。
唖然とする僕をよそに、小戸森さんはベタな暗示の言葉を唱えつづける。
「あなたはだんだん眠くな~る、あなたはだんだん眠くな~る……」
しかし、僕の様子に変化がないことに気がつくと、
「あ、あれ? あなたはだんだん眠くな~る、あなたはだんだん眠くな~る……!」
語気に焦りの色が混じりはじめ、
「眠くな~る! 眠くな~れ!」
命令形になり、
「眠くなって……!」
ついに懇願になった。
なんだか不憫になって、僕は目をつむった。
「ぐ、ぐぅ~……」
だらっと首を垂らし、いびきをかく。
「え、あ、かかった……?」
「か、かかったぐぅ~」
顔が熱くなった。どこの世界に「かかったぐぅ~」などと間抜けな返事をする催眠術の被験者がいるだろう。しかし――。
「よかった、かかった」
小戸森さんのほっとしたような声が聞こえた。
――信じるほうも信じるほうだよ……。
呆れると同時に、そのあまりの無垢さに胸がきゅうっとなった。
「よしっ、じゃあ……三つ命令をしまーす」
どきっとした。いったいなにをさせられるのだろうか。
催眠術は、行為させることはできるが心を書きかえることはできない、という話を聞いたことがある。たとえば被験者に恋人のように振る舞わせることはできても、惚れさせることはできない、といった具合だ。
だから僕の意志に反して小戸森さんのしもべにされてしまうということはないはずだ。
――まあ、そもそもかかってないんだけど。
でも、例えば――。
――小戸森さんの靴を舐めさせられらりして、その証拠写真を撮られたら……。
それをネタにして
――いや、ないな。
小戸森さんがひとの弱みにつけこむなんて考えられない。
ならいったいどんな命令をしてくるのか。頭脳明晰な彼女の考えることだ、僕が思いもつかないような命令でしもべ根性を植えつけられるかもしれない。
「じゃあ、まず一つ目の命令」
小戸森さんの嬉しそうな声がした。僕は身体を強ばらせる。
「一つ目の命令は――ええと……、んー、どうしよう?」
――ノープラン!?
思わず声が出そうになった。
「一つ目は……、そうだなー。じゃあ、ちゃんと催眠術がかかっているか確認するために……園生くんにラップで自己紹介してもらおうかな」
――なぜ。
「
――なるほど。
納得だ。たしかに僕はラップをたしなまない。だからラップがなんなのか、ふわっとしか分からない。
――ど、どうすればいい? 韻を踏んだり「YO」とか言えばいい……? あと、それっぽい単語を適当に突っこめば……。
「はい、じゃあラップ、お願いします!」
小戸森さんはパンと手を叩いた。
――ままよっ。
僕は左手を握って口に近づけ(マイクを持っているつもり)、右手は、なんか指が
「よ、ヨー、ヨー。俺はDJ・園生、そのっ……、心に燃えてる、炎。お婆ちゃんちのお香……? こっ、工事現場の土嚢……どっぼっ……!」
これはラップではない。ただの駄洒落だ。あと自己紹介になっていない。DJというのも嘘だ。
まさかここまで低クオリティになるとは思わなかった。完全にラップを舐めていた。
「あははははははははははははは!! あはっ、あははははははははははは!!」
小戸森さんが爆笑している。
――いっそ殺してくれ……。
僕は羞恥に震えた。
ひとしきり笑った小戸森さんは信じられないことを言った。
「いやー……、いい動画が撮れた」
――いっそ殺してくれぇ……!
僕は人生のなかでも有数の絶望感を味わった。
――だ、駄目だ、気持ちを強く持たないと……。
心に隙ができれば魔法をかけられてしまう。
「さあ、じゃあ、二つ目の命令は……どうしようかな」
機嫌のよさそうな声で「んー」とか「そうだなー」などとつぶやいている。
「あ」
その声がぷつんと途切れた。
沈黙。トネリコの木がさわさわと揺れる音だけが聞こえる。
小戸森さんが大きく息を吸って、吐いた。緊張感が伝わってくる。
「大事なことを聞くけど」
張りつめた声。
――なにを聞かれるんだろう……。
僕も緊張する。
小戸森さんは言った。
「園生くん、わたし以外に仲のいい女の子はいる?」
「……いいえ」
僕がそう答えると、
「はあぁ……」
と大きなため息が聞こえた。
――え? な、なに? 呆れられた? しもべにしようとしている僕に甲斐性がなくて呆れられた……!?
「そっかぁ……」
虚脱したような、気の抜けた声で言う小戸森さん。
「よかった……」
しもべにするのであれば誰かほかの人間に心を奪われていてはいけない、ということだろうか。
――でも、さっきのため息は……?
彼女の反応の解釈に思考を巡らせていると、小戸森さんの立ちあがる気配がした。
その気配が離れていく。
――え? ちょ、ちょっと。放置?
術の強度を計るテストだろうか。だとしたら目を開けるのはまずいか……?
あまりの心細さにいよいよ目を開けてしまおうとした瞬間、たったった、と駆けよってくる足音が聞こえた。
「三つ目、忘れてた」
息を弾ませた小戸森さんの声。
いよいよ核心である。前二つはノープランだったが、そもそも催眠術をかけたのにはなんらかの勝算があったからだろうし、三つ命令をすると宣言したからにはこの三つ目が本来の目的であると見て間違いないだろう。
心臓が激しく鼓動する。
「じゃあ、命令」
気づかれないようにつばを飲みこむ。
「LINEのIDを教えて」
「……ん?」
思わず声を出してしまった。
――『LINEのIDを教えて』? というのは、LINEのIDを教えてということだろうか?
僕は意味のない反芻をしてしまう。
「あれ? 聞こえなかった? LINEのIDを教えて」
――『LINEのIDを教えて』というのは、そのままLINEのIDを教えてという意味でいいんだろうか……?
僕は薄目を開け、おそるおそるポケットからスマホをとりだした。すると小戸森さんはスマホを操作して、画面をこちらに向けた。
画面にはID交換用のQRコードが表示されている。
やはりそのままの意味だったらしい。
薄目で視界がせまいのと、久しぶりにアプリを操作したせいでもたもたしながらも、僕はなんとかQRコードを読みこんだ。
フレンド欄に『小戸森』の文字が追加される。
「えへへ、やった……!」
嬉しそうな声が聞こえる。
小戸森さんの顔が見たい。でも目を全開にするわけにはいかない。
――でも、なんでそんなに喜ぶんだろう? 小戸森さんなら、いろんなひととやりとりしているのでは……?
「聞いてよ、園生くん。あ、これは命令じゃないけど」
いつもよりテンション高めの声で言う。
「みんな全然わたしのIDを聞いてくれないんだよ!? ひどくない? で、やっと何人かの友達とIDを交換したんだけど、全然メッセージ送ってくれないの。こっちから送っても返事が素っ気ないし……もう! なんでだろ!」
僕が催眠状態だと思って、思いの丈をぶちまける小戸森さん。
――それは多分、高嶺の花の小戸森さんに尻込みしてしまうからだと思う。
僕のSNS不全とはまったく事情が違う。
――それにしても……。
彼女の口調や声の調子がいやに子供っぽい。
――ふだんは大人っぽい小戸森さんも、家ではこんな感じなのかな……。
彼女のプライベートな部分に触れたような気がして胸が高鳴った。
「じゃあ、命令といま言ったことは忘れて」
薄目の視界に親指と中指をくっつけた小戸森さんの手が入りこんでくる。
「三、二、一、はい!」
ぱちん、と指が弾かれた。
僕はまぶたを開いた。目の前にはすまし顔の小戸森さん。
この顔がさっきまで子供っぽく喜んだりむくれたりしていたのかと思うと、嘘をついていることがバレたとしても目を開けるべきだったと激しく後悔した。
「じゃあね」
彼女は手を振って去っていった。
「あ、うん、じゃあ」
小戸森さんの背中を見送りながら、僕は考えていた。
――なんで催眠術がかからなかったんだろう……?
制服の内ポケットをまさぐって、あるものをとりだした。
――まさか、これののおかげ?
それは子供のころ、お爺ちゃんからもらったお守りだった。
アミュレットは直訳すれば『お守り』という意味らしいから、もしかしたらこれが守ってくれたのかもしれない。
――でもこれ、交通安全のお守りなんだけどな……。
小戸森さんの魔法は換気だけでなく交通安全のお守りにさえ破れてしまうのか。
僕は苦笑いをした。
◇
帰宅後、僕はスマホを常に視界の端に置いた。ご飯を食べるときはテーブルに、テレビを見るときはソファの肘掛けに、お風呂に入るときはドアの磨りガラスの向こうに。
なのにメッセージは送られてこない。勉強をしていても気が気でない。
――駄目だ。集中できない。
僕はシャープペンを放りだしてスマホに持ちかえた。
でも催眠術をかけられているあいだのことは忘れている設定だから、こちらからメッセージを送るのもおかしい。
少し考えたあと、僕はアプリストアで『フリック道場』を再ダウンロードし、練習を開始した。
いずれ交わすかもしれない彼女とのやりとりが、僕のせいで途切れないように。
今度は挫折する気がしない。
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