第2話 匂いの記憶

 入学式を終えて教室にもどるころには、小戸森さんはもう学校中で話題になっていた。


 新入生挨拶で小戸森さんが壇上に立ったとき、まるで大女優が舞台に上がったかのように会場の空気がぴりっとした。彼女の一挙手一投足を見逃すまいと会場は息を凝らした。


 深くお辞儀をして、顔を上げる。おびただしい視線を一身に受ける彼女は、しかし緊張するどころか観衆に向けて微笑みさえ浮かべた。


 やがて小戸森さんが原稿を読みあげる。声は少し低めのアルト。鼓膜と一緒に心も揺すられるような音域。


 内容はよく覚えていない。ただただ心地よかったのを覚えている。


 小戸森さんがもう一度お辞儀をしたあと、少し間があって、拍手が沸き起こった。ひとつ前の在校生挨拶のときよりも大きな拍手だった。


 教室にもどり、オリエンテーションが行われているあいだも、みんなはなんだかそわそわとしていて、小戸森さんだけが泰然と背筋を伸ばしていた。


 オリエンテーションが終わると同時に小戸森さんがわっとクラスメイトに囲まれたのは言うまでもない。


 矢継ぎ早に繰りだされる質問に彼女は嫌な顔ひとつせず、ほのかな笑みを浮かべて丁寧に答えていた。

 みんな一向に帰ろうとしない。小戸森さんに話しかける勇気のない者たちも、彼女を横目に見ながら未練がましく教室に残っている始末だった。


 僕はそそくさと帰宅した。録画しておいた演芸番組『笑天』を見るためだ。昨日は本屋巡りをしたから、リアルタイムで視聴できなかったのだ。


 明くる日、本格的に高校生活がはじまっても、小戸森さんの周りは騒がしかった。授業が終われば誰かしらに話しかけられ、昼休みは昼食の輪に組みこまれ、放課後には道草に勧誘される。


 そのすべてに彼女は朗らかな笑顔で答え、応える。

 僕はその表情をなんとはなしに見ていた。


 小戸森さんはまるで笑天のように、いつも変わらず期待に応えつづける。クラスメイトだけではない。教師、上級生に対しても、いつでも彼女は『笑顔』だった。


 僕が小戸森さんに『あんなこと』を言ってしまったのは、そんな様子をいつも端から見ていたからかもしれない。



 学校の裏手から「ピチュー、ピチュー」とシジュウカラの鳴く声が聞こえた。僕は帰宅ルートを変更して学校の裏手へ回った。

 スマホのカメラアプリを起動して、トネリコの木を見あげながらゆるい坂道を下る。でももうシジュウカラの声は聞こえなくなっていた。


 ――この辺だと思ったんだけど……。


 ちょっと残念に思いながらふと視線を下げると、低い石垣の上に誰かが座っているのが見えた。


 小戸森さんだった。


 めずらしいこともあるものだと思った。

 小戸森さんは、ひとりだった。生白いまっすぐな脚をぶらりと垂らして空を見あげている。


 その視線が下りてきて僕をとらえた。


 彼女はいつもの笑みを浮かべた。


 みんなの心をつかんで離さない笑顔。でもそのとき僕は、なんだかちょっと呆れたような気持ちになった。


 小戸森さんにつかつかと歩み寄って正面に立つと、スマホをポケットにつっこんで、代わりにあるものを取りだして彼女の眼前に差しだした。

 小戸森さんは小首を傾げた。


「なに?」

「あげる」

 僕の手に載っているのは透明な袋に入った小さなお菓子。

「これは?」

「茎わかめ」

 小戸森さんの口元がひくりと動いた。

「くき……わかめ……」

「梅しそ味だよ」

「んぐふ」


 彼女は変な声をあげて、弾かれるように後ろを向いた。肩がひくひく震えている。


「どうしたの? しゃきしゃきしておいしいよ?」

 小戸森さんは僕の鼻先に手のひらを突きだし、震える声で言った。

「少し猶予をちょうだい」

「いいけど……」


 視界いっぱいに彼女の手のひらが広がっている。

「頭脳線、長いね」

「んぶぅ」

 手のひらががくがくと揺れた。

「猶予をちょうだいって言ったよね?」

「ごめん」


 よく分からないけど、僕がしゃべると都合が悪いようだった。

 言いつけどおり、口をつぐんで待つ。


 小戸森さんの手のひらから桃みたいな匂いがする。それは『完全無欠のヒロイン』である彼女の香りとして、とてもふさわしいように思えた。


 そこで僕はようやく冷静になった。


 ――完全無欠のヒロインである小戸森さんに、茎わかめはなのでは。


 気分を害してしまっただろうか? 背中に嫌な汗が噴きだす。


 やがて視界を遮っていた手のひらが下がって、小戸森さんの顔が現れた。

 彼女は穏やかな声で尋ねた。


「どうして急にお菓子をくれたの?」

「ごめん、不快だった?」

「違うの。幼い顔をした園生くんのポケットから茎わかめが出てきたから、ちょっとツボに入ってしまって。こちらこそごめんなさい」


 ――よかった。呆れられたわけではないらしい。

 僕はほっと胸をなでおろした。


 小戸森さんはつづける。

「言いたかったのはそういうことじゃなくて、まともに話したこともないわたしに、どうして突然お菓子をくれたのかってこと」

「なんでって……」


 いまだかつてないほど間近にある小戸森さんの顔は、やはりいつもの『笑顔』だった。


「その顔だよ」

「顔?」

「疲れない? その顔」

「疲れたような顔してる?」

「全然。だから疲れるだろうなって」


 小戸森さんの顔から笑みが消えた。というより、お面がはがれたような感じだった。


「無理してるって言いたいの?」

「そういうわけじゃないけど」


 子供のころ、シェットランドシープドッグを飼っていた。

 名前はコハク。僕が物心ついたときにはすでにお婆ちゃん犬だったけど、とても顔立ちが整っていて、散歩をするといつも「かわいいね」とか「美人さんだね」と声をかけられた。コハクは誇らしげに背筋を伸ばし、そんな賞賛を一身に浴びていた。

 でも散歩から帰ると、コハクはがぶがぶと水を飲み、それからお気に入りの座布団の上に移動して、夕飯の時間までてこでも動かなくなる。腹を上に向け、白目をむき、ぴくぴくと痙攣しながらいびきを立てて眠るその姿に「美人さん」の面影はなかった。


 僕のなかで、コハクと小戸森さんがダブっていた。顔もなんとなく似ている気がする。茎わかめをあげたのは、コハクに「お疲れ様」とジャーキーをあげるような感覚だった。


 小戸森さんは僕を値踏みするみたいにじっと見た。そして手のひらを差しだす。今度は上に向けて。

 僕は「なに?」と尋ねた。


「くれるんでしょ? 茎わかめ」

「う、うん」


 茎わかめを手のひらに載せる。

 小戸森さんは包装を破いて、茎わかめを口に運んだ。

 斜め上を見ながら、ぽりぽりと咀嚼する。


 ――小戸森さん、味わうとき右斜め上を見るんだな……。

 何気ない癖を知ることができて、妙に嬉しくなる。


 こくん、と小戸森さんののどが動いた。

 明後日に向いていた目が僕のほうへもどる。


「世界にはわたしの知らない素敵なものが、まだたくさんあるんだね」


 このときなぜか、自分が褒められたみたいな気分になったのを覚えている。



 つぎの日、僕はポケットに少し多めの茎わかめを入れて学校の裏手に赴いた。

 シジュウカラはいなかったけど、小戸森さんはそこにいた。彼女は前の日と同じように低い石垣に腰かけていた。こちらに気がついて浮かべたほのかな笑みは、いつもの『笑顔』とは少し印象が違うようだった……というのは僕の気のせいかもしれない。


「手、出して」

 僕がそう言うと、小戸森さんは素直に手を差しだした。

「犬のお手みたい」

「よく分かったね」

「え?」

「ごめん、こっちの話」


 僕はポケットから数枚の茎わかめを取りだして彼女の手のひらに置いた。


「園生くん、これいつも持ち歩いてるの?」

「まさか。昨日はたまたまだよ」

「だよね、茎わかめを常備している高校生なんて――」

「家にお徳用をストックしてるけど」

「んぐぅ」

 小戸森さんは弾かれたように顔を伏せた。

「す、好きなんだね」

「まあね。あ、今日はうす塩味だよ。僕はこっちのほうが好き」

「そ、そう。それは楽しみ」


 呆れたような疲れたような表情で茎わかめを口に運ぶ。そしてまた例の『味わう顔』でぽりぽりと音を鳴らす。

 僕も茎わかめの封を開けて口に放りこんだ。

 小戸森さんと一緒にぽりぽりする。同じものを食べているだけなのに、心がふわふわと浮き立つような感じがした。



 それから学校帰りは毎日、この低い石垣で小戸森さんとお菓子を食べて、少しだけ話をするのが習慣になった。

 いつも茎わかめじゃ悪いと思って、その日はべつのお菓子を持っていった。

 喜んでくれるかな、と緊張しながらお菓子を手渡す。


「これは?」

「きんつば」

「きんつば」


 小戸森さんはオウム返しに言った。前みたいに「んぐぅ」みたいな変な声はあげなかったけど、耐えるみたいに身体を震わせていた。


「もう少し、その……、洋風なものは食べないの?」

「洋風……? ハイカラってこと?」

「ハイカラ」

 小戸森さんの震えが大きくなる。

「そうだね、つぎはハイカラなものがいい」



 つぎの日、僕は言いつけのとおり洋風なお菓子を持っていった。


「手、出して」

 小戸森さんの手のひらに『からから』とお菓子を落としてやった。

「これ……」

「佐久田の缶ドロップだけど」

「……ぁぅ」

 もう片方の手で口元を押さえる小戸森さん。

「わざとではないんだよね?」

「なにが?」

「いいの、忘れて」

 僕らは並んで石垣に座り、ただ黙って口のなかでドロップを転がした。



 またつぎの日、今度は小戸森さんがお菓子を持ってきた。透明なフィルムの袋に入った、親指の先くらいの大きさの、色とりどりのお菓子。


「マルツィパンだよ」

「マルツィパン」

 今度は僕がオウム返しする番だった。

「日本では『マジパン』のほうが通りがいいかも」

「マジパン」

「まあ、マカロンみたいなものだよ」

「なるほどね」


 とは言ったものの、まったくピンと来ていなかった。自慢ではないが僕はクッキーとビスケットの違いもよく分からない。


 小戸森さんからもらったマルツィパンはねっとりとして、でもふんわりとしていて、ものすごく甘いのに、香ばしい良い香りがした。


「おいしい。お茶がほしくなるね」

「絶対に言うと思った」

 小戸森さんは鞄からお茶のペットボトルを取りだし、僕に渡した。

「お金払うよ」

「ありがとうだけでいいよ」

「ありがとう」

 小戸森さんは「うん」と返事して、もう一本のお茶を取りだし、蓋を開けた。


 ふたり同時にお茶を飲み、ふたり同時に息をつく。

 そしてぼうっと同じ空を眺めた。


「そう言えばここ、ひとが来ないね」

「垣根だから」


 僕は首を傾げた。小戸森さんはこちらを見ないまま説明する。


「垣根は境界。こちらの世界とあちらの世界の、ね。わたしたちはその上にいる。だからひとは来ない」

「ふうん……?」


 なにかの冗談だろうか? でも小戸森さんの目はすごく真剣で、そんなことを言う雰囲気ではなかった。


「園生くんに言いたいことがある」


 張りつめた声に気圧されて「う、うん」とだけ答えた。

 小戸森さんは立ちあがると、すたすたとトネリコの木に近づいていき、その後ろを通りすぎた。


「え?」

 

 僕は思わず声をあげた。

 木で一瞬だけ隠れて、つぎに姿を現したとき、小戸森さんの服装が変わっていたのだ。


 先っぽが折れ曲がった、小戸森さんには大きすぎるとんがり帽子に、くるぶしまであるローブ。そのどちらも真っ黒だ。そして手には竹ぼうきを持っている。

 彼女の顔は真剣そのものだった。


「なにに見える?」

「魔女かな」

「正解」


 小戸森さんはほうきにお尻を乗せて二メートルほど宙に浮いた。


 あまりに唐突なイリュージョンに、僕は理解が追いつかず無言になった。

 彼女は怪訝な顔になって地面に下りた。


「驚かないの?」

「前置きがなさすぎて驚く間もなかった」

 小戸森さんは「焦りすぎだったかな……?」と自問自答した。

「まあいっか。――じゃあ、わたしの目的を言うけど」

「待って待って待って」

「なにか疑問?」

「疑問しかないよ」

 僕は小戸森さんに手を突きだした。

「少し猶予がほしい」


 このセリフをこちらが言うことになろうとは思いもしなかった。

 僕が考えを巡らせているあいだも、小戸森さんはホウキに座ってぷかぷか浮いている。

 ようやく考えをまとめて、僕は言った。


「つまり、小戸森さんは魔女で、僕になにかするために正体を明かしたってこと?」


 小戸森さんはばつが悪そうな顔で頷いた。僕が長考しているあいだ、どんどんと表情が曇っていったことには気がついていた。正体を明かしてしまい、いまさら後悔したのだろうか。


「じゃあ、目的ってなに?」

「そ、園生くんを」

「僕を?」

「園生くんを……」

 小戸森さんは僕を指さして叫んだ。


「し、しもべにす……する!」


 しもべ。僕の頭がおかしくなっていないのであれば、それはあまり歓迎される類の単語ではないはずだ。


「しもべ……?」

「そう! 魔法で!」


 魔法でしもべ。それはいわゆる『使い魔』みたいなものだろうか。


「なんで?」

「え、な、なんで? なんでって……、園生くんを、じ、自由にするために」

「そんな回りくどいことしなくても、言ってくれればできることはするよ」

 小戸森さんは目を見開いた。

「え、ほんとに? じ、じゃあ」

 僕を指さす。

「わたっ、わたしに、こ、ここ……」

「?」

「こここ、告hk……」

「??」

「なにを言わせるの!」


 小戸森さんは突然キレた。


「い、いや、分からないけど……」

「これが言えるなら世話ないから!」

「すいません……」


 とりあえず謝った。


 しもべにして僕になにかをさせたいらしい。しかもそれは素の僕には言えないこと。小戸森さんの表情を見るに、すごく恥ずかしいことのようだ。

 問いただしてみてもいいのだが、またキレられそうなのでやめておく。


「じゃあ、具体的にはどうやってしもべにするの?」

「え、ぐ、具体的?」

 小戸森さんは大きな瞳をぐるりと一周させた。

「どうしてあげましょうか」

「いや、僕が聞いてるんだけど……」


 僕はひらめくものがあって「あ」と声をあげた。


「さっきのマルパン」

「マルツィパン」

「そうそれ。あれになにか、僕の心を操るような薬を入れたとか」

「あ」


 今度は小戸森さんが声をあげる番だった。


「い、いいアイデアだけど違う」

 小戸森さんは鞄からスマホをとりだしてなにやら入力した。多分、食べ物に薬的なものを混入させるアイデアをメモしたのだ。

「まだアイデアを練っている段階」

「そっか」


 頷く僕を小戸森さんはまじまじと見た。


「……怖くないの?」

「う~ん……あまり」


 多少の驚きはあったけど、怖いとは思わなかった。だってこんなにきれいでしかも頭がいいなんて、なにかをしているに違いないのだ。


 ――たとえば魔法を使っているとか。


 だから魔女であると告白されて、かえって腑に落ちたくらいだ。


 小戸森さんの頬がほんのり色づく。


「じゃあ、また会ってくれるの?」


 つぎに会ったとき、僕はきっと魔法をかけられる。そしてしもべにされる、かもしれない。

 怖くはないと言ったけど、この世のものではない力で意志を自由に操られることを歓迎しているわけではない。できれば勘弁してほしい。


 でももし断ったら。彼女との密会は、今日で終わってしまうのだろうか?


 それはなにより怖いことだと思った。


 だから僕は――。

「もちろん」

 そう答えていた。


 その瞬間、彼女の表情が歪んだ。笑うこと、泣くこと、その両方の感情を必死にせき止めているような顔だった。


 彼女はとんがり帽子で顔を隠した。


 そのまま、竹ぼうきに乗って浮かびあがる。2メートル、3メートル……、そしてトネリコの木よりも高くなる。

 でもまだ上昇は止まらない。空へと舞いあがっていく。高く高く、ぐんぐんと高度を上げて、小さな点になって――。


 ついには見えなくなってしまった。


「ええ……?」

 僕は口を半開きにして空を見あげた。

 ――大丈夫かな。成層圏とか。



 帰り道、僕の頭のなかには小戸森さんの顔ばかりが思い浮かんだ。

 正体を明かしたときの緊張した顔、しもべにすると言ったときの必死な顔、戸惑った顔、泣き笑いみたいな顔。『笑顔』じゃない、小戸森さんの顔。

 そのどれもが、僕のなかで宝物みたいにきらきらとしていた。


 そのときにもう、小戸森さんのことが好きになっていたんだと思う。


 これからも一緒に、同じ方向を向いてお茶を飲みたいって思った。

 でも、同じ方向を向くなら高さに差はないほうがいい。

 だから僕は、小戸森さんのしもべになるわけにはいかない。


”僕は明くる週の月曜日、彼女に魔法をかけられて、しもべになってしまった。”


「ん?」

 いま、僕のだけど僕のじゃない声が聞こえた。


”僕は明くる週の月曜日、彼女に魔法をかけられて、しもべになってしまった。”


 また聞こえた。

 しつこいようだが、いまのは僕の声じゃない。


”僕は明くるしゅ”


 聞こえた瞬間、僕は勢いよく振りかえった。


 すぐ側に小戸森さんが立っていた。手をメガホンの形にしている。僕のじゃない僕の声は、彼女が出していたものだった。

 彼女は切れ長の目を丸くした。


「な、なんで? 気づくわけがないのに」

 アルトの声をソプラノにして慌てふためく。

「耳元で声を出されたら、さすがに気がつくよ」

「そうじゃなくて」

 そして悔しそうに言う。


「深層心理に刷りこむ計画が……」


 小戸森さんは二歩三歩後じさると、ぐるりと方向転換して走りだした。


「え、あ、待って!」

 彼女の背中に手を伸ばし、駆けだした――その最初の一歩が、地面を踏み抜いた。

「っ!?」

 まるで地面がなくなって宇宙空間にでも放りだされたみたいに僕の身体は一回転して、


 ドン!


 と、背中から落ちた。


 あまりの衝撃に、一瞬息が止まる。

 うめき声をあげながら身体を起こし、あたりを見回した。


 薄暗いが、そこは間違いなく僕の部屋だった。コー、と電化製品が鳴らす低い音だけが聞こえてくる。

 ベッドから落っこちたらしい。僕の身体はベッドとデスクチェアのあいだに挟まっていた。


 ――夢?


 小戸森さんが空高く飛んでいったところまでは事実と同じ。

 おかしいのはそれ以降だ。僕がしもべになった事実はないし、そもそも空に飛んでいった小戸森さんがつぎの瞬間、僕の背後にいるなんて現実的じゃない。


 ――そうか。

 彼女の言った言葉。


『深層心理に刷りこむ計画が……』


 ――夢に介入されたんだ。


 おそらく彼女は夢に入りこみ、深層心理レベルで僕にしもべ根性を植えつけようとしたのだ。


 ――これを使って。


 枕カバーのチャックを開き、なかからあるものを取りだした。

 ちょうど札入れくらいの大きさの布袋。三辺が赤い糸で縫いあわせてある。ふわりとバラやラベンダーの香りがした。なかには細かく砕いたハーブが入っているらしい。


『アロマピロー。いつもお菓子をもらうお礼』


 小戸森さんはそう言って、僕にプレゼントしてくれた。

 舞いあがる僕。嬉しくないわけがない。同年代の女の子から初めてもらったプレゼントだ。

 さっそく使おうと枕カバーのなかに滑りこませたのだが、そこではたと気がついた。


 ――もしかして、これも魔法の一種なのでは。


 だから念のため、ベッドの脇に空気清浄器を引きよせて、モードを『強』にしておいたのだ。

 薄い暗闇のなか、空気清浄器がコーと音をたてている。


 ――小戸森さんの魔法、換気に弱すぎる……。


 一階の台所まで行き、野菜保存用のファスナーつきバッグを持ってきて、アロマピローを密封した。

 そして机の引き出しの奥のほうにしまい込む。

 少し考えたあと、もう一度引き出しを開けて、アロマピローを手前にした。開ければすぐに見える位置に。


 やれやれとベッドに潜りこむ。

 ――これで安心して眠れる……。


 しかしそれは甘い考えだった。

 夢に出てきた小戸森さんの声が頭のなかでリフレインする。その声は耳元でささやかれたみたいに生々しくて、心がざわざわした。

 それにアロマピローを抜いて薄まったバラの香りが、小戸森さんの桃のような匂いによく似ていて、それも僕の安眠を妨害した。


 ――これも魔法なのかな……?


 窓の外が白々とするまで、僕は幾度となく寝返りを打った。


 明け方、ようやく眠りに落ちた僕の夢のなかに小戸森さんが現れた。

 でもこれは多分、ただの夢だ。

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