高嶺の花の小戸森さんは魔法で僕をしもべにしたがる

藤井論理

第1話 念写

【ぎっくり腰】

 急性腰痛症。その病態からドイツでは『魔女の一撃』とも呼ばれる。



 教室の掃除が終わり、僕は後ろに寄せていた机を元どおりの位置にもどしていく。膝を少し折って姿勢を低くし、イスを重ねた机をそろりそろりと持ちあげる。しかるのち、背筋をぴんと伸ばしてすり足で移動し、また膝を曲げてゆっくりと下ろす。


「その能みたいな動きはなに?」


 ホウキを持った小戸森こともりさんがかたわらに立っていた。

 濡れたような光沢の長い髪を手ぐしでき、大きな切れ長の目で僕をじっと見つめる。いまさっき廊下でクラスメイトと愛想よく談笑していたのに、僕の前に立った小戸森さんの顔からは笑みが消えている。


「ぎっくり腰を用心してるんだよ」

園生そのおくんっておじさん……いえ、おじいさんっぽいよね」

「子供のころから言われてる」

「魂が成熟してるのかな。前世の記憶が残ってたりして」

「前世の記憶どころか今日の朝食も思い出せないけど」


 話しながら廊下にちらっと目を向けた。


 小戸森さんは言うまでもなく目立つ。容姿だけでなく、学業でも、人柄でも。その完全無欠なヒロインっぷりから陰で『混野まじるの高校の奇跡』と呼ばれ、男子のみならず女子からも憧れられ、敬われており、『小戸森侵すべからず』の不文律が厳然と守られていた。


 だから周りを気にした。彼女と話をするときは細心の注意を払わないと逆恨みされてしまう。

 幸い、クラスメイトの姿はすでになかった。


「そうなんだ」

 小戸森さんは「ん、ん」と小さな咳払いをしてから言った。


「毎度ばかばかしい小話をひとつ」


「ちょっと待って」

 僕はぎょっとした。

「どうしたの急に。あと『毎度』って、ふつうに初めてだよ」

「ただの決まり文句だけど」

「それは知ってるけど、いきなりだったから」

「じゃあみんなはどうやってスムーズに世間話から小話へ移行させてるの?」

「世間話に小話をはさむ高校生はレアだよ」

「そう……」

 小戸森さんはこくこくと頷いてから言った。


「『お父さん、魔法にかかるってどういうこと?』『それはな』」

「ちょっと待って」

 僕は手で制した。

「見切り発車したよね?」

「マジカル小話だよ?」

「ジャンルは知らないけど」


「『魔法にかかるってどういうこと?』『それはな、息子よ』」

「待って」

 小戸森さんはむっとした。

「なんでさっきから邪魔するの?」

「小話の内容より小戸森さんの意図が気になって」

「そんなの……小話を聞いてほしいからに決まってるでしょ」

「どうしてそんなことになったのかなって」

「どうしてって……」


 小戸森さんは目を泳がせた。そのあと、少し怒ったみたいに言う。

「マジカル小話、聞きたくないの?」

「聞きたいです」

 小戸森さんを怒らせたくない僕はすぐに折れた。


 彼女は満足そうに頷き、「ん、んん」と咳払いをして話しはじめた。

「『お父さん、魔法にかかるってどういうこと?』『それはな、息子よ』」


 そのとき「ピンポンパンポーン」と黒板の上のスピーカーが呼び出し音を鳴らした。

 ついでアナウンス。

「本田先生、お電話です。至急、職員室へお越しください。繰りかえします。本田先生、本田先生――」


 小戸森さんは『息子よ』の『よ』の口のまま固まっていた。


「ふ、ふふっ」

 その顔が可笑しくて、僕は思わず吹きだした。


 小戸森さんは面白くなさそうな顔をする。

「まだ話してないのに笑わないでほしいんだけど」

「ふふっ、ご、ごめん。聞くよ」

 そこで小戸森さんはなぜか「おや?」という顔をした。そして、

「やっぱりもういい」

 などと言いだす。


「え、待って。ちゃんと聞くから」

「もういいの。ありがとう」

「遮ってごめん。話して」

「必要なくなったから」


 ――必要なくなった……?


 妙な言い回しだな、と思ったが、それを問いただす間もなく、小戸森さんはすっきりしたような表情で、

「じゃあ」

 と手を振り、教室を出ていってしまった。


 ――またなにか仕掛けられると思ったんだけど……。

 考えすぎだったのだろうか。


 それにしても――。

 ――小話のオチ、気になるんだけど……。

 僕はもやもやとしながら教室をあとにした。



 日が傾き、橙色に染めあげられた廊下を教室に向かって歩く。


 ぼんやりとしたまま教室を出たせいで机の中にペンケースを忘れた。しかしせっかく一階まで下りたのにそのままとんぼ返りするのは癪だったので、途中にある図書室で時間を潰していたのだ。


 ただ、潰しすぎた。お陰でこの時間というわけである。


 しかし、とても充実した時間を過ごすことができた。小脇には読みきれなかった『日本茶のすべてがわかる』だとか『茶の湯の心理学』といったタイトルの本を抱えている。


 僕はほくほくしながら教室のドアを開けた。


 真っ黒なローブをまとった小戸森さんが、顔を上げてこちらを見た。


 彼女は窓側から二列目の最後尾の席――つまり僕の席の前に立っていた。机の上には二本のロウソクと香炉、水筒のカップ。そして紙に描かれた五芒星――ペンタクルの上には、スマホがスタンドに立てられて置いてある。


 香炉から、ぷんとハーブの匂いが香っていた。


 しばらく固まっていた僕は、ゆっくりと教室のドアを閉めた。

 間もなく、そのドアが内側からゆっくりと開いた。そこには小戸森さんの顔があった。


「弁解くらいさせてよ」

「とりあえず入ろうか」

 小戸森さんは僕に道を譲る。僕は教室に足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉めた。

「じゃあ、弁解を聞くよ」

「儀式をしてたの。園生くんを呪おうと思って」

「二言目ですでに弁解失敗してない?」

「弁解はここから」

「ええ……? 盛りかえせる? ここから」


 小戸森さんは祭壇のスマホを突きだして画面を見せた。

「さっきそこに立って話をしたでしょ? だからスマホに時間遡行の魔法をかけて、そのときの園生くんの写真を撮ろうとして……そして」

「そして?」


「その写真を使って、わたしの『しもべ』になる呪いをかけるつもりだったの」


 ――やっぱりか。

 僕は額に手を当てた。


 小戸森さんは魔女である。そして、僕をしもべにしたがっている。


 ――結局、弁解になってないし……。

 しかしネタが割れたからといって気を抜くことはできない。僕は絶対にしもべになるわけにはいかないのだ。


 なぜなら――。

 ――彼女のことを好きになってしまったから。

 しもべと恋人は両立しない。

 だから彼女の魔法に全力で抗わなければならない。


「それにしても、なんでいまさら? 魔法なんて使わなくても写真を撮るチャンスなんていくらでもあったよね」

「だって笑顔の写真が欲しかったから」


「え?」


 いま一瞬、すごく嬉しいことを言われた気がした。

 喜ぶ僕の反応を見て、小戸森さんは「ふふ~ん」としたり顔をした。


「なにか勘違いした? 笑っているほうが心に隙ができるから呪いにかかりやすい、それだけ」

「だ、だよね……」


 僕のことをしもべではなく、恋人の候補として見直してくれたのかと期待した。

 そんなわけはないのだ。「あなたをしもべにする!」と宣言して数週間、彼女はほぼ毎日なにかしら仕掛けてきた。粘り強く、根気よく。簡単に心変わりするわけがない。


 しかし彼女はその宣言のあとにこうも言った。

「一年以内にしもべにできなかったらあきらめる」

 つまり高校一年生のあいだ耐えきれば、彼女は僕のしもべ化を断念するのだ。


 僕はその日を迎えたら、小戸森さんに告白をしようと決めている。

 だからその日まで絶対に、彼女の魔法に屈するわけにはいかないのだ。


「んぐ」

 変な声が聞こえて僕は顔をあげた。 

 小戸森さんが顔だけ後ろに振り向けていた。

 耳が赤いし、ぷるぷるしている。


「ど、どうしたの小戸森さん」

「なんでもない」

 正面に向き直る。落ち着き払った表情だった。ただ、耳は赤いままだ。

「あなたの落ちこんでる顔が可愛――カワウソに似てたから少し笑ったの」

「それちょくちょく言うけど、僕そんなにカワウソに似てる?」

「え、ええ、そっくり」

「ふうん……」


 ――小戸森さんにしか言われたことないんだけど。


「ところでなんでちょっとどもったの?」

「自分の語彙力のなさに驚いただけ」

 と、豊かな黒髪を指に巻きつけてくるくるした。


 僕は祭壇のスマホに目をやった。

「ところで魔法はうまくいった?」

 小戸森さんは表情を曇らせ、ゆるゆると首を振った。


「時間遡行の魔法は高度なの。魔女本人の力量だけでなく、場所や時間、果ては季節まで、条件が整わないと難しい。――だから、見て」

 スマホを差しだし画面を見せた。

「これじゃあ呪えない」


 画面には、身体が半透明で輪郭も薄らぼんやりとした僕らしき人間の姿が写っている。それだけでなく、白っぽいもや(人間の顔に見える)や、窓から伸びる無数の白い腕、蝶の羽が生えた小さな人間が飛んでいる姿などが写りこんでいた。あと、僕の首から上がない。


「これすでに呪われてない?」


「魔法が不出来で『向こう』とつながってしまっただけ。顔のようなものは力のない浮遊霊だし、窓の腕は明るい青春を送れず学校生活に未練があるひとたちの生き霊だし、妖精はただ遊びに来ただけ。四月はもともと人間の世界とあちらの世界のベールが薄くなる時期だから。――首がないのはよく分からないけど」

「よく分からないのが一番怖いんだけど……」

 僕はぶるりと震えた。

「嘘でーす。単に時間遡行が不完全だっただけ」

「なんで嘘ついたの」

「冗談を言ったの。さあ、笑って」

 小戸森さんはスマホのカメラを僕に向けた。


「いや、笑わないけど……」

「なんで? 笑いは『緊張と緩和である』と関西の噺家さんが言ってた。恐怖で緊張させて、しかるのち種明かしをして緩和させた。それで笑わないなんて、園生くんは噺家さんに恥をかかせるの?」

「どっちかって言うと、スベって恥かいたのは小戸森さんだけど」

「わたしは一度もスベったことがない」

「ポジティブ」


 完全無欠のヒロインに見えて、欠点が多いのも彼女の魅力だと僕は思っている。冗談が下手なのもそうだし、それに――。


 僕は教室に視線を巡らせた。

 換気扇が回り、香炉からたつ香りを吸いこんでいる。時間遡行がうまくいかなかった原因はおそらくこれだ。


 ――魔女なのに、魔法で失敗するところも。


 小戸森さんは大きくため息をついたあと、祭壇を片付けはじめた。カップの水を香炉にそそいで消火し、ロウソクを吹き消して、ペンタクルと一緒に持参したレジ袋のなかに放りこむ。

 ただ黙々と片付けているだけだ。なのにそのうつむき加減の顔が、どこかしょげているようにも見える。


 なんだか胸が締めつけられるような気持ちになった。


 小戸森さんが机に置いたスマホを僕は掠めとった。

 フロントカメラに切りかえて、彼女に顔を寄せると、有無を言わせる間も与えずシャッターボタンをタップした。


 カシャ、と偽物のシャッター音が鳴った。


 写真を確認する。

「ううん……」

 怒り顔をしたつもりだったが、とっさだったのでむしろ変顔という趣きだった。その隣では小戸森さんが大きな目をさらに大きくさせて僕を見つめている。


 ――まあ、これなら大丈夫か。ふたりで写ってるし。


「はい」

 と、スマホを差しだした。

「突然なにするの」

 スマホを奪うようにとって、小戸森さんは言った。

「その顔なら呪うことはできないでしょ?」

 彼女は形のいい眉をひそめ、スマホの画面に目を落とした。


 小戸森さんはしばらく画面に見入っていた。そのあと、写真を拡大して僕の顔を大写しにし、つぎに小戸森さん自身の顔に移動して、最後に縮小してふたりを枠に収めた。

 その動作に、この世のものではないものがまた写りこんだのかと思って僕も改めて注視するが、写真におかしなところはない。


 僕は小戸森さんの顔に視線を移した。


 小戸森さんは写真をじっと見つめ、嬉しそうに顔をほころばせていた。


 僕にだけ愛想笑いをしない小戸森さんの、本当の笑顔。


 ぽかんとした。ただただ、その柔らかい表情に目が釘づけになった。

 ――まずい。

 僕は表情を必死に引き締めた。心にできた隙を悟られないように。


 小戸森さんははっとしたように顔を上げて僕を見た。なにかを言おうと口を開きかけたが、言葉は出てこない。決まり悪げに顔をそむけて鞄を引っつかむと、

「か、帰る!」

 そう言い捨てて教室を駆け出た。


 ぴしゃりとドアが閉められる。

「ぶはっ」

 僕は詰めていた息を一気に吐き出す。


 胸が苦しくてうずくまった。身体がほてる。心臓が激しくダンスする。腰が砕けて立ちあがれない。


 まさに『魔女の一撃』だった。


 ――このタイミングで魔法をかけられたらやばかったな……。


 心に隙ができている、どころの話ではない。完全に心を奪われてしまっていた。


 はあ、と嘆息して、ふらふらと立ちあがる。

 ――あの写真、もらえないかな……?

 かぶりを振る。

「まあ、無理だな」


 僕は月を歩くみたいなふわふわとした足どりで帰途についた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る