大好きなひと

 疲れ果てて眠っている沙羅を起こさないよう気をつけて、アリスはベッドから抜け出した。

 カッパクリーンセンターにいたころに使っていた携帯端末が振動している。「詰め所」に置いたまま出ていったのに、いつの間にか沙羅が回収してアリスに返却していた。

 防除班の情報を盗み見るのには確かに適していた。アリスはそこから入ってくる情報をもとに沙羅と懲罰に出向き、幾度か防除班と対峙した。

 だが今の長い間続く振動は、そうした暗号文になった情報の受信ゆえんのものではない。持っている間も、ほとんど使うことのなかった機能――スマートフォンに偽装したこの端末の、最もそれらしい用途だ。

 耳にあてると、それで通話状態になった。

「一人か」

「沙羅が近くにいますけど――寝てますよ」

 音声通話の向こうの笠井は頷くように息を吸い、ただひとこと告げた。

「こっちにこられるか」

 それで通話は切れた。

 アリスは手早く身支度をすませる。いつも念入りに施す化粧もなしに、バイクに跨って小林の元店舗兼住宅へと走りだした。

 沙羅から話を聞かされても、アリスには半分も理解できなかった。沙羅はきっとその心中で幾重にも考えを巡らせ、それを必死に言葉としてアリスに伝えたのだろうが、アリスに沙羅の言葉は強すぎる。理解を拒んでしまっている部分も、きっとあったと思う。

 ただ一つ、はっきりと理解できたことはある。

 トオノを殺す。

 沙羅の手で、直接、あの擬態準位デミの河童を血祭に上げる。

 それが沙羅が必ず達せねばならないことであり、これから先もアリスとともにいるための方法。

 理解はできた。覚悟などとうに決まっていた。

 だけどなぜ、アリスはあの河童をあそこまで忌み嫌ったのか。

 その答えもまた、アリスの中にあった。

 トオノは沙羅と同じ目をしていた。

 アリスを――アリスという人間をまっすぐに見る、虚飾に惑わされない、偽りのない目を。

 怖かったのだ。

 自分がトオノにまで、心を開いてしまうことが。

 アリスには沙羅しかいない。そう信じ、そのために行動し、背負いきれない罪まで背負った。

 なのに、アリスと同じ目をして自分にすり寄ってくる河童に、アリスは揺さぶられてしまった。それがわかったから、それを絶対に認めないために、トオノを忌み、毛嫌いをして、懲罰ではなく暴力を振るった。

 トオノはそれでもなお、アリスにすり寄ってきた。

 苛立った。この上なく苛立たしかった。自分がその献身の真似事に靡いてしまう予感があったから。

 トオノにぶつけるのは常に嫌悪でなくてはならなかった。だがアリスは何度もトオノに守られ、時に自らの判断でトオノを助けた。

 服を買ってやったのも、トオノをより人間らしく擬態させるために――自分を見ているのはヒトなのだと安堵するために。あるいはトオノの献身に感謝するという意図もあったのかもしれない。

 あの時、沙羅に出くわさなかったら。

 いま考えても恐ろしい。アリスはきっとトオノをどんどん人間へと近づけていっただろう。自分の理解者として、トオノを置いておくことを選ぶようになったかもしれない。

 沙羅がアリスを正気に戻してくれた。アリスは怒りに任せてトオノを殴った。その怒りは結局、自分自身に向いたものだった。

 そこまで――トオノに気を許していた。どれだけ嫌悪の態度を取ろうと、都合よく自分にすり寄ってくる子供の姿をしたものに、アリスはすっかり魅入られていた。

 トオノもまた、アリスの心境を理解していた。それを人間の言語と態度で出力するだけの擬態ができていなかったが、ただアリスに付き従うことで示し続ける。

 当たり前だ。トオノは沙羅から溢れでた可能性なのだから。

 アリスは本当は、時々怖くなっていた。

 沙羅は、確かに自分を愛してくれているのか。沙羅はアリスへの愛を言葉や態度で直接示すことがまるでなかった。身体を重ねることはあっても、直接の感情表現はおざなりだった。

 だから、どこまでも無垢に自分へ親愛を向けてくれるトオノに、アリスは間違いなく居心地のよさを覚えていた。沙羅への想いがある以上、絶対に苛立ちで塗り潰さなければならない感情だったが、トオノの窮地を救ってしまうくらいには充足感があった。

 沙羅がアリスに直接ぶつけることのなかったものが、トオノに表層化している。トオノはアリスの欲していた沙羅の映し絵そのものだった。

 だから、トオノは殺さなくてはならない。

 沙羅により強く、アリスを愛してもらうために。

 頭では理解できる。けどアリスはきっと、トオノを前にすれば、その決意を固めることはできない。

 知ってしまったから。理解してしまったから。トオノもまた、アリスを間違いなく愛していると。

 それがオリジナルである沙羅から奪った感情だとはわかっている。トオノが擬態準位デミの河童であり、人間を模倣してこちらに付け入ってくることも。

 だけど、それもまた、間違いなく沙羅からの愛なのだと、アリスは痛感していた。

 沙羅が意図したものではない。むしろ沙羅は憎悪するはずの自分の可能性の流出である。それがいびつな形成体を成したのが、トオノなのだ。

 トオノを殺すことは、沙羅のアリスへの感情を破棄することになってはしまわないか。それ以上に、アリスへと確かな感情を向けているトオノを、見殺しにしてしまえるのか。

 わかっている。こんな考えを起こすこと自体が、沙羅への重大な裏切りだ。

 防除班の詰め所の前にバイクを止め、なんの合図もなく中へ踏み込む。

「アリス!」

 満面の笑みで、アリスの買ってやった服を着たトオノが駆け寄ってくる。

「アリス、アリス。やっと帰ってきてくれた」

 腰のあたりにぎゅっと抱きついてくる河童を、アリスは突き飛ばすことができなかった。

「きたか」

 店舗のカウンターでグラスを傾けていた笠井が、重苦しく息を吐く。

「なんの用っすか」

 前置きもなしに、アリスは問い詰める。沙羅の執事同然の仕事をしていたこの男が、沙羅の話していたことをどこまで知っているのか。

「お嬢様にCCCドライバーを手放すよう、説得をしてほしい」

「ハッ」

 吐き捨てる。この期に及んで話すことがそれなのかという失望。

「兵頭、お前はどこまで知っている」

「全部っすよ」

 たぶん、嘘になる。沙羅はきっと、まだアリスに話していないことを山ほど抱えている。それでもアリスは自分が沙羅のただ一人の理解者だと虚勢を張らなければならない。

「そうか。俺はなにも知らなかった」

 トオノが〈ディスク〉について防除班に語ったのは間違いない。沙羅がなにを成そうとしているのかも、この男や岸ならばすぐに理解が及んだはずだ。

 今こうして悄然とテーブルに寄りかかっている笠井はだから、己の無力さと無知を呪っている。笠井が沙羅に心から仕えていることなど見ていればわかる。主人の覚悟と、そのための方策を知り、笠井はどうしようもなくなっている。

「お嬢様はもうすぐ亡くなる。そう思って――割り切っていたのだがな。俺はお嬢様にも、同じ割り切りを期待していたのかもしれん。我ながら酷い話だが」

「じゃあ、沙羅を助けることに協力してくれるんすか」

「無理だ」

 笠井ははっきりと断言する。

「カッパクリーンセンター防除班班長として――俺は従業員を食わせていかなければならない。お嬢様は、全ての河童の〈ディスク〉を回収するつもりなのだろう」

 無言で微動だにしないアリスを見て、首肯と受け取る。

「それを行われた場合、カッパクリーンセンターは倒産し、カッパ製薬のこれ以上の技術革新も見込めなくなる。俺は――それを見過ごせないくらいにはいろいろと背負いこんでしまっている」

 カッパ製薬本社からカッパクリーンセンターに出向してきた、菅原の家で個人的に雇われているほどの信頼を勝ち得たこの男。一体いかほどの重責を抱えているのか――アリスにはとても推し量れない。

 だが、もはや彼が個人的な感情で動くことが不可能なほどにまで、社会性の糸で雁字搦めにされていることは確かだ。

 その上で、アリスをこの場に呼びだした。ただの愚痴を吐くためではあるまい。

「俺たち防除班はお嬢様と対立することになる。俺がそう方針を打ち出した。だが――兵頭、元同僚としてお前に頼みたい。お嬢様を、救ってやってはくれないか」

「駄目だよ」

 アリスの腰のあたりで、無邪気な声が上がった。

「アリスはわたしがもらう。お姉ちゃんはいらない。そうでしょう?」

 アリスは言葉を発さなかった。普段ならば黙れと突き飛ばすはずが、トオノの言葉がいやに耳に残る。

「すまない……トオノは、もう俺たちの手に余る。明確な自我と、極めて高度な知性を持っている。ただ唯一、お前を欲しているという点だけが握っていられる手綱だ。俺たちで本社に移送しようとしたんだが抵抗されてな。お前を呼んだのは、トオノを本社まで移送してほしい、というのが本当のところだ」

「いいっすよ。好都合だし」

 アリスはトオノを抱き上げて店を出た。バイクの後ろに座らせて、すぐさま走りだす。

 無論、本社に移送などするはずがない。

 トオノが沙羅の妹――カッパ製薬の求めていた「河童の子供」だということが明らかになれば、研究のリソースのほとんどがトオノの解析に移るだろう。すなわち、検体としての沙羅の価値がまるでなくなってしまうことを意味する。

 沙羅がCCCドライバーを使って実験に己の身を差し出しているのは、その実験を行う価値があると判断されているからだ。だがトオノという本来の成果物が登場すれば、沙羅に対する実験が打ち切られることも充分にあり得る。

 沙羅が生きるための方策が閉じられる。それだけではない。沙羅のいまの目的である「トオノを殺す」という行為を完全に封じられてしまう恐れさえある。カッパ製薬にとってはトオノこそが本来求めていた検体なのだから、それを失敗作の沙羅が殺害することを認めるはずがない。

 だから、その事実がカッパ製薬に伝わるより早く、沙羅の目的を達させる。

 アリスはトオノを沙羅の前に引っ立てていこうとしていた。

「お姉ちゃんじゃ、今のわたしには勝てないよ」

 アリスの背中に抱きついたトオノが、くすくすと笑いながら言い放つ。

「いいの? アリス。お姉ちゃん、今度はわたしに殺されちゃうよ」

 こいつは――アリスは全身に悪寒が走るのを止められなかった。アリスの行動を完全に読んでいる。いや、走っている道がカッパ製薬に向かうものではないので読み取られても不思議ではなかったが、それでもこれだけの知性と余裕は予測していなかった。

 すっと、背筋をなぞられた。アリスはびくりと身体を震わせ、脊髄が凍えるようなその感覚を自分の身体に教えた沙羅の幻影を見てしまう。

「ガッ――」

 脊髄を直接触られたような激痛。アリスは視界が回転していくのを感じながら、なんとかバイクを急停止させて路肩に転がる。

「なん――だ。なにしやがっ――」

 嘔吐。嘔吐。嘔吐。胃の中身を全て出してもなお吐き気が止まらない。

「大丈夫だよ、アリス」

 意識が混濁を始める。トオノの声がまるで自分の発したもののように頭の中で反響し続ける。

「わたしはアリスがほしい」

 トオノと同じように、自分の口が動いていることに気付く。

「でも、もしわたしが消えたら」

「アリスがわたしになって」

ディスク〉を打ち込まれた。散り散りになっていく思考の中で、アリスはなんとかその事実を受け止める。

 引き抜かなければ――だが巧妙にも、自分では手が届かない位置を狙って、〈ディスク〉は打ち込まれていた。

 いやだ――助けて、沙羅――

 吐瀉物の中に倒れたアリスを、トオノがいつまでも見下ろしていた。

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