Control + *

「おはよう、お姉ちゃん」

 一人のベッドで目を覚ますと、笑顔のトオノが私を見下ろしていた。

「ええ、おはよう。トオノ」

 私は余裕を乱すことなく、そう挨拶をして身を起こす。昨日あれだけアリスに泣き言をぶちまけたのだから、ここにきて平静を保つことなど造作もない。

「アリスはどこ?」

 昨夜ベッドから抜け出していったことには気付いていた。それでも引きとめなかったのは、自分の情けない姿をあまりに見せすぎたという悔恨が強かったからだ。これ以上アリスに縋ったら、逆にアリスが離れていってしまいそうで、怖かった。

 トオノはにこにこと笑いながらも答えない。

 私が苛立って立ち上がろうとすると、トオノはなにかに気付いたかのように声を上げた。

「あっ、きたきた。もうすぐこっちにくるよ」

 トオノの言動に不審を覚えていると、寝室のドアが開いて部屋着姿のアリスが入ってきた。

「おはよう、アリス」

「ああ」

 トオノの挨拶に生気のない返事をして、アリスは絶望に染まった目で私を見た。

「アリス……?」

 私は思わず身を乗り出して、アリスを抱きとめようとした。だがアリスはそれを忌避するように身を引き、小さく叫ぶ。

「くるな」

 言葉もなく、その場で硬直する。困惑――推測――その先の激昂――全てを飲み下し、私は努めて落ち着いて、パジャマを脱いで普段着に着替え始めた。

「さあ、見せて。アリス」

 顔を逸らしたまま声を立てず泣いているアリスに、私は近寄らずにそう声をかける。

 アリスは背中をこちらに向けて、トップスを捲り上げた。背中の一部が筋が入ったように変色している。

 怒りに震えだしそうになるのを奥歯を食いしばりながらこらえ、私はトオノに視線を向ける。

「アリスはわたしが好き」

 幸せそうに顔をほころばせ、トオノが妄言を漏らす。

 この河童をどれだけ痛めつければ私の心は落ち着きを取り戻すだろうか。もはやそんな段階ではなくなっていることを理解しつつ、以前にトオノを自分の手で懲罰した時の異様な興奮を思い出す。私は私を懲罰していたのだ。自慰と自傷が一緒になれば、それは最高の娯楽に相違ない。

「すぐに赤松さんに診せましょう。トオノのことも、きちんと伝えないと」

「駄目だ」

 アリスが後ろを向いたまま強く拒絶する。

「それじゃあ、沙羅が――」

 ああ、そうだった。あなたは愚かなまでに優しい人だった。

 トオノが私の妹であることを明かせば、私が廃棄されるとアリスは危惧している。

 その可能性は――高い。カッパ製薬のそもそもの実験がなにを目指していたのかはまだ掴めていないが、私よりも今のトオノのほうが魅力的な検体であることは疑いようがない。

ディスク〉を宿した「河童の子供」であり。

 自己複製する〈ディスク〉をも取り込み、学習した擬態準位デミ

 でもね、アリス。

「あなたのことが第一よ。あなたがいない未来に、私は行きたくなんてない」

 アリスは虚を突かれたように目を白黒させ、私を見返してくる。

 そう、私は今まで、アリスにはっきりと口に出して伝えてこなかった。私の想いを。愛情を。渇望を。

 その結果、トオノはここまで肥大化した。私が内にため込んだ情念を吸い上げ、アリスへの執着という形を擬態の骨組みとするまでに。

 だから、もう隠さない。

「私はアリスと一緒に未来を勝ち取る。アリスがいない未来を得ても、それは私の敗北。完勝しなければ、意味がないでしょう」

「沙羅――」

「トオノも、本社についてきなさい。あなたはきっと大いに歓迎されるわ」

「いいよ。カッパ製薬がわたしにどんなことをするのか、おもしろそう。ね、お姉ちゃん」

「そうね」

 電話で本社の人間の運転する車を呼び出し、それに乗ってカッパ製薬本社と併設する中央研究所へと向かう。

 車を降り、いやに清潔感と高級感の溢れたエントランスを抜けて長い廊下を突き進み、いつもトオノを懲罰していた一室へと入る。

 中では厳重な防護服を着用した赤松が、カストに入った手術器具を弄っていた。

「手早くすませましょう。脱いでください」

 挨拶も抜きにそう言って、アリスに問題の箇所を見せるように迫る。義務感というよりは、単なる好奇心で動いているようだった。

 アリスはトップスを脱いでブラジャーも外し、赤松に背中を診せる。

「駄目ですね」

 一瞥して、赤松はそう断言した。

「完全に癒着しきってます。これを引き抜くにはもう、脊髄ごとぶっこ抜かないとならない。それでもいいならやらせてもらいますが」

 アリスは慌てて服を着る。

 では、次の手立てを。

「赤松さん、トオノのことなんですが」

 そうして私は自分が至った結論を、時間をかけて赤松に話した。赤松はずっと無言のまま表情も変えずに私の話を聞き終えると、なるほど、とこれまでの壮絶な話を鼻で笑うかのように軽く頷いた。

「興味深いですね。じっくり調べても?」

「ええ。でも、最後には私の手で」

 そこで赤松は怪訝そうに眉を顰めた。私にはもはや実験を続ける価値もない――そうこちらも納得していると思っていたらしい。

 まだ生きあがくのかと、不思議そうに私を見る赤松。

 その通りだと、私は強く赤松を睨み返した。

「わかりました。お嬢様はこれまで通りにCCCドライバーを用いればよろしい。現状、〈コープス〉と〈カース〉の基礎スペックは逆転しています。もっと〈ディスク〉を回収しなければ、〈コープス〉には勝てません」

「ありがとう」

 トオノを赤松に預け、私はアリスと並んでエントランスへと出た。すぐに送迎の車がくると連絡が入るが、力が抜けて私はいくつか置かれているソファの一つに座り込んだ。

「沙羅」

 アリスがソファに腰を下ろした私を、じっと見下ろしていた。

「ごめん、一緒には、帰れない」

 きっと目を上げ、懇願するようにアリスを見上げる。うつむいたアリスの目の奥には、どこまでも深い絶望が溜まっていた。

「あたし、このままだと、河童になっちまう」

「そんなことはさせない」

「違うんだ。あたしは、トオノと同じにされちまう。いや、今ももう、トオノの声がずっと頭の中で響いてる。気ぃ抜くと、考えもなにもかも、トオノの思い通りになっちまうんじゃないかって……怖い」

「だから――」

「だから、沙羅と一緒にはいられない。もしあたしがトオノに乗っ取られちまったら、たぶん真っ先に沙羅を襲うことになる。現に今も、声が――クソっ……」

 怒りがちりちりと肌を焼いていく感覚。だがそんな情念も、私は御しきることができる。魂の底が抜けている私には、それが可能なのだ。

「あたしはトオノの近くにいないと駄目だ。互いに監視して、あたしが河童にならねーように。トオノが妙な気を起こさねーように」

 私はソファに完全に身体を預けて伸ばしきり、真上を見上げる。

「アリス」

 手を伸ばす。頬に触れ、そのまま首を回り込んで、引き寄せる。

 上下に、向きは互い違いになって、私はアリスと見つめ合う。

「――悪ぃ」

 アリスはそう言ったまま、距離を詰めてこようとしない。車が到着した気配を感じて、私はするりとソファから起き上がり、エントランスのドアへと向かう。

 どうすればいい。

 アリスを取り戻すために。

 アリスと一緒に生きていくために。

 私は答えを出せなかった。だからアリスの拒絶を受け入れてしまった。

 自己複製する〈ディスク〉。私とアリスが生み出した狂気の産物。それを取り込んだトオノは、さっそく〈ディスク〉をアリスに打ち込んだ。

 今のアリスにはトオノのバックアップファイルが仕込まれている。それはトオノが消滅すれば速やかに展開され、アリスという存在を呑み込んで河童へと変えてしまうだろう。

 トオノを殺さなければ私の未来はない。

 アリスがいなければ私の未来に意味はない。

 両立させるための方策は、未だ思いつかない。

 焦燥と狼狽で叫びだしそうになるのを、涼しい顔をしてやり過ごす。結局私も虚勢を張っているだけでしかない。

 翌日、カッパ製薬中央研究所が壊滅したとの一報が入った。

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