河童の子供

「妹……?」

 アリスは私が胸の中で告げた事実を、咀嚼できずにいるように聞き返した。私はアリスの背中をかき抱きながら、その胸に頬を寄せる。

 怖かった。

 アリスがトオノのもとに行ってしまうのではないかと、怖くて仕方がなかった。

「ええ」

 見上げる形の私の呼気が首筋にかかり、アリスはぞわりと身体を少し浮かせる。

「私の母の話は覚えている?」

 頷くアリス。

 母は美しい人だった。

 私は母と、生涯一度しか会話を成立させていない。母は私を産むと同時に正気を失い、以降人間らしいコミュニケーションを取ること自体が不可能になっていた。菅原の本家にあった病室――すなわち座敷牢に繋がれ、残る一生をそこで過ごすこととなった。

 アリスと出会って一年が過ぎたころ、母がまもなく死ぬだろうと医師の診断が出た。

 誰もがほっと胸を撫で下ろした。やっと厄介払いができると口に出す者はいなかったが皆心中は同じだった。

 ――サラ?

 書斎に用があって座敷牢の前を通った私に、聞き覚えのない声が投げかけられた。果たしてそれが本当に私への言葉であったのか、今になってはわからない。

 私が座敷牢の中へ目を凝らすと、布団の上に正座している美しい女が目に入った。

 ――ああ、あなたなのね。私の可愛い子。ああ忌まわしい。あなたはとても可愛い子。

 人間の言葉を話していることに驚いた。母はろくに言葉すら発することのできない状態だったはずだ。医師か笠井あたりを呼ぶべきか迷っている私に、母は穏やかに語り始めた。

 自分が河童に凌辱された様を。

 ――そうしてあなたは生まれたの。可愛い私の子。忌まわしい化け物。呪詛の血塊――。

 母はそれからしばらく、人間のものではない言葉で私を罵り続けた。意味は皆目わからなかったが、罵倒であることははっきりとわかった。

 ――でもいいの。私にはあの子がいるわ。可愛い私の子。忌まわしい化け物。流れゆく死体――。

 それ以上、母は人間の言葉を話すことはなかった。

 翌日、母は死んだ。

「母はどうやら、自分にはもう一人子供がいると思い込んでいた。考えること全てが妄想の人の妄想に付き合うなんて馬鹿らしいのはわかっていたけれど、私にはどうしてもそのことが気にかかっていたの」

 母の葬儀の翌日、私は赤松にただこう言った。

 ――隠しているものを見せなさい。

 赤松は一本のUSBメモリを私に投げ渡した。

 中には動画ファイルが入っていた。映像の撮影形式から、これがカッパ製薬による記録映像だとすぐに理解できた。

 白いベッドに、美しい女が全裸で寝転がされていた。腹は大きく膨れており、中に胎児がいることがわかる。

 動かないが、眠っているわけではない。

 固定されている。頑丈な器具を用いて、女はベッドの上に磔にされているのだ。

 不自然な角度まで、股を広げられて。

 イヤホンで聞いている音声にノイズが走る。

 ――女サラ。

 生臭さが漂ってきそうな声。

 ぺたぺたと水に濡れたような音を上げながら、人間の姿を取っているものの、体色が緑の擬態準位デミの河童がにやけ面でカメラの前に出てきて、女に覆いかぶさる。

 あとは、母が語った通りだった。

 河童が立ち去ったあともカメラは回り続け、やがて破水が起こり、分娩台と化したベッドの周りに医師たちが集まってきた。

 取り上げられた赤子を見て、母はけたけたと笑った。

 ――サラ。

 ――サラ。

 ――サラ。

 その赤子が菅原沙羅なのだと、私は絶叫しながら理解した。

「なんだよ――それ――」

 絶句するアリスを、私は強く抱きしめる。アリスにこのことを話せば、こうして激憤することはわかっていた。だから今まで話さなかった。カッパ製薬――その子会社のカッパクリーンセンターに余計な不信感を抱いたままその組織の中で懲罰を行うことに、きっとアリスは耐えられない。そこまで頑丈な精神を持っていたのなら、私に引きずり落とされたりはしない。

「映像はそれで終わっていた。私は、河童に引きずり出された子供なの」

 カッパ製薬がなにを考えていたのかは知らない。わかっているのは、臨月の女を擬態準位デミの河童に犯させ、早産を誘発させたこと。そうして生まれたのが私なのだということ。

 だが、〈ディスク〉以前の河童という存在を考慮すれば、それがいかなる意味を持つのか推察することはできる。

 そもそも河童は概念である。それが形成体を成し、現世に影響を及ぼす行動を起こしている。

 あの擬態準位デミに行わせたのは、強姦という概念を母体に植えつけることではなかったのか。

 無論、形成体を成している以上、実際に強姦は行われた。私はその様を母から聞かされ、この目で記録映像を見ている。

 だがそれ以上に、「河童が女を強姦した」という概念を強烈に想起させることこそが目的に思えてならない。

 河童に強姦された女の説話は各地に残っている。その結果生まれた「河童の子供」を殺して埋めたというものもまた存在する。

 異常な出産や奇形児を河童の仕業だとすることで、それを処理する際の言い逃れとする――現代ではこうした見方をされることも多いが、もし、本当に河童によって孕まされた子供が存在するのなら。

 カッパ製薬はそうして、二重の実験を行ったのだ。

 河童が女を強姦するという原因。

 女が異常な子供を出産するという結果。

 この両方を、より精度を高めるために、捻じ曲げる。

 妊婦を概念形成体を保持した河童に犯させる。ここに二つの可能性を託す。

 河童が女を強姦するという原因。

 この概念を直接植えつけられた母は無事正気を失った。そしてそれは、腹の中の胎児にもまた植えつけられた。

 結果、母は私を産んだ。

 私が異常であれば、ここに女が異常な子供を出産するという結果が果たされる。

 確かにそれは成功したと言えるだろう。生まれた私には未来がなかった。

 私は「河童の子供」としてこの世に引きずり出された。これが一つの可能性。先ほどまでの私は、ここまでしか考えが及ばなかった。いや、考えることがどうしてもできなかった。

 もう一つは、自然の成り行き。

 河童に犯された女が、河童の子供を孕むという、経過。

 生理的に不可能であろうと、河童は概念である。河童に犯されたという原因を作ってやれば、その結果は実を結ぶ。

 私は〈ディスク〉を宿してはいなかった。だからカッパ製薬の定義する河童には当てはまらない――河童の子供ではないと、言えてしまう。

 カッパ製薬が本当にほしがったのは、私ではない。母の中にいた私の全てを奪い、〈ディスク〉という可能性をその身に宿した、概念形成体としての――私の妹。

「それが――トオノなのか」

「そうよ。私に与えられるはずだった未来を簒奪し、私という個体が得られる可能性を全て吸い上げて肥え太った河童。私の半身。私の妹」

 魂の底が抜けているような感覚――それは当たり前だった。私の中に流れ込んだものは垂直に、トオノへと流れ落ちてしまうからだ。

 トオノが今ようやく擬態準位デミにまで遷移して私たちの前に現れたのは――私の中にそれだけ可能性が流れ込んだということ。私が未来へ行ける目途が立ち始めたタイミングで――トオノは私から直接奪うために姿を現した。

 まずはCCCドライバーを。

 そして、私の生きる意味――私が初めて恋した人を。

「でも、一つ確かなことがあるわ」

 トオノを、殺す。

 それもただ殺すだけでは駄目だ。懲罰し、〈ディスク〉を全て排出させたあとで、CCCドライバーを使って河童そのものをこの身に吸収する。

 

 私がそう言うと、アリスはぎゅっと眉根を寄せた。

 酷い――あまりに酷い。

 アリスは優しい人だ。私の甘言に乗せられてしまうほど、無垢で、純粋だ。

 だからアリスはもう、自分に詰め寄ってきたトオノを完全に排除してしまえるまでに割り切ることができなくなっている。

 トオノはそこに付け込んでいる。私と同じように。

 わかるよ。お前は私なのだから。だからアリスがほしいというその言葉も、きっと本物なのだろう。

 でも、だからこそ、私は一歩も引けない。

 愛した人をやすやすと渡すわけにはいかない。

 それだけは絶対に譲れない、私の矜持なのだから。

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