私と未来と尻子玉

 私には初めから未来がなかった。

 なぜか、それだけはなによりもはっきりと理解できた。私がなにを学ぼうと、どんな行動を取ろうと、確かなものを得ようと、全ては私の上をなぞるだけで、すぐにどこかへとこぼれ落ちていってしまう。魂の底に大穴が空いてしまっているような感覚は、常に私に付きまとった。

 だから私が二十歳までしか生きられないと告げられた時も、驚愕よりむしろ、そうだろうなという納得のほうが勝った。

 初めから未来を失った私は、それになんの感慨も抱かなかった。赤松トネから実験の申し出を受けた時も、どうせすぐ死体になるこの身体なのだから、好きなように使ってくれて構わないと身を差し出した。

 CCCドライバーは別に私の延命のために開発されたわけではない。河童と人間。その二つを効率よく利用し、否定するためのデバイスだ。

 こんな俗信がある。

 尻子玉を抜かれた人間は腑抜けになってしまう。

 河童――カッパ製薬の呼称する河童は、尻子玉を抜く。

 形成準位フォーマ以下の河童、すなわち形成体を構築できない状態であろうと、河童はその場にいる人間から尻子玉を抜いていく。

 人間を殺すことも、目に見える変化を起こさせることもなく、腑抜けにしてしまう。

 たとえば、その人間がいつか味わうことになる感動。

 たとえば、その人間が将来達成することのできる偉業。

 たとえば、その人間が今後ほかの人間に与えることのできる外的要因。

 それらの未来――可能性を、因果の端緒を、河童は抜き取ってしまう。

 そうして無数の人間から奪い取った、いつか具現化するはずだった可能性を情報化した結晶が〈ディスク〉。そこには当然、現時点では未知の情報が詰まっている。

 だけどそれは結局、いつか人間が自力でたどり着くことができたはずだった結果でしかない。

 ただ現在で一歩でも優位に立ちたいがために、未来を収奪する。カッパ製薬が行っているのは、現在の栄華のための、未来の否定だった。

 私は未来を否定する尖兵として徴用された。未来のない私に、それはまさしく適任だと笑った。

ディスク〉の内容を一点に集中させる。そのための器として、私は都合がよかった。無論、観測がしやすいという意味でだ。未来のある人間に過剰な未来を与えても、その可視化は難しい。一方私が命をつなぐことができたのなら、それは間違いなく〈ディスク〉の力によるものだと立証できる。

 ところが、実際に河童を懲罰してみると、話が変わってきた。

 河童を懲罰し、〈ディスク〉を引き抜いてみると、これが本当に楽しかった。あまりに楽しすぎて、最初は怖くなったほどだ。

 河童を殴り、蹴り、縛り上げ、吊るし上げ、腕を切断する。ただそれだけの行為に、私の身体が、魂が喜びに打ち震えた。

 最初はわけがわからなかった。なぜあんな怪物をいたぶるのがここまで楽しいのだろう。私はその疑問を誰にも話さなかった。自分の手に余るとわかってはいても、これは私の極めて個人的な性癖に違いなかったからだ。

 そんな時に、彼女と出会った。

 見鬼のサンプルは少ない。彼らは皆巧妙に存在を隠し、あるいはそのための共同体まで作って、自分たちの気配を消している。

 だが学校でひときわ異彩を放っている彼女を見鬼だと結論づけることは、不思議なほど容易かった。

 行動、言動、素行、そういった挙動に加えて、来歴を洗うと驚くほど簡単に見鬼であると判明した。

 どうしようかと私は教室の中でじっと彼女を見続けていた。

 彼女は全てに嫌気が差していた。破滅的、刹那的、虚無的――そうやって、自分を飾りつけていた。

 だけど彼女は本当の意味でそれらを体現することはできない。できはしない。

 未来しかないからだ。どうあがいても、彼女には避けられない未来がやってくる。それが破滅だろうと、未来は未来だ。彼女にはそれを自分で摘み取る力がある。

 結局、それはたいていの人間に対して同じことが言える。未来が断絶することが確定している者よりも、未来を避けられない者のほうが多いだけの話だ。

 理解はしていた。なのに私の視線は彼女にばかり向いてしまっていた。

 ただの苛立ちが理由なのだと、かなり時間を経てから得心した。腹が立って仕方がなかったのだ。

 彼女は虚飾の塊だ。虚ろなものを見るだけだった彼女自身が、虚ろなお人形へとなり果てている。

 じゃあなぜ、あなたは生きているの――私は心の中で何度も彼女にそう問いかけた。どうせ答えられやしないと嘲笑しているうちに、私はその問いが自分にも突き刺さっていることに気付いた。

 じゃあなぜ、私はまだ死んでいないの――当然のように、私もまた答えられやしない。

 嘲笑は全て自嘲と慚愧となって私に返ってきた。私は彼女を見るたび、自分自身から嘲笑を浴びせられ続ける様に陥った。

 憂さ晴らしのために、河童を懲罰した。その楽しさだけは一向に変わらず、私を喜ばせた。

 そして私は気付いた。これこそまさに、破滅的、刹那的、虚無的な愉悦ではないかと。

 私は嘲っていた相手に嘲り返されている。それはそのまま、私が彼女を侮蔑していた要素が、綺麗に私に跳ね返ってくるからだ。

 私は彼女を見ていたのではなかった。私は話したこともない相手に、勝手に自分自身を投影してひとり遊びに興じていたのだ。

 彼女が体現できない汚濁を、私は見事に体現していた。泥沼に腰まで浸かっている己を自覚すると、途端に私は心細さで凍えてしまいそうになった。

 私が持ってしまったものを、彼女はまだ持たないままで虚ろな世界に生きている。

 おかしいな。私はなにも持たず、彼女はいくらでも持っていたとばかり思っていたのに。

 いつの間にか――いや最初から、私の考えはそっくり反転されていた。

 羨ましかった。妬ましかった。ここから救い出してほしかった。

 そしてあの日、私は彼女に声をかけた。

 彼女とほんの少し言葉を交わしただけで、私は大いに満たされた。抜けたはずの底が塞がったように、私の中に彼女が溢れていくのがわかった。

 こんなにも、簡単なことだったのか。一人で勝手に思い描いていた彼女は、時に私の期待通りに、あるいは全く予測のつかない言葉を私にくれた。想像の中の藁人形でしかなかった彼女が、私と人間として語らっている。

 ――私は、あなたがほしい。

 ならば私は彼女の未来を奪おう。そして――私はその未来へと向かいたくて仕様がなくなっていった。

 ここにきて、私は自分を呪った。己に振るいかかった呪いを憎悪した。

 私は未来へ行く。彼女と二人で。そのためならばどんな悪逆をも起こそう。

 生きたいと、私を生かし続けてくれと、CCCドライバー開発班に頼み込んだ。下げたことのない頭まで下げた。

 赤松は無感動に、可能である――と方法を列挙してみせた。その中には赤松自身の研究目的の、あまりに非人道的であるがゆえに凍結された項目も多くあった。赤松は私に全ての罪を被せ、自分の研究欲を満たそうとしているだけだとはすぐにわかった。だが私はなにも言わず、それらを実行に移した。

 クラスを一つ皆殺しにして、直挿しの実験と自己複製する〈ディスク〉の作成を行ったのが、CCCドライバーローンチ前の最後にして最悪の工程であった。

 私は彼女をその暗黒へと引きずり落とした。ともに飛び込んだのではない。私は最初から奈落の底に蠢く芋虫でしかなかった。

 彼女には未来があった。私はその未来を、丁寧に丁寧に、一本ずつ手折っていったのだ。

 一緒にいたいと。

 ともに生きたいと。

 嫌いにならないでほしいと。

 讒言を重ね、彼女を私のもとに引きとめようと謀略を働かせた。

 なんとも醜悪なものだ。だけど初めから未来を与えられなかった私があがく無様さに比べれば可愛らしいものだろう。

 だからお願い、どこにも行かないで。

 兵頭アリス。

 私が愛した、ただ一人のひと

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