MP
沙羅の髪をドライヤーで乾かすアリスの髪を、沙羅がタオルで丁寧に拭く。
全てが満ち足りていた。つい先日まで一丁前に悩む真似事に興じていたのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
沙羅の家――菅原の本家ではなく沙羅のためだけに建てられたという二階建ての一軒家に二人で暮らし始めて一週間が経った。
防除班と連絡はとっていない。置きっぱなしにしてきたスマートフォンはいつの間にか沙羅が持ってきた。おそらく笠井あたりに取ってこさせたのだろうが、もはやどうでもいいことだった。
沙羅と一緒に暮らし。
沙羅と一緒に河童を懲罰する。
アリスにはそれで充分だった。ほかにはなにも要らない。考える必要も悩む必要もない。
玄関のチャイムが鳴り、アリスは思わず舌打ちをする。まだ沙羅の髪は乾ききっていない。
「出てくんね」
アリスはそう言って、チャイムが鳴ってもアリスの髪を拭くことをやめる気配すら見せない沙羅の手からタオルを奪って玄関に向かう。
「兵頭アリスさん。お嬢様のメンテナンスに伺いました。入ってもよろしいか?」
玄関にいたのは一目で新品とわかる白衣を着た中年の女だった。丸い顔には脂肪がついていないのに深い皺が刻まれ、あちこちにシミ――ではなく薬品による火傷の痕が浮かびあがっている。
予想通りの来客にアリスは安堵の息を吐き、部屋に上がるように促す。
「あら、
「ああ、目が覚めたのがいつもより一時間早かったからですね」
赤松トネ。カッパ製薬におけるCCCドライバー開発部門のトップ。沙羅がまず最初に抱き込んだ技術者であり、その公算が最も高かった――狂人である。
「室温が高い」
赤松は勝手知ったるとばかりにエアコンの設定温度を下げると、無表情のまま沙羅に服を脱ぐように言って器具の入った鞄を掻き回し始めた。
沙羅の身体を触診し、数本の注射と採血をすると、沙羅のほうから〈
「三体目の非定向編集体です」
「〈カース〉の戦闘能力は良好と。ではCCCドライバーを」
沙羅はCCCドライバーを取り出し、腰に回して〈
途端に沙羅の呼吸、脈拍、体温が乱れ始める。赤松は特別な器具を用いることなく沙羅の身体に次々に触れてその異状を検知していく。
「やはり非定向編集体は負荷が大きいようで。
「十七枚だ」
息も苦しそうな沙羅に代わってアリスが答える。
「少ない。焦る気持ちはわからんでもないですが、いきなり
「RTAに、バグ技は付き物でしょう?」
「否定はしませんが。残り一年を切ってますから、急いだほうがいいのも事実ですし。まあ」
人間をやめるなら同じことですが――赤松は無感動にそう言った。
沙羅の検診を終えた赤松を玄関まで見送るアリスに、赤松は興味のなさそうな視線を向けた。
「なにが聞きたいんですか」
「えっ――」
「あなたが私を見送ることはこれまでのメンテナンスの際に一度もなかったからね。私に聞きたいことがあるのでしょう。まあ、私もあなたがお嬢様からどこまで話を聞かされているのか知らんから、どこまで話していいのかわからん部分が大きいので面倒なんですが」
「ああ、沙羅のことなら大丈夫だ。全部知ってる」
「となると、非定向編集体ですか」
頷く。
河童でありながら河童からかけ離れた姿を形成する
「河童は準位が遷移していく過程で、河童に近づこうとするんです」
「なんでだと思います?」
「は? そりゃ、河童だからだろ」
「そうですね。河童という像に自身を定義するのが一番楽だからです。河童だから」
なにをわけのわからないことを言っているのか――アリスはとっくに発狂しているであろう赤松の目を覗き込まないように注意しながら続きを促す。
「しかしまあ、河童はどん詰まりなのですね。いくら河童に近づこうとしても、河童は河童。即、懲罰。そこでこのどん詰まりを回避しようと、別のミームに鞍替えしようとして総じて失敗したのが、非定向編集体と我々が呼称するものですね。逆に言えば、普通に出てくる河童は定向編集体と呼べるわけです」
「失敗作ってわけか……?」
「バグだね。たとえばこれに見覚えがあるでしょう」
赤松はスマートフォンを操作して画面をアリスに向けた。
頭の角が糸切り鋏になった山羊――横には筆文字で「チョキチョキ」と書いてある。スワイプ。女の頭がついただけのサソリ。同じく筆文字で「チクリ」。
「世間一般には定着していない、だが鮮烈なイメージの残る図像や伝承。そうした悪性とか潜性とでも言うべきミームに活路を見出そうとして、結局どん詰まりになったのが非定向編集体です。河童も河童で必死なんじゃないかね。河童と定義されれば懲罰は避けられない。だから別のミームを奪ってまで自身を編集する。極めて限定されたミーム上に発生したがゆえに起こる突然変異。これはおそらく他のMPには見られない――おっと」
急に火が消えたように言葉を切り、赤松はそのまま踵を返して玄関を出ていった。
「赤松さんの話、よくわからなかったでしょう」
あれだけの間立ち話をしていたのだから、沙羅が気付かないはずがなかった。別段アリスを責めることもなく、負荷による怠さに負けてソファに横になったまま声をかけてくる。
「沙羅はわかんの?」
「いいえ、全然」
自嘲でなく笑うと、上体を起こそうとする。アリスはそんな沙羅の横に腰を下ろし、寝てろと自分の膝を差し出す。
「私には、河童のことと、懲罰のことだけがわかっていればいい」
「ああ」
エアコンの風で乾いてしまった沙羅の髪を撫でながら、アリスはなにも考えずに沙羅の顔を見つめ続けた。
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