〈C****〉

 行き場などどこにもなかった。帰る家も早々になくした。沙羅のためになるならばと、家族すら売り払った。

 アリスには沙羅しかいない。そうでなければ、今日までの歩みが全て無意味と化し、耐えきれない罪過となってのしかかってくる。

 違う。沙羅の存在を言い訳に使っていいはずがない。

 これはアリスが選んだことなのだから。全ての罪はアリスと沙羅に、等しく降り注ぐ。それを恐れ、あろうことか沙羅以外の者に付け込まれそうになるなど――あってはならない。

 目の裏が熱い。

 はっとしてアリスは周囲に目を走らせる。近場の水場――立ち並ぶ家屋の中には無数にあるだろう。だがいま目に入るのは、町を流れる河川。

 ――ちょき

 いとけないようでいて、その実凶悪な音。刃物と刃物を無邪気にすり合わせる、耳障りでないことが不気味な快音。

 ――ちょきちょき

 海抜がぐっと低くなる河川敷の下から、それは鋭い刃先を見せていた。

 鋏――古い糸切り鋏が、そのまま乗っかっているかのごとき――角。

 巨大な鋏の角を持った山羊。そこに、河童の特徴が見てとれる。山羊の背中に甲羅、毛羽立った顔には嘴、角の裏には〈ディスク〉。

 四本の足の下には、無残にも胴体を真っ二つに切断された人間の死体が転がっている。その山羊――河童は、草を食むようにその死体を貪っていた。

捕食準位イーター……!」

 それも以前に〈コープス〉が苦戦した、変異体と思われる河童から大きく逸脱した姿。

 防除班に連絡を取るべきだ――それまでの憤懣も忘れて、アリスはまず冷静にそう判断した。だが激昂して店を飛び出したアリスは、あろうことか私用のスマートフォンも連絡用端末も置いてきてしまっていた。

 かつて捕食準位イーターを懲罰した時は沙羅が一緒だった。二人の完璧なコンビネーションをもってしても死を覚悟したほどの難敵。その変異体――どうあってもアリス一人では手に負えない。

 気付かれないうちに逃げるしかない。アリスは足元の食事に夢中な河童に気取られないようにゆっくりと後退していく。

 ――ちょきちょき

 無意識に動いているかのような鋏の音が酷くよく響く。

 ――ちょきちょき

 河童が頭を上げる。ただの食事中の警戒。慌ててはならない。

 ――ちょき

 鋏が合わさったまま、動きを止めた。

 アリスは一気に駆け出す。瞬間、アリスの喉元を鋏の刃先が掠めた。

 硬直したアリスを見下ろすように、河童は振り下ろした頭をもたげる。遠目で見ていたよりもはるかに巨大な体躯だった。

 最悪だ。河童は最初からアリスに気付いていた。観察していたのは向こうのほうだった。

 武器もない。ステゴロで操作準位ソーサーとやり合ったこともあるが、捕食準位イーター相手では話にならないだろう。

「やっと見つけた。非定向編集体」

「え――」

「え?」

 河童越しに視線を交わす。

「アリス! 危ない!」

 沙羅はそう叫んで、なりふり構わずこちらに突っ込んでくる。

 河童の鋏は再び弧を描き、アリスの首に向けて振り下ろされんとしていた。

「ナメんなよ」

 アリスは身体を沈めて、河童の巨躯の下に滑り込む。そのまま足をすり抜けて背後に回り、挨拶代わりに尻に一発蹴りを入れてやる。

 そうだ――沙羅が、沙羅さえいれば、アリスはいくらでも無敵になれる。

「アリス! こっち!」

 沙羅の位置は見なくともわかる。アリスが行動を起こした時点で、その意図を理解し、次の位置取りも完璧に把握している。そして相手は捕食準位イーター。沙羅は必ず――アリスの手を取る。

 手を伸ばして、沙羅の腕の中に飛び込む。距離をとった二人に、河童はまた鋏を鳴らした。

 実際にこうして二人で合わされば、なにも言わずともお互いの考えを理解できる。なのになぜアリスはああもうじうじ悩んでいた。いざ沙羅と二人になれば、それがどれだけ簡単なことかすぐにわかってしまうというのに。

 アリスは笑っていた。久しぶりに。腹の底から。

「アリス、楽しい?」

 沙羅も顔をほころばせながらアリスの身体を抱きしめる。

「ああ、やっぱ最高だ。あたしにはお前しかいない」

「ええ。じゃあ、見てて」

 優しくアリスから離れ、沙羅はジュラルミンケースの中からそれを取り出す。

 腰に巻き、中央をタップ。

 ――CCC DRIVER

 CCCドライバーのベルト部分に提げてある〈ディスク〉の束の中から一枚を抜き取り、挿入。

 ――DISC SAUCER

 トレイを押し込み、〈ディスク〉を読み込む駆動音が鳴り響く。

 ――CAPPA

 沙羅の全身を這うように、概念形成体の枠組みが展開。

「――川立ち男」

 声に応じて駆動音がエンジンを吹かしたように唸り、どんどんアイドリング音の間隔が狭まっていく。

 ――CHOBATSU

 最終確認。沙羅はすっと右腕を振るい、

「氏は――菅原!」

 ドライバーをタップする。

 真っ白な閃光が走った。それに燃やされたように、足元には白い炎のようなものが散っている。

 純白の外殻。最初の構築された全身を走るフレームは対となるように黒く、それが一層そのおぞましいまでの白さを際立たせる。

 全身に巻きつくように金色の装飾品のような装甲が表出していく。頭部にも兜のように黄金の装甲が浮き上がる。その下に陥没したように隠れた目は漆黒。だが爛々とした輝きは艶やかな光を感じさせる。

 ――CURSE

「輝く未来を――奪われて。この世を呪う。河童懲罰士。識別コード――〈カース〉」

 沙羅が――〈カース〉が、恍惚と名乗りを上げる。〈ディスク〉の展開、装甲としての構築によって装着者の精神は多大な昂奮を迎える。野獣のように吼えるトオノと違い、沙羅はこうして、朗々と口上を奏する。

「その〈ディスク〉、私に還しなさい」

 〈カース〉はゆっくりと、河童に向かって進み始めた。

 一歩、一歩、変質した自分の肉体の感覚を確認するように。

 対する河童は大きく頭の鋏を振り乱し、〈カース〉に向かって突進を始める。

 ――CHAIN

 〈ディスク〉を挿入してドライバーをタップ。〈カース〉の全身に巻きついた黄金の装飾の一部が鎖へと形を変えて河童の身体を縛り上げる。

 〈カース〉その鎖を確かめるように数度握ると、ふわりと自分のもとに手繰り寄せる。

 それだけで河童の巨躯は宙を舞った。

 〈カース〉は自分の手元に飛んできた河童の山羊の頭を掴むと、そのまま地面に叩きつける。

 ――CAGE

 河童の身体に巻きついていた鎖が勢いを増し、全身をくまなく這い回り籠のように河童を拘束する。

 ――ちょき

 鋏が力強く合わさり、頭部だけは拘束を免れる。

 逃げ出そうと持ちあがった頭から生える鋏の刃を、〈カース〉は両手で片方ずつ掴み、みちみちと音を上げさせながら外側に広げていく。

 がくん、と決定的ななにかが外れる。雄々しく聳え立っていた角は今や、情けなく顔の横に垂れ下がっていた。

 〈カース〉はそれを労わるように脳天に踵落としを撃ち込むと、〈ディスク〉をCCCドライバーに挿入し、タップする。

 ――CORONA

 〈カース〉の全身が真っ白に発光し、瞬間、凄まじい熱波が吹き上がる。

 足元の河童は完全に蒸発し、〈ディスク〉が一枚転がっていた。

 ――EJECT

 ドライバーから〈ディスク〉が排出され、沙羅が人間の姿へと戻る。

「やった――やったんだな、沙羅!」

 アリスは満面の笑みで沙羅へと駆け寄る。沙羅は初めてのCCCドライバーの使用の負荷で少しふらつくが、すぐさまアリスが肩を支えた。

「ええ。でも、ここからよ」

 トオノの使用していたCCCドライバーの試作機からフィードバックし、完成した沙羅のためのCCCドライバー。これで、ようやく、沙羅は未来を己の手で勝ち取るための力を手に入れた。

「全ての〈ディスク〉を」

 アリスは地面に落ちたままの先ほどの捕食準位イーターが排出した〈ディスク〉を拾い上げ、沙羅の腰に手を回してCCCドライバーにゆっくりと挿入する。

「んっ――」

「沙羅のものにする、だろ?」

 CCCドライバーから直接〈ディスク〉を読み込み、人間の処理能力の限界に近づいて熱を持っている沙羅の身体を、アリスは優しく受け止めていた。

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