捕食準位非定向編集体

 アリスは廃ビルの屋上で、じっと地上を俯瞰していた。

 これがなにかの役に立つかといえば、役には立たない。よくて気休め。悪ければ――目の裏が焦げるような感覚に、アリスは思わず目を閉じた。

 アリスは「視える」人間だった。カッパ製薬は独自に河童の検知システムを開発しているが、それでも現地で喫緊の接敵が行われる場合は、「生もの」のほうが取り回しやすい。

 河童は常時実体化しているわけではない。形成体を構築せずに水場から水場へと移動し、行動を起こす段になって実体化する。外回り――カッパクリーンセンター営業部というカバーを与えられた河童探査班は、この実体化した状態をカッパ製薬のシステムで検知する。

 対するアリスは、形成体を構築する以前の河童でもその存在を察知することができる。とはいえもそれは実際に河童と接近している時に限られる。営業部のようにこの町全体という広範囲を常にモニターすることはどうやっても無理だ。

 捕食準位イーターの追い込み漁開始から五日。アリスたち防除班はこの廃ビルを拠点にじっと営業部からの情報を待ち続けていた。

 アリスは河童がこの場所に近づいたら瞬時に動けるよう、近辺へと目を向け続けていた。無論、こんな広範囲を常に集中しながら見続けるなど初めてであったし、そのセンサーに河童が引っかかる保証もない。

「アリス。目」

 閉じたままでもまだ熱を持っている目を押さえてうずくまったアリスに、トオノが駆け寄る。

「無理しないで。アリスが見ていても、河童は見つからない」

「っるせぇ」

 見えないまま手を払う。

 ぬるりとした触感に、思わず身体が硬直した。

「アリス、そこは――」

 皿だ。トオノの頭の皿にアリスの手が意図せずに乗っていた。

 叩き割ってやろうか――ふとそんなことを思って、掌が汗ばむ。

 沙羅はトオノの行動を許し、CCCドライバーのテスターとして使うことに決めた。

 だが、アリスはそう簡単に割り切れない。

 CCCドライバーは最後の希望。たとえ試作機でも、それを河童ごときに渡してしまうことに、アリスは我慢ならなかった。

 どうせなら、あたしをテスターにすりゃよかったんだ。それを、こんな河童に奪われて――。

「兵頭さーん、トオノちゃーん、ごはんでき――」

 屋上に上がってきた小林が、二人の姿を見て呼びかけを途中で切る。

「あー、大丈夫っす。昼めしはなんすか?」

 アリスは素早く手を引っ込め、じんわりと熱を持った目を見開いて小林のもとへ駆け寄る。

 手に張りついた粘液のような感触をズボンで拭い去り、屋上を出ようとした瞬間、目から火花が散ったような痛みが走る。

「んだ――これ」

「アリス。近い。捕食準位イーター

 ――CCC DRIVER

 トオノは沙羅からもらったお手製の手提げ袋に入ったCCCドライバーを取り出して腰に巻く。

「目が――クソっ! 小林サン、みんなに懲罰態勢に入るように言ってきて!」

「わかった!」

 小林は階段を三段飛ばしで駆け下りていく。

「浄眼の処理能力をオーバーするだけの概念形成量。非定向編集体。危険性極めて高。アリス、離れないで」

「なに言って――」

 肉が引き千切られるような音。トオノが自分の〈ディスク〉を引き抜き、CCCドライバーに挿入したのだ。

 ――DISC SAUCER

 トレイ部分を押し込む。

 ――CAPPA

「川立ち男」

 ――CHOBATSU

「氏は菅原」

 ――CORPSE

 アリスがやっと目を開けると、赤い河童懲罰士〈コープス〉が、アリスを守るように低く唸っていた。

 不快な金属音。ガラスが次々に割れていく音。それがどんどんこちらへと近づいてくる――いや、登ってきている。

 ビルの外壁から屋上へと身を乗り出したのは、巨大な怪物だった。

 頭部は確かにアリスたちの知る河童のもの。女性らしき顔面に、皿と嘴がくっついている。

 だが問題はそれ以外の全てだった。その頭部以外は、サソリとしか形容のしようのない滅茶苦茶な形状をしている。ハサミのついた腕。六本の脚部。獰猛に揺れる尻尾の先には鋭い毒針。

「なんだよこの雑コラ感……」

 いつの間にか屋上に上がってきていた北村が、引きつった笑みとともにそうこぼす。

 岸が素早く発砲。だがサソリの甲殻に改造エアガンの銃弾は簡単に弾かれた。

 トオノが大きく跳躍し、頭部の皿を狙って鉤爪を振り下ろす。

 だが空中で、大きく振るわれたハサミによって身体を吹き飛ばされる。

 サソリ――河童はぎちぎちと音を立てながら、アリスに向かって突進を始めた。

「兵頭さん!」

 小林が叫びながらエアガンを撃ち込む。が、やはり甲殻に弾かれ、動きを止めることすらできない。

 ――CUTTER

 耳障りな金属音とともに、河童の足の一本が切断される。

「アリスに、触れるな」

「お前――」

 トオノ――〈コープス〉は右腕の装甲がそのまま伸び、硬質化した刃で、河童の身体を次々と切り裂いていく。

 だが銃弾をも弾く河童の甲殻である。三本の足と左のハサミを叩き切ったころには、もう刃は刃こぼれだらけで使い物にならなくなっていた。

 トオノは右腕を大きく振り上げると、左手でCCCドライバーをタップする。

 ――CRASH

 音声とともにボロボロの刃を振り下ろすと、河童の身体にぶつかった瞬間に炸裂する。

 河童の身体中に、炸裂したトオノの刃の破片による穴が開いていた。

 対するトオノは右腕に全く力が入らないのか、右半身を不自然なまでにまっすぐ真下に垂らしている。

 金属をこすり合わせたような唸り声を上げ、河童が残った右のハサミを滅茶苦茶に振り回す。

 我を失っている――が、〈ディスク〉は排出されていない。やはり形だけでも手順を踏まなければ、懲罰をなしたことにはならない。

 だが、そのためのCCCドライバー。

「トオノ!」

 アリスは声とともに防護服に裏に隠し持っておいた〈ディスク〉をトオノに向かって投げる。トオノはそれを左手でキャッチし、そのままCCCドライバーに挿入した。

 ――CURE

 トオノの右半身が膨張し、一度弾け飛んだのちにもと通り再生する。

 その生々しくてらつく右腕を、トオノは暴れ回る河童の胴体の下に押し込む。

 ――CRASH

 再び炸裂。今度はトオノの右腕全てが、跡形もなく吹き飛んだ。

 そしてその榴弾の直撃を食らった河童は、もはや原型をとどめていない。トオノは襤褸切れのようになった河童の唯一河童らしかった頭部を見つけ出すと、それを貪り始める。

 河童の頭を〈ディスク〉ごと嚥下すると、吹き飛んだ右腕が見る間に再生していく。

 ――EJECT

ディスク〉を排出して擬態準位デミの姿に戻ったトオノは、大きくげっぷをする。

「お前っ――」

 アリスは勢いよくトオノへと詰め寄る。その小さな身体を見下ろし、凄まじい剣幕で威圧する。

「どうしたの、アリス」

「あんな――」

 言いかけて、アリスははっと口を噤む。

 アリスの渡した治癒の〈ディスク〉を使ってすぐに、同じ自爆攻撃を行った。いくらなんでも自分の損傷を念頭に置いていないにもほどがある。

 確かに〈ディスク〉を取り込めばあの程度の損傷など即座に回復――している。だが――アリスはその先を言葉にすることがどうにも忌まわしく、頭を振るって必死に思考を振り払う。

 この河童を、心配した? あたしが? 沙羅からCCCドライバーを奪ったような奴を?

「ごめんなさい、アリス」

 トオノは急に悄然と目を伏せた。

「もっと、人間っぽくする。がんばるから。人間の挙動の機微をトレースできるようになったから」

「河童がっ――」

 また言いかけて、今度は言葉にならずにアリスは背を向けた。

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