河童懲罰指南

 小さい頃から時々、変なものを見た。

 ほかの人には見えないらしいそれらはおそらく――

「河童が」

 兵頭アリスは河川敷に横たわるそれを思いきり蹴り上げ、川へとシュートした。

 自分がほかの人間と見える世界が違うと知ったのは、随分と遅くなってからだった。

 確か、中学に進学した頃。それまでと同じような態度で過ごしていると、それだけで周囲から人が去っていった。

 なぜだろうとアリスは首を傾げた。なにも変わったところなどないではないか。虚空に向かって話しているだとか、いきなり振り返ってげんこつを宙に振り下ろすだとか、そんなはずはないのに。

 アリスは確かに誰かと話していたし、しつこく付きまとってくる誰かに鉄拳制裁を食らわしていた。

 それが奇行に映るというのなら、見ている連中がおかしいだけだとアリスは気にも留めなかった。

 小学校の六年間、一学年五十人程度しかいなかった同級生たちが、アリスの態度を平然と受け流していただけだったと、あとになって知った。曰く、いちいち注意するのに誰もが疲れ果ててしまったのだという。アリスは「そういうもの」として、丁重に扱われていたらしかった。

 なるほど。アリスは得心した。そのほうがどちらも過ごしやすいのなら、それに越したことはない。

 ならば、。アリスは自分たちの住む市内はおろか、県内ですら目にする機会のない姿へと化けた。

 一度この姿になってしまえば、あとはすこぶる楽だった。誰もアリスに近寄ろうとはしない。興味本位程度の勇気を出す者もいない。アリスは誰からも必要とされない存在へと自らを塗り潰した。

 幸い中高ともに校則は緩かったので、教師から咎められることもなかった。むしろ教師たちのほうがアリスに物怖じしていたようにさえ思う。

 高校からは授業もあまり受けなくなっていった。「そういうもの」だと自ら誇示しているので、向こうも勝手に諦めてくれる。出席日数だけは稼がないといけないと思いつつ、学校からは足が遠のく一方だった。

「なにを蹴ったの?」

 いきなり隣から声がして、アリスはぎょっと半分飛び上がった。

 アリスと同じ高校の制服を規則通りにぴったりと着た女子生徒だった。アリスは自分たちの制服のスカート丈を膝より下にしている生徒など初めて見る。だがなぜか野暮ったくは見えず、むしろ眩いばかりに美しく見えた。目鼻立ちが恐ろしく整っているから――だけではない。その所作のいちいちが、完璧に統率されたかのように美しいのだ。

「河童」

 近寄るな、という警告のつもりだった。まさかこんな言葉を真に受ける人間がいるはずもない。たとえそれが、真実だったとしても。

「どこ?」

 だが彼女は、ぐいと身を乗り出した。

「視認はできない。ということは形成準位フォーマ以下? それとも形成体を維持できていない? まさか、伝承河童?」

 彼女はそのまま、アリスの目をまじまじと覗き込んできた。

「すごい。あなた、視えるのね」

 わけがわからなかった。

 アリスはまず第一に警戒線を張った。すなわちこの外見である。これでまず、ほとんどの人間はアリスの視界から消えてくれる。

 それを乗り越えるような者がいたとしても、アリスは根本的にほかの人間と違う。頭のおかしい奴だと思わせてしまえば、それでとっとと消え失せてくれる。幸運にも、アリスが見たそのままを述べれば、演技も誇張も必要ない。

 だのに、この女はなんだ。

 アリスの警戒線になど目に入らないかのように、ずけずけと土足でこちらに踏み込んでくる。

 違う――アリスは相手の目に宿る火を見てしまった。

 この女は、アリスしか見ていない。

 けばけばしく己の身を守るための鎧も、他人と位相がずれてしまった認識も、まるで目に入っていない。

 見ているのはただ、ここにいるアリスそのもの。

 ただそれだけだ。なにも難しいことではないはずだった。だけどアリスは最初から理解を拒まれていたし、理解を求めることも必要としなかった。「そういうもの」だと全て割り切って、自ら「そういうもの」であることをよしとした。

 だから兵頭アリスという人間を見つけてくれたのは、菅原沙羅が初めてだった。

 耳障りな呻き声が上がり、湿ったものが地面を這う音が近づいてくる。

「なんだよ、あれ――」

 アリスは川から上がってくる異形を見て顔を顰める。

 なめくじのような身体の上に、甲羅が乗っかっている。よく見れば這うための運動には、身体の下から伸びた無数の水かきが用いられており、身体の横についた嘴が時々開いてあの呻き声を出していた。

「あら、見るのは初めて? 河童よ。私たちが呼称するところの、ね。あの形状なら形成準位フォーマよね。ちょうどいいわ、一緒にきて」

 沙羅は笑みを浮かべながら河川敷を下っていき、川から上がって蠕動する異形へと躊躇いなく近づいていく。

「待てよ! それ、どう見ても河童じゃねえし!」

 アリスが警戒して呼び止めようとするも、沙羅は大丈夫と大きく手を振って進んでいってしまう。

 悪態を吐いて、アリスは駆け足で沙羅のあとを追う。

「じゃあ、懲罰を始めましょう」

 沙羅はまず、ローファーで思いきり異形を踏みつけた。同じような呻き声を上げて、全身を震わせる。

「ねえ、なにか金属持ってない?」

 一歩引いたところで怖々様子を見ているアリスに、沙羅は笑顔で訊ねてきた。

 アリスが溜まっていたプリントを渡された時に使われていた針金クリップを抜き取ると、沙羅は礼を言ってそれを一本の針金へと形を整える。そしてそれを、深々と異形の身体に突き刺した。

 耳鳴りのような悲鳴を上げ、異形の頭頂部からなにかが吐き出される。

「これが〈ディスク〉。河童の説話って聞いたことある?」

 ないと答えるより早く、沙羅は話を続ける。

「河童が悪さをして、それを人間が懲らしめる。すると河童は反省して、人間に自分たちの秘術を教えて解放してもらう。中でも、河童の秘薬というのは実際に宣伝文句に使われることがあったくらいメジャーな要素なの」

「それが?」

「そう。この中には人類にとって未知の技術につながる情報が詰まっている。河童を懲罰し、〈ディスク〉を回収。中のデータを読み込んでそれを返却する。この手順を踏むことで全く新しい製薬技術を開発しているのが、カッパ製薬。私の父の会社よ」

 カッパ製薬。もとをたどれば江戸時代にまで行きつくというその会社は、近年急速に成長してきていた。この町はちょうどアリスが生まれたころからカッパ製薬の企業城下町として発展し、町の中では必ず傘下であることを示す「皿のマーク」を見かける。

 ――皿のマークのカッパ製薬です。

 その宣伝文句を聞かずにこの町で生きることは不可能だ。

「んなこと話していいのかよお嬢様? あたしが吹いてイメージがた落ちにでもなったら笑えねえんじゃね?」

「大丈夫よ。兵頭アリスさん。あなたの言葉を信じる人間なんて、いないもの」

 アリスは乾いた笑みで威圧する。

「下調べずみってワケ? なにが目的だよ、お嬢様」

「川立ち男、氏は菅原」

 アリスの脅しなど気にも留めず、沙羅は見栄を切りながらそう奏じた。

「沙羅よ。笑えるでしょう? 皿のマークのカッパ製薬の令嬢が『サラ』なんて」

 アリスは笑わなかった。この女にいっときも隙を見せてはならないと、アリスの目は焦げそうになるまで沙羅を凝視し続ける。

「あなたに、私と一緒に河童を懲罰してほしい」

 皿は鞄の中から読み込み機を取り出すと、素早く〈ディスク〉を挿入し、数秒で排出されたそれを足元の河童と呼んでいるものへと投げ入れた。

「〈ディスク〉の技術はまだ発展途上。今はまだこうして突発的に河童と遭遇したらその都度懲罰して、ちまちま〈ディスク〉の回収をしているけど、やがては河童懲罰専門のチームを作って組織的に〈ディスク〉の回収を行う予定なの。もちろん、桁外れな報酬を餌にして面子を揃えることになるでしょう」

「金でお前につけと?」

「いいえ。私とあなたは先遣隊といったところかしら。様子見、テスター、被検体。謝礼くらいは出るでしょうけど、アルバイトのほうが割がいいでしょうね」

「だったら――」

「ねえ、知ってる?」

 沙羅は足元のそれを思いきり蹴り上げ、川へとシュートした。

 声を上げて笑っていた。心の底から爽やかな風が吹くように、その声を聞いているだけでアリスの心まで晴れ渡るようだった。

「楽しいのよ。河童懲罰って」

 そうか。お前はそうなのか。アリスが河童を蹴った時、こんな風は吹かなかった。ただの苛立ちが余計にとげとげしく感じるだけだった。それでもその棘で自分を刺していなければ、アリスはろくに歩くことすらできなかった。

 だけど沙羅の笑顔を見ているだけで、アリスの顔まで綻んでいるのはなぜだ。

「あなたの『視る』力には大きな価値がある。形成体を構築していない状態の河童の発見、概念形成体を操る操作準位ソーサーへの対応。いろんな使い道があるわ」

 この女は打算を隠そうともしない。まるで物扱いのような口ぶりにも、アリスは嫌悪感を抱くことができなかった。

 沙羅の目は最初から、アリスの利用価値ではなく、アリスそのものを見ていたから。

「でも、今はそんなことはどうでもいい。私はあなたと一緒に河童を懲罰したい。そうじゃなきゃ、金で買ってモルモットにしてる」

「なんで」

 なんでだ。この女はなぜ、アリスを見ている。

「あなたは生きることに嫌気が差した。わかるわよ。同じクラスだもの」

 知らなかった。高校に入学してから半年以上経つが、ホームルームに顔を出したことなどほとんどない。だからクラスメートの顔も誰もわからない。

「私はね、生きることに嫌気を差されたの。まるで反対。だけど残念ながら、同じなの」

 沙羅は妖しく笑いながら、アリスの手を握る。

「私があなたに生きる理由を与えてあげる。だからあなたは、私に生きるための力をちょうだい」

 同じことのようで、実際はまるで反対。

 アリスがそのことを本当に理解するのは、二人でひたすら河童を懲罰して回った日月が過ぎたあと――カッパクリーンセンターが発足する直前のことになる。

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