赤い河童のトオノ
アリスは飽きもせず自分の目を覗き込んでこようとしてくる、真横の子供の視線に苛立ってメッセージアプリでスタンプを無駄に連打した。相変わらず既読にはならない。そもそもこのアプリを開く習慣がないからだと納得しようとしても、苛立ちに空虚が上乗せされれば悪くなる一方だ。
「小林ぃ、晩飯なにー?」
防除班の詰め所兼共同住宅。カッパクリーンセンターの名目で買い上げたもとは店舗兼住宅だった建物をそのまま片付けもせずに使っている。カウンターとテーブル席が二つだけの狭い店舗だったその中心に、テーブルを二つくっつけて防除班の面々が座っていた。
「アメリカザリガニのチリソースです」
エプロン姿の小林が大皿に盛った料理を運んでくる。
小林博嗣は一流の料理店で修業を積んだ確かな腕を持っている。しかし念願叶って自分の店をオープンした結果、多額の負債を抱え込んで表舞台から姿を消した。
その理由がこれ――アリスは取り皿に赤いソースをまとったアメリカザリガニの身を山盛りによそい、白飯と一緒にかっこむ。
ゲテモノ料理の天才――それが名誉か汚名かアリスは知らない。小林は真っ当な人間ならばまず口にしないであろう種々様々の食材を、巧みに調理して客に出していた。
アリスは無意識に視線をフロアの大部分を占める調理場に向けたいた。そこにはどう使うのか見当もつかない機材類とともに、立派な洗濯機が置かれている。
「ザリガニは洗濯。これ大事です」
小林は妥協をしなかった。仕込みにはいくらでも時間と機材と金をつぎ込む。アメリカザリガニ料理のための臭み取り用にカスタムした洗濯機を購入しているが、これはまだ可愛いものだった。
客の食指が全く動かない食材に、無尽蔵の手間暇をかけて調理する。それは実食すれば美味だったのだろう。だが日ごとアメリカザリガニやウシガエルやミシシッピアカミミガメがメニューに並ぶレストランに客はそうそう寄りつかない。客を確保できたとしても、小林の情熱は採算のことを頭から吹き飛ばす。
その最後は、特別天然記念物のニホンカモシカのソーセージを提供したことによる営業停止措置だと聞いた。逆に言えば外部から強制的に止めさせなければ小林は借金に塗れてでも料理を出し続けたということでもある。
「それで」
岸が椀に入ったワニガメのスープを飲み干し、アリスの隣の椅子で真横を向いている子供を箸で指し示す。
「こいつはなんだ? 兵頭」
「知らねーっすよ」
「そうは見えなかったけど」
北村が少し残念そうにザリガニを頬張りながら笑う。
赤い河童懲罰士〈コープス〉と化したこの
二匹の河童を消滅させたのちに一切の抵抗をやめた河童はアリスたちによって取り押さえられた。即座に「本社」に移送されて検査が行われたのち、なぜか防除班の根城で監視せよとの命とともにここに送られてきた。それが今日の昼間のことで、それから夕食のこの時間まで、河童はただずっとアリスの顔を見つめ続けていた。
「食べないの?」
小林が河童の取り皿にザリガニをよそって目の前に置くが、河童は目をアリスから逸らさない。
「そもそもこれは人間の食物を摂取できるのか?」
岸の単純な疑問に、北村が見当違いの笑みをこぼす。
「しかしなんか呼び名ほしいよな。これとかこいつとかじゃ不便じゃん?」
「情が移るよ。殺すべきものは殺して、おいしくいただかないと」
小林が真面目な顔で言うので、全員から血の気が引いた。
「赤い河童――『遠野物語』の遠野の河童は赤いというが――」
「いいじゃんかそれ。ということでトオノで決定。地名の発音なら名前っぽいし」
慌てたように河童の呼び名を決める岸と北村。こういう時はうまく息が合うのかとアリスは溜め息を吐く。
「アリス。おなか、すいた」
一時もアリスから視線を逸らしもせず、河童は淡々と呟く。
「食えよ」
目も合わせずに取り皿を顎でしゃくる。
「
「はあ?」
初耳――というより
「〈
「――だからCCCドライバーを盗ったのか」
CCCドライバーは、なぜかまだこの河童の手の中にある。「本社」の研究員連中はこの河童の言い分が真実であると判断し、経過観察のためにCCCドライバーを預けたのだろう。
「あのーアリスちゃんトオノちゃん、なに話してるかおじさんたちにはさっぱりなんですけどもー」
北村が困惑よりもおちょくるように声を投げかける。現場の人間には伝えてはならない情報についてアリスは話している。舌打ちをして残りの料理を飲みこむと、ごちそうさまをして席を立つ。
河童も動きを真似するように席を立ち、アリスの後ろにぴったりと張りつく。
「うぜーなお前。ついてくんな」
「アリスを守る。そう詫び証文を書いたから」
「はあ? なに勝手に誓い立ててんだよ! 誰だお前を懲罰したの」
「私ですよ」
笠井によってうやうやしく開かれたドアの向こうから、彼女はそよ風のような声を届かせた。
「班長! もう退院できたんですか?」
馴れ馴れしく声をかける北村を、笠井は病み上がりであることを感じさせない強い眼光で威圧した。
「申し訳ありませんお嬢様。下世話な連中ばかりで……」
「いいんですよ笠井。行きたいと言ったのは私ですから」
闇の中で眩しく感じるほどの艶やかな黒髪。汚いものなど見たこともないかのように澄んだ目。身に纏う白いワンピースは確かに爽やかなはずなのに、院内着のような仄暗い清潔さを感じさせる。
アリスは誰よりも速く彼女へと詰め寄ると、その胸倉を取った。
緊張が走る中、二人の間でだけは糸が切れたように緩やかな時間が流れていた。
「ごめん――ごめん、
アリスは泣いていた。沙羅の胸倉を掴んだ自分の両腕に顔を埋めて、その純白を汚さないようにと気を遣いながら。
「大丈夫。いいの。ちゃんと説明するから、どうか泣かないで」
アリスの髪を撫でながら、沙羅は穏やかに微笑む。
そのまま店の中を見渡し、少女は親しみやすいが、毅然とした笑顔を見せた。
「こちらは菅原沙羅様。もうわかるな?」
「菅原――これはまた」
感じ入った様子の岸に、北村は助けを求めるべく視線を投げる。
「カッパ製薬の社長の名前くらい覚えときなよ……雇い主なんだからさ」
小林の呆れ顔とそれまでの発言を統合し、北村は自分で答えを導きだす。
「え? カッパ製薬の社長令嬢様であらせられる?」
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