黒い学生証

 昼休みはもう半分を過ぎていた。

 御子柴善はようやく最後の白米の塊を喉に流し込んで一息吐いた。今日も白米とおかずの比率を間違えた。白米を詰めこみすぎた。おかげで胃袋の半分は白米で膨れた気がする。

 正面に座った海原千歳は、一緒に昼食を食べ始めたはずなのにとっくの昔に食べ終えていた。おまけに彼女はシャーペンを握って黙々と何かの課題に取り組んでいる。

「それ何の課題?」

 弁当箱を片付けながら善は聞いた。

「小論文」

 海原はノートから顔を上げずに答える。

「そんなのあったっけ」

「ないよ。私が勝手に申し込んだだけ。現代文の先生に。暇だったし、今後何かの役に立つかなーって」

「なんだ。僕の知らない間に課題が出されてたのかと思って一瞬焦った」

「意外。御子柴も焦ることあるんだ」

「そりゃあるよ」

 言いながら、善は何気なく千歳の手元を覗き込んだ「てかて」という奇怪な単語が見えた。前後の文脈を読んでみれば、「しかし」と書いているのだということがわかった。

「……特徴的な字、書くね」

「んーそう? 上手?」

「うん、まあ、個性的だよ」

 善はそう言いつつ曖昧に首を横に振ったが、千歳は幸いこちらを見ていなかった。

「字は私の中でも1、2を争う特技だからね」

 と千歳は自慢げに呟いた。妙な主張をする「し」の字を除けば、なるほど確かに彼女の字は達筆だった。

 一通り書き上げたのか、千歳はシャーペンを置いて指をストレッチする。指の先っぽが手の甲に向かって見事なアーチを描き、ピタリとくっついた。恐ろしい程の柔軟性を持っていた。

「それも特技?」

「特技の1つ」

 やはり彼女は誇らしげである。

「じゃあ一番の特技は?」

「一番かー」

 千歳は悩ましげに口元をすぼめて唸っていたがややあって、

「ほっほーい。オラ、野原しんのすけだぞ~」

「あ、似てる」

「でしょ?……こんにちは、ぼく、ドラえもんです」

 得意気に笑った千歳の背後に、うっすらと22世紀の猫型ロボットの影が透けて見える。

「すごい。しかも水田わさび版のドラえもんだ」

「でしょでしょ? これ、私の特技」

「しんちゃんと、ドラえもんの声マネ?」

「というよりも声マネ全般かな!」

「ってことは何でも真似出来るの?」

「何でもって分けじゃないけど、女の人とか少年の声ならだいたいなんでも」

「へえ」

「へえってなんだ、善。もっと感心持て」

 先の二キャラとは打って変わった平坦な声音。善は思いついた人の名前を探るように挙げた。

「……それはもしかして桐生先輩?」

「あれ? よく知ってるね。知り合い?」

「うん。海原こそ、知り合いなの?」

「中学校の時の先輩」

「へえ。キャラクターから自分の先輩まで、か」

「何度か声聞いたら真似できるようになるんだよね」

「そりゃスゴイや。さすが、元子役」

 という善の言葉に千歳は得意気に鼻を鳴らした。

「まーねー。天下の天才子役海原ちーたんだから」

 ブレザーを掛けた背もたれにふんぞり返って、千歳は渾身のキメ顔を見せてくる。

 海原千歳は3、4年前に一時話題になった元子役だ。一世を風靡、とまではいかないものの、日頃テレビや映画に触れている層は漏れなく知っているレベルだった。当時の面影は高校1年生の今なお残っており、入学してしばらくの間海原千歳はちょっぴり有名人だった。廊下を歩けば誰かしらが声を潜めて彼女を噂した。

「御子柴は? 特技とかあるの?」

「特技か……うーん」

 不意の質問に善はもじゃもじゃ頭を搔きながら平然と、

「中学生の頃スリやってた」

「スリぃ!?」

 千歳は背もたれから跳ね上がって目を丸くする。大気圏の外からやってきたような発言に、普段よりも1オクターブ高い声が出ていた。昼休みの喧噪が一瞬鎮まって、クラスメートが2人の方を向いた。千歳は頭と声を低くして続けた。

「……それって人にぶつかって財布とか盗んだりするやつ?」

「うん。そんな感じ。ただ、盗んだことは1度もないけどね」

「あれ? そうなの? じゃあ何のために?」

「小学6年生のとき、ゲームセンターでカツアゲされたんだ。中学生に」

 善は過去を手繰り寄せるようにゆっくりと話を切り出した。

「ほうほう」

「小学校の最高学年だからどこか気が大きくなってこともあってさ。始めて友達と、子どもだけでゲームセンターに行ったんだ。そしたらさ、近くにいた中学生数人に囲まれたの。カツアゲだった。2000円くらい取り上げられた。抵抗したんだけど力じゃ敵わなくてね」

 冴えない顔で溜息を吐いた善に、千歳が驚いた様子で言った。

「抵抗したんだ」

「そりゃただでやるお金なんてどこにもないからね。結果は僕が5発、友達が1発殴られて終わり。泣いてる友達を励ましながら家に帰った。電車賃も取られちゃったから2駅歩いたんだよ。喉も渇くしお腹も減るしで最悪の帰り道だった。で、家帰ってお風呂入ってたら急に怒りが再燃したんだよね。なんで自分たちが金を取られなきゃいけないんだって。絶対やり返してやるって思ったんだ。当然、力じゃ敵わない。かといって僕は別にあの中学生たちを殴りたいわけじゃない。ただお金を返して欲しいだけだった。だから」

「だからお金を取り返すためにスリを勉強した、と?」

「うん。図書館とかインターネットとか使ってね。1年くらいみっちり勉強して、家の中で両親と兄弟を相手に練習を重ねた。勿論盗んでないよ」

「執念深いというかバカというか……私は嫌いじゃないよ、そういうの」

 千歳は呆れたように笑った。

「小学生にとっちゃ2000円は大金だからね」

「そして一年後?」

「実行に移した。同じゲーセンでね。実行の1カ月前くらいから下調べをして、中学生たちがゲーセン通いを続けていること、そしてだいたい水曜日と金曜日の夕方にゲーセンにいることを知った。連中はその時期格闘ゲームにはまってたらしくて、ほとんどずーっと格ゲーコーナーにいた。僕たちがいた日も同じくね。僕が行ったその時には、幸い1人だけだった。やるには絶好のタイミングだった」

「わざとぶつかって、その隙に、さっ、て盗む感じ?」

「いや。その時はそこまでのスキルはなかった」

「するといったい?」

「まずメダルゲーム用のメダルを100枚くらい買った。そして友達がゲーム台に向かってる相手に近付いてった。その時やつはゲームをしてなくてね、飲み物片手にぼーっとしてるだけだった。台の上には財布が無造作に置いてあったよ。まあこれも幸運だった」

 もし財布が出ていなければ財布を出すまで延々見張り続けてやるつもりだった。

「そして最初に友達がやつの足下にメダルをぶちまけた。勿論、僕たちは落ちたメダルを拾う。すると向こうは僕たちを鬱陶しく思うわけだ。足下をうろちょろされるもんだから。苛立ちながらも、相手は拾ってくれたね。意外と優しいんだな、って思ったけどメダルを何枚か持ってかれた。それで相手が床のメダルに気を取られている隙に僕が財布をくすねて、中から盗まれた分のお金と、作戦に使ったメダル代を取り返して、終わり」

「そんだけ?」

「そんだけ」

「えー以外とあっさりだね」

 千歳は拍子抜けしたように顔をしかめた。

「そんなもんだよ。やる側としてはシンプルにあっさり終わってくれた方が安心だしさ」

「『オーシャンズ11』とか『フォーカス』みたいなことはしないわけだね」

「映画じゃないからね」

「まっ、だよね。現実だもんね。で、初めてを成功させてスリの味を占めた、と?」

「ちょっと違うかな」

「ちょっと?」

「さっきも言ったとおりお金は盗んでないよ。取られた分を取り返しただけ。味は占めたけど、お金を取ることよりもモノを盗むスリルそれ自体にだよ」

「いや、恐ろしい子っ」

 少々大げさなくらい驚いて、千歳は自分の身体を抱き締めた。

「まあもうやってないから」

 善は弁解するよう両手を上げた。

「中学生で辞めたの?」

「うん。正確には中学3年の秋頃に辞めた」

「なんで? 見つかった? 捕まった?」

「町ですっごいタイプの女の人を見つけたんだ。多分大学生くらい。黒髪のショートカットで、優しそうな顔をした清楚な感じの人。水色のロングスカートが凄いよく似合っててさ。びっくりするくらい美人だった」

「清楚で美人……もしかして、私?」

 善は友人の名推理を平然と無視する。

「僕はその人の財布をスった」

「そしたらばれて終わり?」

「いや。ばれなかった。女の人は全く気がついてなかった」

「あれ? 気がつかれなかったの?」

「うん。自慢じゃないけど僕のスリのテクニックは相当だから」

「言うねえ」

「僕は上機嫌で女の人の財布を見た。財布って1つの家だと思っててさ。財布の中にはその人の人生とか生活とか趣味趣向が詰まってるんだよ。財布の中身を見ればどんな人間かがすぐ分かる。だから僕はうきうきだった。女の人の家に忍び込むような感じがして」

「ちょっとキモチワルイですヨ」

 千歳は蔑むように目を細めた。善は気にせず続けた。

「財布を見て僕は愕然としたよ。バズーカ砲で胸に穴を空けられた気分だった。財布の中に入ってたのは何人もの男とのツーショットプリクラ。あとホストっぽい人の名刺が10数枚。それと極めつけにコンドームが数枚」

「わぁ~お……」

「まあ人の財布勝手に覗いて勝手に凹むなよって感じではあるんだけど」

「それは言えてる」

「女の人のところに戻って鞄にこっそり財布を戻して、寂しく家に帰った」

「以来スリはやってない、と」

「そういうこと。泣けるよね」

「ぜんっぜん泣けない」

 乾いた声で言い、千歳は右手にペンを持ち直す。授業の予習に戻ろうとして、しかし再びペンを置いた。言い忘れたことがあるらしい。

「そうだ。テクニック見せてよ。スリのテクニック」

「今からスるよー、って宣言するのは何か違くない?」

「それもそうか」

 納得した様子で千歳は問題集に戻っていった。

 善は空になったペットボトルと教室の後ろにあるごみ箱に捨てに行き、戻ってきてから思い出したように鞄から1冊の本を取り出した。

「……あ、そういえば借りてた本返すよ」

 白黒のオードリー・ヘプバーンがアップで写った表紙に『古今東西映画大全』という題字が踊っている。千歳が1週間ほど前に押しつけるようにして善に貸してきたものだ。

「あ、読み終わったんだ。どうだった? 面白かった?」

 表紙に視線を落としたまま千歳が聞いてくる。善は頷く。最初は乗り気がしなかったが、いざ10ページほど読んでみると、裏話や製作秘話が満載で結構興味深かった。

「映画に興味が湧いたよ。週末ずっと配信サイトで映画漁ってた」

「素晴らしい。それでこそ私の友達」

 千歳はどこかの王様然として大仰に頷き、

「私のおすすめを教えてあげよう。まず洋画では『羊たちの沈黙』と『スターウォーズ』。この2つは絶対に外せない。それから邦画だと『リング』と『呪怨』だね。ジャパニーズホラーの原点にして頂点だよ」

「……随分とバラバラだね」

 サスペンスととSFとホラー。サスペンスとホラーはまだ近しい物があるにしても、『スターウォーズ』だけ随分と浮いているような気がする。

「真に面白いモノはジャンルの垣根を越える、ってね。とりあえず返却ありがと」

 鞄の中に本を戻し、再びノートに向かった千歳は、そこで異変に気がついた。

「あれ?」

 彼女は何かを探すように問題集や筆箱を持ち上げた

「消しゴムがない」

「そこに落ちてるよ」

 然は千歳の斜め後ろ辺りの床を指差した。小さい消しゴムがぱたりと倒れている。丁度彼女が椅子の背もたれに掛けているブレザーの裾の辺りだ。立ち上がろうとした千歳に代わり、善が拾ってあげた。

「ありが──ってあれ? 今度はシャーペンが」

 消しゴムを拾った善の背後で、千歳が慌てたような声をあげた。

「はい、これ」

 善は席に戻り、消しゴムとシャーペンの両方を彼女に差しだした。

「うぇえ? いつの間に!?」

 文房具を取り返すのも忘れ、千歳は驚愕で口と目を丸くする。

「お望み通りスってあげた」

「……まさかこんなあっさりやられるとは。いつ? いつ盗ったの?」

「海原の注意が本に向いてるときに消しゴムを取って床に転がし、消しゴムに注意が向いたときにシャーペンを取った」

「むむむ………やりおる」

「スリで盗むのはモノじゃなくて視線と意識。堂々と盗むんじゃなく、相手が見てないところで盗むんだ。ちなみに本命はこれ」

 善が最後に差し出したのは、文響高校の全生徒に支給されている赤い学生手帳。中には本人の顔写真が載った学生証が入れられている。

 千歳は一瞬ぽかんとした顔になり、

「あー! 私の学生手帳! それだけはダメ! ぜったい! だめ!」

 獣さながらの勢いで手を伸ばし、善の手から学生手帳を掻っ攫った。一瞬の出来事に今度は善が目を丸くする番だった。

「えっと……写真写り悪いから……誰にも見せたくない」

 生徒手帳を胸に抱き、千歳は照れたように俯いた。

「むしろ逆に見たくなるね、それ」

 生身の千歳は流石元子役というだけあって健康的で整った顔立ちをしている。そんな彼女が言う写真写りが悪いとはどの程度なのか。善は少し興味が湧いた。

「ぜったいだめー……そういえば学生手帳で思い出したけど、黒い学生証って知ってる?」

 思いがけない方向に話の舵が切られ、善は首を傾げた。

「黒い学生証?」

「そう。校内のある秘密組織に加入している生徒だけが手にできる学生証でね。全面黒のチタン製。顔写真はなくて、本人の名前と学校名だけが銀文字で刻印されてるんだって。それだけで何かラグジュアリー感がぷんっぷんだよね」

「へぇ?」

「しかもね、とんでもない力を持った学生証なんだって」

「とんでもない力?」

 千歳はずいっと身を乗り出して大きく深く頷く。

「そう。学食が3年間無料とか全授業免除とか。他にも学校のあらゆる部屋に自在に出入り出来るとか、生徒の処遇について裁量権があるとか、自由に使える特別予算があるとか」

「へえ……」

「あ。信じてないね?」

「本当なの?」

「さあ?」

 と千歳は首を傾げたがすぐに開き直って、

「でも嘘かほんとかわかんないから面白いんじゃない!」

 海原千歳は噂が大好きだ。ゴシップから7不思議まで雲のようにあやふやな話をどこからか仕入れてきては、時々こうして善に語ってくる。

「それからね、組織は秘密厳守らしいの。メンバーは1人1つ記憶除去装置を持ってて、存在がバレたらそれで相手の記憶を消しちゃうんだって」

「それは怖い」

「怖いけど、でもさ、ロマン感じない? 秘密組織、特別な学生証、暗躍するエージェント、記憶除去装置……どことなくスパイ映画的なロマンをさ」

「わからなくはない。むしろ分かる」

 善は頷く。男子が一生のうちにどこかで1度は憧れる世界だ。

「でしょー? 私も組織に入りたいなあ……そんで生徒会選挙とかで暗躍したい」

「その組織って誰でも入れるものなの?」

「噂だと、第三者の推薦や上層部の判断で選出された人だけに招待状が来るらしいよ。机の中とか、ロッカーの中、下駄箱に真っ黒い封筒が入ってるんだってさ。それで同封されてる手紙に隠し部屋のパスコードが入ってるとかいないとか」

「誰か受け取った人がいるの?」

 更に突っ込んで聞いてみるも、千歳は両手を広げて首を横に振る。

「さーね? 私は受け取ったことないし……噂に聞くだけだし……」

「気になるなあ……立候補は出来ないのかな」

「してみれば? 誰にするのか分からないけど。それでもし組織に加われたらこっそり私にも教えてね」

「考えとくよ」

 そこで丁度チャイムが鳴り、昼休みが終わった。

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