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 赤藤さんが主役をやるはずだった劇の台本は、リーダーが3日で書き直した。最初の宣言通り僕が主役になっていた。赤藤さんの名前は消えていた。僕は台本を1週間で丸暗記した。更に1週間で演技を叩き込み、本番に臨んだ。初舞台で初主役。会場はミニシアターで観客は10数人しかいなかったけれども、酷く緊張した。全身が隈なく震えていた。冷水に浸かったときのような、魂が身体から離れていくような感覚を味わった。初回の公演が終わった後、僕は何も覚えていなかった。どんな台詞をどう喋ったのか全く。気がついたら舞台袖で座り込んでいた。フルマラソンでも走ったかのような疲労感があった。

 その後も公演を重ね、僕の初舞台は成功のうちに終わった。劇の情報はSNS何かで拡散されたらしく、千秋楽の観客は初回の10倍くらいに増えていた。

 その劇が終わっても一息吐く間もなかった。リーダーはすでに新作の台本を書き始めていた。勿論主役は僕で。さらに、劇を見た別の劇団からも出演の依頼があった。リーダー曰くアマチュア演劇界隈ではとても有名な劇団で、OBにはテレビでよく名前を聞く俳優が何人もいた。

 僕の生活は一変した。

 これまでは大学に行って時々バイトに行って後はひたすら小説を書くだけの日々だった。しかしバイトは辞め、小説を書くこともしなくなった。自分でも驚くくらいあっさりと、小説を書くことを止めたのだ。自分でも不思議だった。小説家になろうと思って毎日毎日文章を書き連ねていたのに。

 僕は小説で評価されてこなかった。書く小説はどこに出しても見向きもされない。批判も称賛もされない。そして賞に出しても1次選考で落とされる。1次選考で落とされれば、編集者からの選評をもらうことができない。僕の小説はだだっ広い海の中に放り出されたまま、助けられることも殺されることもなくただ永久に漂い続けるのだ。「作品が批判されまくるよりマシさ」と思い込もうとしても、やはり誰からも評価をされないというのは辛かった。きっと豪雨のごとく批判を浴びるよりも。誰からも評価されないのは、生きながらにして死んでいるのと同じような気がした。

 だがあの日。赤藤さんに付き添って劇団の稽古場を訪れた日。僕は初めて人からの評価を受けた。残念ながら小説ではなかったが、それでも僕は誰かから評価された。そのことがたまらなく嬉しかった。小説も演劇も何かを表現するという点では大きな違いはなかったから。何かを表現するという観点で誰かに評価されたことで、僕は自分の存在について再確認出来たのかも知れない。

 だから演劇にのめり込んだ。自分を評価してくれない演劇よりも、自分を評価してくれる演劇。それだけの理由だが、僕にとってはそれが全てだったのだろう。

 大学には通っていたが、それ以外の時間はひたすら下北沢の雑居ビルに入り浸った。リーダーに怒鳴られたり貶されたりしながら、毎日演技を磨いた。楽ではなかったが、とても充実していた。

 ただ、残念なこともあった。

 赤藤さんと話すこともなくなったのだ。不可抗力とは言え僕が彼女から主役の座を奪い、彼女が稽古場を出て行ったその翌日から、彼女は稽古場にも姿を表さなくなった。いつしかリーダーは彼女を除名処分にした。それに赤藤さんは僕と口を利かなくなった。授業では僕から離れた席に座り、僕の方から隣に座ると彼女は逃げた。見かけて声をかけても無視をされた。僕をほんの数メートル先に見つけただけで彼女は歩く向きを変えて去っていった。何でもいいから話したかった。挨拶の一言だけでもいいから話したかった。しかしできなかった。

 対面で話すのがダメなら、と思って僕は彼女にアプリでメッセージを送った。

『久しぶり。最近話せてないね。赤藤さんが僕を避けてるのは分かってる。だけど僕は赤藤さんに避けられたくない。今まで通り仲良くしたい。仲直りをしたい。今度お茶かご飯にでも行こうよ。おごるからさ。食べたいものがあったら教えて』

 こんな感じで。

 『既読』のアイコンは表示されたが、勿論返事が来ることはなかった。

 ものは違えど夢を抱く者同士シンパシーを感じて通じ合っていた僕らの日々は呆気なく消え去った。たまらなく悲しかった。


 大学2年の秋頃から、小さな事務所に所属するようになった。

 僕が出演していた劇をたまたま見に来ていた事務所の関係者に引き抜かれたのだった。小さいとは言え所属している人たちは粒ぞろいで、少数精鋭の事務所だ。

 3年に上がるときに大学を辞めた。

 両親が特に反対してこなかったことだけが救いだった。いざとなれば僕は、両親と縁を切ってでも芸能の道に進むつもりだった。

 赤藤さんとの交流はいよいよなくなった。メッセージアプリに残った彼女との会話履歴には、いまだ返事のない仲直りメッセージだけが残っていた。

 新しく始めたバイトと役者との二足のわらじを履く日々が続いた。マネージャーに紹介されたオーディションを受け、居酒屋で皿を洗い、時々下北沢に足を運ぶ。稽古場に顔を出す度、リーダーは大げさに僕を出迎えてくれた。まるでハリウッドセレブのような扱いた。彼の頭の中ではもう僕はアカデミー賞の主演男優賞を取っているらしかった。

 CM出演やドラマのちょい役が増え、半年もすると俳優としてそれなりの収入が入るようになってきた。居酒屋のバイトを辞め、俳優1本で生活していくことを決めた。

 大学を辞めてから1年ほどが経った、6月のある日のことだった。

 僕は現場と現場の合間に少し時間があったので、僕は事務所の休憩室でくつろいでいた。無料のアイスコーヒーを片手にスマホをいじっていた。大学の同級生たちのSNSを見ていた。彼らが呟くのは一様に就活の話だった。面接官への不満やら内定が出ないことへの嘆きやらそういった言葉がタイムラインを流れていった。そうか。もう就活の時期なのか。大学を辞めなかった同級生たちは4年生になり、来年の春に向けてリクルートスーツを着て歩いている。堅実な社会に向かって進んでいる。ふと僕は赤藤さんのことを思い出した。彼女はどうしているのだろうか。別の劇団で女優の道を歩き続けているのだろうか。それとも他のみんなと同じように就活に勤しんでいるのだろうか。

 そうやってかつての同級生のことを考えていると、言い表しようのない不安に駆られた。今は順風満帆な俳優生活だが、将来は決して明るくない。浮き沈みの激しい芸能界に身を置いて僕は、堅実な生活というものが少し羨ましく思えた。

「おう相沢」

 物思いに耽っているところで名前を呼ばれ、僕は驚いて飛び跳ねた。

「そんな驚く?」

「いえ、ちょっと考え事をしてたので」

 声をかけてきたのは事務所の先輩、大原さんだった。日曜特撮ものでお茶の間の母親たちを虜にし、満を持して7月放送開始の連ドラ俳優に抜擢された人だ。今この事務所で1番波に乗っている若手俳優と言っても過言ではない。

 僕は彼が手に文庫本を持っていることに気がついた。

「大原さん、本読むんすね」

「読むよ。たまにな」

「小説ですか?」

「おう。『哀しみを解き放て』。作者は……ああ、真波青鷹って人。知ってるか?」

「いや、知らないっすね」

 そういえばここ最近全く小説を読んでいないことに気がついた。

「読み終わったら貸そうか?」

「……いや、いいっす。久しぶりに自分で本買ってみようと思います」

「そっか。てか考え事って何よ? 女でも出来た?」

「いえ、将来のことっす」

「ショーライ?」

「僕、どうなってるのかなって」

「そんなんわかるわけねーよ」

 大原さんはあっさり言う。

「相沢お前10歳の時何考えてた? 将来のこと」

「10歳の時、っすか」

「俺はね、プロ野球選手になりたかった。地元の少年野球で必死にバット振ってボール追っかけてたよ。中学も高校も野球部だったしな。ずーっと丸坊主よ」

「丸坊主、っすか」

 今の大原さんは長めの銀髪がトレードマークの、少しチャラけたキャラクターで売っている。ドラマに出演するときはバンドマンとか不良とかホストとか、そういう枠で採用されることが多い。野球部なんていうスポーツマンの雰囲気とはかけ離れているし、丸坊主のイメージは全くない。僕は突然の丸坊主告白に心の底から驚いた。

「丸坊主で泥まみれになってたよ。でも高校でベンチ入りすら出来なくて諦めた。それから10数年経ってまさか俳優になってるんだからな。驚きだよな」

 大原さんは自分の銀髪をつまみながら言った。

「お前は何考えてたんだ? 10歳の頃」

「作家になりたかったんですよ」

 言いながら久しぶりに思い出した。僕は小説家を目指していたのだった。空想世界の物語をひたすら紡いで書き連ねていたのだ。10代のほとんどの期間を小説家になりたいと思いながら生きていたのだった。それが気がつけば俳優だ。10年前の僕に話したってきっと1ミリだって信じないに決まっている。

「作家が何で俳優になったのよ」

 質問されて僕は三年前の出来事を話した。小説を書くために友達の演劇の稽古を見に行ったことと、そこで起きた修羅場について。

 僕の話を聞いて大原さんは一言、

「人生って何があるかわかんねーし、才能ってのもどこに眠ってるかわかんねーな」

 と言った。全くその通りだと思った。

「んじゃ、俺次の現場あるから。また飯でもいこうや」

「ごちそうさまです」

「おごるなんて言ってねーぞコラ」

 大原さんは笑いながら僕のケツを叩き、休憩室を出て行った。僕は1人残ってアイスコーヒーを飲んだ。自分がコーヒーを啜る音が、やけに耳に響いた。


 1日の仕事が終わって帰る途中、自宅の最寄り駅前にある本屋に寄った。大原さんに話した通り本を買いに来たのだった。

 店に入った瞬間、久しぶりに新品の紙の匂いを嗅いだ。懐かしさを覚える匂いだった。小説家を目指していた昔の自分が、自然と頭に蘇ってきた。店内をぶらぶらと歩く。目的の本もコーナーもなく、書架の間を適当に。本と本の間に挟まれた作家名が記されたカードを眺めて歩く。かつての僕は、自分の名前が書かれたカードが本棚に並ぶことに憧れていた。

 店内を1周し、店頭の特集コーナーに辿り着いた。話題作や人気作家の本が平積みにされていた。僕が小説をよく読んでいた頃から人気だった人は、今もまだ人気だった。だが中には見慣れない名前もあった。

 真波青鷹。

 大原さんが読んでいた小説の作者だった。デビューから3年で4作ほど長編を出していて、その全てが10万部を越すヒット作になっているようだった。

『哀しみを解き放て』を手にとって冒頭を読んだ。1文が短くて読みやすく、独特のリズムがあった。たった数行読んだだけで物語の中に引き込まれた。この作者が類い希な才能の持ち主だと言うことがすぐに分かった。10万部売れるわけだ。1次選考で落ちまくっていた僕とは大違いの人だな、と思い苦笑が漏れた。

 ジャケットの著者紹介のページを読んだ。

「自信の挫折を感情のままに書き綴った『怒りを砕け』でデビュー。独特の文体と感情豊かな筆致が高い評価を得ている」

 作者は現役の大学生だった。しかも僕が中退した大学と同じ大学の同じ学部に通っている。もし在学中にこの人と知り合っていたら僕には作家の未来があったのかも知れない。そんな別の世界線に一瞬、思いを馳せた。

 手にした『哀しみを解き放て』と、それからデビュー作だという『怒りを砕け』を買って帰ることにした。

 『怒りを砕け』の方の著者紹介ページには、作者の顔写真が載っていた。モノクロで、斜めを向いた女性の顔。特徴的なネコ目の彼女は。

 赤藤真奈美だった。

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