②
5限の授業を終え、僕らは赤藤さんが所属する劇団の稽古場へとのんびり向かった。
稽古場までは大学の最寄りから電車で数駅。下北沢の路地裏の、年季の入った雑居ビルの地下にあった。入り口にはバリケードのように段ボールや板きれやらが置かれていて、まるで秘密組織のアジトのような有様だった。
意外にも綺麗な内装の稽古場の一角に体育座りをし、僕は赤藤さんや他の人たちの稽古を見つめた。ちょっとした準備運動や軽いトレーニングから始まり、発声練習を経て演技の稽古に入る。一定の緊張感が漂いつつも、メンバーの顔からは笑みが絶えない。常に明るい雰囲気があり、楽しげな風景だった。その中に感じたもの考えたこと疑問に思ったことなどを頭に刻み込みながら、僕も僕で真剣に稽古の様子を追っていた。
演技稽古に入って30分ほどが経った頃だろうか。リーダーと思しき男の人が僕の方を見ていることに気がついた。タオルを頭に巻いた、40歳くらいの爽やかそうな人だ。
「キミ、ちょっと」
彼は突然僕を手招いた。
「はい?」
僕は立ち上がり、男の人に近寄っていった。突然の呼び出しに困惑して赤藤さんの方を見ると、彼女は僕に向かって手を合わせ、申し訳なさそうな顔を浮かべていた。
「悪いんだけど、セリフ読んでくれないかな」
「セリフ?」
「今日来るはずだった奴が仕事で急に来れなくなってさ。そいつのセリフを読んで欲しいんだ。結構重要な役だから、いないとなんだか演技の調子が狂うんだわ」
「でも僕、演技なんて」
「大丈夫よ。棒読みでも全然平気。ただ声を発してくれればいいから」
赤藤さんが僕の背中をぽんと叩く。演技で汗ばんだ彼女の額に、艶やかな髪が貼りついていた。普段とはまた違う妙な色気に、僕は思わずドキッとなった。そして考えることもなく「わかりました」と即答した。
「ありがとう。助かるよ」
リーダーは爽やかに微笑んでそう言った。
僕を交えて稽古が始まった。とはいえ演技を知らない僕はみんなから少し離れた場所で台詞を読むだけだ。気は楽だったが、体育の授業で1人だけ審判をやらされているような、変な疎外感があった。
「大海なんて知りたくなかった! 井の中の蛙でいた方がよかった! どうせ私は哀れな蛙よ! 大海の荒波に飲まれて消えるだけなんだわ!」
赤藤さん演じるストリートミュージシャンが声を張る。
「大海の苦しみを知っていれば井の中に戻っても上手にやっていけるだろうさ。大海があると知れただけでもキミは幸せな蛙だったと言うことだ」
僕は諭すように、気持ちを落ち着かせるように言う。台詞を読むだけ、といわれていたが、役を任されるとどうも感情が入ってしまった。
「ストップ」
リーダーが言った。僕の中に緊張感が走る。下手に感情を入れない方がよかったか。
「キミ……えっと」
「相沢くんです」
赤藤さんが助け船。
「相沢くん。相沢くんもう1回今のセリフ言ってみて」
「大海ノ苦シミヲ……」
「違う違う。さっきと同じように感情を入れて」
「大海の苦しみを知っていれば井の中に戻っても上手にやっていけるだろうさ」
リーダーはぱんっと手を叩いた。
「うん。続けて」
「……大海があると知れただけでもキミは幸せな蛙だったと言うことだ」
「うん。もう一回やろう。今度は赤藤んとこから。はい」
リーダーがもう一度手を叩き、赤藤さんが「大海なんて知りたくなかった!」と始めた。僕は先ほどと同じように彼女の後に自分があてがわれたセリフを言った。出来る限りの感情を込めて、登場人物になりきったつもりで。
しばらくの間稽古は止まらずに進んだ。リーダーは僕がセリフを言う番になると決まって目を閉じて浸るような顔になった。僕は彼のそんな姿に少し不気味さを覚えながらも、与えられたセリフをこなした。
僕が稽古に加わって30分ほど経った頃、リーダーは深く頷いて言った。
「キミでいこう」
顔が僕の方を向いていた。
「はい?」
「決まりだ。エリートホームレス役はキミだ。キミで行く。町山は降板。どうせ今日も仕事と偽って飲んでるだけだろうし」
「え?」
突然の言葉に僕は状況を理解出来なかった。赤藤さんを見れば、彼女も彼女で驚いた顔で棒立ちになっていた。
「よし。キミもこっちに加わって。本格的に稽古をしていこう」
リーダーに引き摺られるがまま僕は役者たちの間に連れてこられる。セリフだけでなく立ち位置も与えられ、演技指導も加わった。何が何だか分からなかったがとにかくリーダーの指示に従って一生懸命やった。
しばらくしてから彼はまたわけの分からないことを言った。
「いや、やっぱり全部変えよう」
「はい?」
これには僕も赤藤も、リーダーを除くその他全員が驚いた。
「全部……って?」
みんなを代表して赤藤さんが恐る恐る訊ねる。
「全部だよ。ホン全部」
「はあ?」
「キャストも話も一新して、相沢くん主役で行く。そうしたら面白さも質もこれまでとは段違いの作品が出来上がる」
僕は口を開いたまま台本を落とした。あまりにも大きすぎる隕石が飛来して自覚する間もなく地球を木っ端微塵にしてしまったような衝撃が脳味噌を揺さぶった。僕を主役にする? 劇を一から作り直す? 一体この人は何を言い出すんだ。僕は小説に役立てるためにここに来たのであって、演劇をしに来たわけではない。それに役者歴だって10分ちょっとしかない。初心者の域にも及ばないただの男子大学生なのだ。
「ちょ、っと待って下さい!」
赤藤さんが慌てたような声で言った。
「相沢くんを主役にするって、どういうことですか?」
「そのまんまの意味だよ」
「でも、わ、私は」
赤藤さんの声は狼狽えている。当たり前だろう。なにせこの劇の主人公はミュージシャン志望の女性で、主役は赤藤さんなのだ。
「お前は降板。別の役をやってもらう」
「そんな!」
「あの、僕はまだ」
おずおずと進言した僕にリーダーは無言で首を振った。
「申し訳ないがキミに拒否権はない。意地でも僕はキミを主役にする。断るならいくらだってお金を積むぞ。借金してでもな。キミはそれほどの逸材なんだ」
リーダーの口調は穏やかだったが有無を言わせない迫力があった。僕は熱量の高い彼の瞳に気圧されてそれ以上何も言えなくなってしまった。
「リーダー! 待って下さい!」
赤藤さんは食らいつく。
「急すぎますよ! 私、始めての主役なんです。念願の主役なんです。どうしてもやりたいんです。これまで頑張ってきました。これからも頑張ります。リーダーの劇を最大限に面白く演じます。だから」
「すまんな、赤藤。こればかりは俺の演劇魂にかけても変えられない。相沢くんという逸材を見つけてしまった俺は、もう彼以外で主役を考えることは出来ない」
「でも彼は演技なんて」
「関係ない。演技は究極的には技術じゃないんだ。持っている素質なんだよ。2人の人間が同じ量だけ努力しても、素質が高い方がいつだって1歩前に出る。努力では埋められない大きな溝がある。相沢くんはその溝を1つ飛びに越えているんだよ」
「でもっ」
「赤藤。お前が何をどれだけ言っても俺の気持ちは変わらない。正直に言うとな、お前は凡人なんだ。容姿は立派だが演技は極めて平均だ。この際だから言う。お前は女優に向いていない」
あまりにも直接的な言葉に、稽古場にいた誰もが息を呑んだ。全員の視線が赤藤さんに向いた。彼女は唇を引き結んで俯いた。反論をしなかった。
「芸能界に入りたいならモデルなんかを目指した方が楽な道のりだぞ」
「私は別に芸能界に入りたいわけじゃ」
と言った赤藤さんの声はリーダーではなく地面に向かっていた。か細い声だった。
「俺の指示に従って別の役でこの劇に参加をするか、ここから去るか。お前の選択肢は2つに1つだ。どうする?」
リーダーは冷徹に言った。
赤藤さんは俯いたまま、しばらくして手にしていた台本を床に叩きつけた。乾いた音が部屋全体に響いた。更に台本を靴下で踏んで、蹴飛ばした。台本は染みの付いた木の壁まで飛んでいき、ばちんと1度壁に貼りついてから静かに地面に落ちた。
赤藤さんは何も言わなかった。台本を拾おうともせず、俯いたまま自分の荷物を取りに行き、ジャージ姿で稽古場を出て行った。
「あかふ……」
恐る恐る呼びかけた僕に向けられた彼女の目は、豹のように鋭く凶暴だった。言葉に詰まってしまった。謝ればいいのか、慰めればいいのか、励ませばいいのか。分からなかった。
赤藤さんが出ていったあと、稽古場のドアが壊れるくらいに激しく閉じられた。床に落ちていた台本のページが風でめくれた。
僕は何かに押されて彼女を追いかけようとしたが、それより早くリーダーに腕を掴まれた。
「キミは稽古だ」
熱の籠もったその声を振り切ることは出来なかった。心を呑まれ、僕の足は固まってしまった。赤藤さんがいなくなったあとの稽古場は、大きな穴が空いているように見えた。しかし他のメンバーはまるでこれが日常茶飯事だとでも言うように稽古を再開していた。僕は自分の情けなさを恨む反面、どこか、心のどこかでは、自分が特別な存在だと言われたことを喜んでいた。
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