ミルクレープを奢れ
①
僕は小説家になりたかった。
赤藤さんは女優になりたかった。
でも人生というのはそう簡単なものじゃなかった。
1
小さい頃から空想に浸るのが好きだった。
僕の頭はしょっちゅう空想の世界に飛び立った。そうなると人の話を聞くことなどできなくなる。おかげでよく親や先生に怒られた。やがて僕は空想の世界に一連の秩序を見いだして物語を紡ぐようになった。何もなく誰もいないところでも頭さえあれば退屈することがなかった。やがてただ頭の中で物語を広げていくだけでは満足出来なくなり、僕はノートとペンを取った。暇を見つけてはノートに物語を書き連ねて小説の形に作りあげた。今読み返してみればそれらは支離滅裂で突拍子もなく無茶苦茶な物語ばかりだったけれど、描いている最中は他のことがどうでもよくなるくらいに楽しかった。
そして僕は次第に小説家という職業を夢に抱くようになった。
小学生から小説を書き始め、中学でも高校でも続けた。ただし他人には小説家を目指していることも小説を書いてることも言わなかった。付き合いの長い幼馴染みや親友にだって言わなかった。親にさえもだ。小説家になるという夢は僕の中だけの秘密だった。
そんな秘密は大学に入学して1週間で、知り合ったばかりの女の子に見破られた。
見破られたというよりもたんに僕がドジを踏んでしまっただけなのだけれど。
彼女の名前は赤藤真奈美といった。
すらりと細長いモデル体型で、艶のある黒い髪を肩の辺りで切りそろえていた。月並みな言い方をすれば擦れ違った男の目を一手に引き寄せるような美人だった。目は少し釣り上がっていたけれど、それが彼女にネコ科の動物のような凄みと美しさを与えていた。
大学に入学して最初のオリエンテーションで僕は彼女の隣に座った。僕が先に座っていたところへ、1つ間を開けて彼女が座ったのだ。驚いた。まさか気があるのか、と思ってしまった。僕の細胞はあまり数が多くないのだ。彼女が隣にいたおかげで僕はとても落ち着かない気持ちで授業を受けた。薄氷の上に椅子を置いてそこに座っているみたいだった。少しでも下手な動きを取ればたちまち氷が割れて冷たい水に落ちてしまうような。
緊張していたから、オリエンテーション終了後に上手く立ち上がれずに足を机にぶつけた。出口に向かうときには左右の手足を揃えてしまう古典的なヘマを犯したし、小説を書き連ねたノートを机の上に忘れるという大ドジを踏んだ。中には僕が2週間ほど前から新しく書き始めた甘い甘い恋愛小説が書いてあった。読んだだけで糖尿病になるほどの甘さだという自負があった。
勿論忘れた当時の僕はそんな爆弾を置き忘れたことに一切気がついていなくて、赤藤さんが隣に座ってくれたことに気分の高まりを感じながら飛び跳ねるように1日を過ごした。絶望したのは帰宅してからだ。こんなことならパソコンで書いておくべきだったと後悔した。僕は手で文字を書くのが好きで、どうしてもキーボードを叩いて文章を書くというのが苦手だった。なんとなく文章が生きていないような気がしていた。
翌日。
どんよりした気分で昨日と同じ教室の昨日と同じ席に座った。勿論机の上にも下にもノートは置いてなかった。世界が音を立てて崩壊していく音が聞こえたような気がした。
「これ、忘れてたよ」
そんな声が聞こえてきたのは世界が崩壊を始めておよそ2分後くらいだった。声のした方を見上げると赤藤さんがネコ目で僕を見下ろしながら見慣れたノートを差し出していた。表紙には『七夕ロマンティカ』というタイトルが記されていた。僕のゲロ甘恋愛小説だった。
思いがけない相手からノートを返されて息が詰まった。返ってきたことを喜ぶべきか、見られたくない相手に見られてしまったことを嘆くべきか分からなかった。
「……ありが、とう」
どうにかお礼だけを口から絞り出した。怖くて赤藤さんの目を見れなかった。『七夕ロマンティカ』は7月7日に同じ病院で生まれた男女が互いの運命に引き寄せられてラブラブちゅっちゅととろけるような恋愛を繰り広げる話だ。
もしも中身を読まれていたとしたら。
完全な偏見だが赤藤さんはクールビューティーで硬派な雰囲気が漂っており、そんなスイートな話を受け入れてくれるような人には思えなかった。きっと苦い顔を浮かべてえづくのではないかと思った。
しかし。
「続きは?」
「へ?」
「続き、あるの? その小説。小説よね?」
「小説だけど……」
「ねえ、マリアンヌはどうなるの? 純平ともう会えないの? 続きが気になるの、すごく」
「続き……えっと、続きは頭の中にはある。ノートが返ってきたら書くつもりだった」
僕がそう答えると赤藤さんは安堵したように「ほっ」と息を吐いた。
「よかった。早く読みたいの、続き。なるべく急いで書いてね」
「わ、わかった。というか」
僕はノートをしまいながら訊ねた。
「読んだの? これ」
「……あ、ごめん。読むつもりはなかったんだけど興味本位で読み出したら止まらなくなっちゃって。凄い面白かったのよ。もしかしてまずかった?」
「いや、全然」
少し嘘だった。読まれるのは非常に恥ずかしかった。それも女子に。ほとんど初対面のクラスメートに。けれども面白かったなら万事よし。そう思うことにした。
赤藤さんはそのまま成り行きで僕の机に鞄を置いて椅子に腰を下ろした。
「小説家目指してるの?」
「う、ん。まあ……そんなところ」
僕にとっては一世一代の告白だった。家族にも友人にも言っていない僕史上最大の秘密なのだから。
「へー」
「まあ無謀だとは思ってるけどね」
「そう? 私はいけると思うけどなあ」
「新人賞に出しても全部1次選考落ちさ」
僕はため息を吐く。創作物が評価されなければ、自分そのものが評価されないような気分に陥ってしまう。己の魂を全部注いで書いたつもりなのだから。
「面白かったのに」
「ほかの人はそうは思わないみたいなんだよね。難しいよ」
赤藤さんは複雑な顔で頷いた。
「私もさ、夢があるんだ」
「赤藤さんも?」
「うん。私女優になりたいんだよ」
「女優って、映画とかドラマとかの?」
「そう。一番やりたいのは舞台だけど」
「オーディション? とか受けてるの」
「毎月のようにね。けど結果はキミ………」
「相沢祐介」
「相沢くんと同じ。箸にも棒にもかからずよ」
赤藤さんは机に向かってため息を吐く。
「赤藤さん美人なのに」
「女優は顔だけじゃないのよ。肝心なのは演技」
彼女は自分が美人ということを否定はしなかった。
「そっか。難しいんだね」
「難しいのよ」
オリエンテーションの担当教員が入ってきて何やらレジュメを配り始めると僕らの会話は自然と尻すぼみになって終わった。
僕と赤藤さんはよく会話をするようになった。
たまたま選択する授業が似通っていて会う機会が多かったこともあるが、お互い将来の夢がある者同士、シンパシーを感じる部分があったのだろう。たとえそれが全く違うジャンルのものであったとしても、何か高い志を抱いているという点においてはそう大きな違いはなかった。何より夢を抱くものにしか分からない悩みや苦しみを吐き出すことが出来る相手がいる、というのは貴重だった。ぶつかっている壁や難所について彼女に話してみると意外に気分がすっきりして前向きになれるということがよくあった。赤藤さんの方もそれは同じであるようだった。
ただ僕たちはいつだって将来の夢を崇高に、一定の熱量を持って力強く語っていたわけではない。話自体はごくありふれていて、なんてことないものばかりだった。どんな小説を書くのか、どんな劇をやるのか。好きな映画や好きな本の話もした。冗談交じりに、僕の小説が映画化されたら赤藤さんを主役に指名するよ、なんて話をすることもあった。
ある日の夕方、僕は彼女にこんな質問をしてみた。
「今日、赤藤さんの稽古見に行ってもいい?」
「けいこ?」
赤藤さんは大好物のミルクレープを食べようとしていた手を止めた。そして目を見開いて僕の言葉を反復した。突然の申し出に驚いた様子だった。僕は今までに彼女の活動そのものに興味を抱く素振りは見せていなかった。
「いいけど……どうして?」
「今新しい小説のプロットを考えているんだけどね、主人公を役者志望にしようと思ってるんだ。だから実際の稽古場の様子とかを見に行ってみたいな、と」
僕と赤藤さんとを繋ぐきっかけになった「七夕ロマンティカ」は数日前に完結した。赤藤さん曰く、「今世紀最高の恋愛小説」だったそうだ。早く続編か新作を、と彼女に望まれて僕は、2日前くらいから構想を頭に膨らませ始めていた。
「……そういうことなら喜んで力になるよ」
赤藤さんは魅力的な釣り目を細めて微笑んだ。
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