体育館の裏手で私たちはクラスに合流した。時刻は10時50分だった。開演まで残り10分となっていた。

 葬式同然の沈鬱とした空気の中、クラスの輪の中から田村くんが出てきた。

「劇は中止にする。それでいいか?」

 田村くん越しにクラスメートを見ればみんな沈んだ顔である。きっとこの田村くんの意見が総意なのだろう。残り時間10分。主役の矢崎真美はセリフを忘れたまま。もう中止以外の選択肢は残されていない。当然の判断だ。

「今から実行委員に話してくる。多分滅茶苦茶怒られると思うけど仕方ない。んでみんなで舞台に上がって頭下げよう。平謝りすればとりあえずはどうにかなるさ。別に金を払ってまで見」

「待って」

 私は田村くんが説明する段取りを遮った。視線の先にはクラスの輪から外れて座り込んだ真美がいる。残り時間は10分だ。現実問題時間はない。だが私はまだ諦めたくない。

「少しだけ待って」

 真美が何を考えているのか分からない。何で嘘を吐いているのかわからない。努力に努力を重ねてひたむきに歩き続けてきた3ヶ月を彼女は棒に振ろうとしている。彼女が一斉一大の決意をして、自分を変えたいと願って取り組んだ3ヶ月だ。あと少し先にこれまでとは違う自分が待ち構えているのに、どうして真美はここで投げだそうとしているのか。 全ては本人に訊くしかない。

 私は田村くんの脇をすり抜けて真美の前に立った。背後でクラスメートたちが息を呑む音が聞こえた。裏口に固まったC組の目が私たち2人に注がれていた。

「真美」

 私は深く深呼吸をしてから名前を呼んだ。中学から4年間呼び続けたその2文字が、今日この時ばかりは私の口の中に重たく響いた。

 安藤さんから聞いた話をそのまま真美に伝える。周りには聞こえない音量で、真美にだけ伝わるように声を絞った。

 そして聞いた。


 嘘を吐いたの? 本当は全部覚えてるの?


 たっぷりの空白があった。真美は涙の浮かんだ目で、しゃがんだまま私を見上げた。唇が何かを言いたげに小さく動いた。しかし言葉にはならなかった。私は真美が返事をするまで何も言うまいと心に決めて唇を引き結んだ。

 真美はこくりと頷いた。


 その瞬間私は彼女の頬を全力で叩いた。


 怒りと、失望と、悲しみと、その他諸々を込めた手のひらの銃弾。真美の頷きを引き金に放たれた銃弾だ。叩こうと思っていたわけじゃない。気がついたら叩いていたのだ。多分親友だから。私自身も、振り抜いた自分の右腕の先っぽを、驚いた目で見つめた。真美の首は60度横を向いて、頬は一瞬で赤く染まった。見開かれた目が虚空を見つめていた。背後のクラスメートたちは驚いたように小さな声を上げた。

「まみ」

 私は深呼吸をして右手を降ろした。手が出てしまったことに自分でも驚いたが、今は謝るつもりはなかった。

 名前を呼ばれて真美は私を向く。呆然とした顔だった。4年近い付き合いで私が真美のことを叩いたのはこれが初めてだった。そして多分これが最後になる。

「真美は何がしたいの?」

 教えて、と言葉を続けようとして止めた。代わりに、

「何がしたいのか真美からみんなに話して」

 と言った。

 真美は深い穴の底に突き落とされたような表情を浮かべた。私が頼れなくなったことを嘆いたんだと思う。真美は表情を悲しみに崩し、膝の上に拳を握って俯いた。

 私は振り返って田村くんを見た。彼は5本指を立てた。開演まで残り5分を切ったことを伝えているのだと理解した。いよいよ時間はない。だがここで決断を急ぐわけにはいかない。自分勝手で独りよがりかも知れないが、この5分が真美にとっての正念場だ。ここでどう行動するかが、彼女が変われるかどうかに関係してくると思う。

「……」

 私は無言で親友を見下ろす。数時間とも錯覚するような、長い長い数秒の間があった。

 真美は鼻をすすって立ち上がり、目をこすりながら私の横を通り過ぎた。彼女はクラスメートの前に立った。全員の目が一点に、真美の顔に向けられた。泣いた彼女にヤジを飛ばす者も、責め立てる者も、無視する者もいなかった。

「……ごめんなさい」

 真美は開口一番そう言って深々と頭を下げた。長い彼女の黒髪の先が土の地面についてしまいそうなほど深く、深く。

「わ、私は……嘘をつきました。本当はセリフを、忘れて、いません」

 みんなは動揺。顔を寄せ合ったり、囁きあったりした。そんなクラスメートの様子に真美は怯む。私は後ろから、手のひらででそっと彼女の背中を押した。

「……私の演技はまだ不十分です。セリフの怪しいところが何カ所もあります。だから昨日学校に残って練習をしようと思ったんです。どうにかして本番に間に合わせようと、無理矢理にでも台本を頭に詰めこもうとして」

 真美はたどたどしくも続ける。みんなは黙って聞き続ける。

「でも……その、いつの間にか寝ちゃって……垣原さんに起こされて朝になったことに気がつきました。最初はみんながどうして騒いでいるのか分からなかったのですが、しばらくして最初の公演までもう残り時間がないんだってことを知りました」

「頭が真っ白になりました。結局私の稽古は不完全で、セリフ覚えも怪しいままです。到底本番に臨むのは無理です。そんなときに誰かが言った『記憶なくしてるんじゃないか』っていう言葉を耳にして」

「だから記憶をなくしてセリフを忘れたっていう嘘を吐いたの?」

 安藤さんが言った。刃のように研ぎ澄まされた静かな声。真美は少しだけ躊躇いを見せたが、やがて首を縦に振った。

「……怖かったんです。自分が足を引っ張ってクラスみんなの出し物を壊してしまうのが。大事なシーンでミスをしたり、重要なセリフを忘れてしまったり噛んでしまったりしたら。一緒に舞台にてでいるみんなに恥をかかせてしまう。道具や衣装係のみんなを失望させてしまう。私はバカで、物覚えが悪くて、不器用だから。きっと劇を台無しにしてしまう、って。それならいっそ中止にした方が」

「もう十分台無しになりかけてる」

 安藤さんは言う。その通りだった。紛う事なき正論を振り下ろし、真美の言葉を遮った。真美の失踪で混乱し、記憶喪失でまた混乱し、嘘が発覚してさらに混乱。みんなは真美に振り回された。残り時間はもう3分を切った。劇はもう崩壊しかけている。

 真美は言葉に詰まって、

「あ……その、う、ごめんなさ」

 しかし。

「失敗が何?」

 安藤さんの放った一言に、真美は虚を突かれて顔を上げた。

「失敗がどうしたの? 大事なシーンでミス? 重要な台詞を言い間違える? それが一体どうしたって? 失敗なんていくらでもすればいいじゃない」

「え……」

「その結果劇が台無しになったとしても別にいいよ。お客さんに笑われたりバカにされたりしたっていい。観客全員が矢崎さんの演技にブーイングをしたってね、少なくとも私たちはみんな矢崎さんの味方。矢崎さんを主役に選んだの私たちなんだ。矢崎さんのことを信じてるんだ」

「安藤、さん……」

 鬼の演劇部長が微笑んだ。

「私は矢崎さんの演技をずっと見てきた。最初はホントに酷かったけど、凄く上達したと思うよ。何より一生懸命やってたのことを知ってる。毎日1人で残ってたことも。台本に私の指摘をびっしり書き込んで忘れないようにしていたことも」

 そうなのだ。真美は一生懸命だったのだ。これまでの自分から変わろうと必死だったのだ。放課後のカフェに付き合ってくれなくなったし、休日には私の家で一緒にミュージカルや演劇のDVDを見た。私は興味がなかったので半分寝ていたが、真美の表情は真剣そのものだった。登下校の時にはずっと台本を読みながら歩いていた。そんな真美を誰一人としてバカになんかしない。少なくともC組は誰一人として。

「まみっ!」

 私は腹の底から親友の名前を呼んだ。 

「もしお客さんの中に真美のことバカにする人がいたらね! 私が客席にダイブして片っ端から全員タコ殴りにしてやるから! 停学だって退学だって上等だから!」

 立花家の女には、親友をいじめる人に鉄拳を振るわなければならない掟があるのだ。

「いくらでも間違えてこーぜ矢崎!」

「何なら最初から最後まで噛みまくれ!」 

 田村くんと鰐淵くんが拳を突き上げた。

「そーだそーだ気にすんな!」「もしかしたら成功するかも知れないじゃん」「どうせお客さんは失敗なんか気付かないよ」「主役は真美ちゃんにしかできないんだから!」「ミスも矢崎さんの愛嬌だよ!」

 C組のみんなが一斉に声を上げた。乱れかけていた心が再び繋がり始めて、士気がぐんぐんと高まっていくのを私は感じる。私たち1人1人の心で再燃した意気が、確かな熱量で体育館裏を焼き払ってしまいそうだ。

「矢崎真美!」

 みんなが一斉に真美を見る。真美は袖で涙をこすって拭う。斑になったメイクの下で笑みを取り戻した。

「ありがとう、みんな」

 そして彼女もまた小さな手で拳を握り、

「私、やる! やってみる!」


 時刻は10時58分。残り2分。

 田村くんが体育館に飛び込んで文化祭実行委員に最後の交渉をする。開演時間を数分だけ遅らせてくれ、と必死の形相で伝える。その間に私たちはみんなで体育館に雪崩れ込む。大道具係はセットを並べ、音響係はミキサーの前で構える。衣装係とメイク係が役者陣を囲んで最終チェックをする。照明係は舞台袖の梯子を上がって2階のキャットウォークへ。

 私は最後に親友の背中をばしんと叩き、サムズアップ。さっきとは打って変わって晴やかな顔になった真美が、渾身の笑顔を見せる。そんな彼女の口元は少し、緊張している。

「いったれ、まみ!」

「ありがと、ゆいこ!」

 私は勢いよく梯子を駆け上る。開幕してすぐに出番がある。照明係として親友の晴れ舞台を華々しく照らしてやるのだ。

 キャットウォークから、幕の下りたステージと一杯になった客席を見渡す。これを目の当たりにしたらきっと真美は卒倒しそうだな、と思う。だがそれでいい。卒倒したら卒倒したでいいのだ。全力でやればいいのだ。もしも初っぱなから彼女が失敗しても、私はそれもきちんと照らしてやる。失敗しても失敗しなくてもこの劇の主役は真美。全力で演じればいい。

 ブザーが鳴る。

 文化祭実行委員会のアナウンスがあって、我らが一年C組の劇のタイトルが告げられる。隣に座るクラスメートが「いよいよだね」と囁く。私は力強く頷く。

 照明のスイッチに指をかける。矢崎真美は一皮剥けて新しく生まれ変わるのだ。私はそんな親友の門出を一番に祝福してやる。目一杯の光を彼女にぶちまけてやる。

 そしていよいよ、舞台の幕が上がる。

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