③
「……終わりだ」
誰かが言ったその言葉が引き金になった。
「矢崎マジで?」「ホントに何も覚えてないの?」「嘘でしょ? 嘘って言ってよ?」「やばいよやばいよ」「何記憶喪失ってマジ?」「今何時? 10時15分? 絶望だ」
狂騒、再び。
オアシスが見えたら一転砂嵐に巻き込まれてしまったような事態だった。しかも記憶喪失なんていう荒唐無稽の出来事は、恐らくクラスの誰もが想定していなかった。
「まみまみまみまみ」
私は親友の肩を前後に激しく揺すった。こうすれば記憶が戻ると思った。しかし私の努力虚しく真美は「おぇっ」と気持ち悪そうにえづいて俯き続けるだけだった。
「やばい。マジでやばい。俺のせい? 俺が言ったから? 現実になった?」
田村くんは自分を指差しながら脂汗を浮かべている。みんなは彼に冷ややかな目線を向ける。勿論誰一人として田村くんのせいだとは思っていないが、この超危機的状況下においては誰かに責任を転嫁しなければやっていけないのだろう。
「と、とにかく! どうにかしよう! なあ!」
鰐淵くんが大声で言う。
「どうにかってどうすんんだ!」
「う……や、矢崎の記憶を蘇らせる!」
「どうやって!」
誰かが野次る。その通りだ。どうやればいいんだ。
「よ、ようはテレビとかパソコンと同じだ。つまり、そのつまり」
「殴るつもり?」
私は拳を握りかけた鰐淵くんを睨む。冗談じゃない。ただ鰐淵くんも鰐淵くんで気が動転しているのだろう。彼も真美と同じく役者の1人で、しかも結構重要な役所だ。この劇にかける思いは強いし、今日に対する緊張感も照明係の私とは大違いのはずだ。
「いや、その……」
鰐淵くんは狼狽。私はとりあえずそれ以上責め立てない。
「矢崎にセリフをねじ込もう。残り45分で。全部覚え直させるんだ」
「馬鹿言うなよ。お前矢崎さんがセリフ暗記すんにどれくらかかったと思ってんだ」
人一倍物覚えの悪い真美は自分のセリフを覚えるのにほかの人の数倍の時間を要した。
「脚本書き直す? 真美ちゃんのセリフを極限まで削って」
「いっそ真美ちゃん抜きの脚本に?」
「そんなこと出来るわけねーって。劇破綻寸すんぞ」
もっともだ。真美は主役なのだ。残り時間40分と少しで主役を抜いて脚本を再構成するなんてプロですら出来るかどうか怪しい。
「代役! 代役は! 代役立てよう!」
「誰がやるのよ!」
「おーい、天照浦和大輝星深谷葱春日部姫の台詞丸暗記している奴いるか!?」
数人が手を挙げる。しかし全員、役者陣だ。それもメインキャラクターや出番の多い面子ばかり。彼らが真美の代役に立っても、今度はその中の一人に代役を立てなければならない。堂々巡りだ。
「終わりだ……もうダメだ……」
「中止だ……中止しかない……」
何人かは教室の隅っこで車座を描いて頭を抱えている。
クラスはバラバラだ。私だってどうすればいいか分からない。セリフねじ込み案も脚本修正案も代役案も、無謀だ。かといって私に何か案があるわけでもない。
真美は椅子の上に体躯座りをして、膝の間に頭を埋めている。身体が小刻みに震えている。しゃくり上げる声が聞こえている。泣きたいのはこっちだ。いっそ殴ったら思い出すだろうか。そんな野蛮な考えが頭を過ぎる。しかしそんなことは出来ない。立花家には、女の拳は浮気した男と親友をいじめる人にしか使ってはいけないという掟があるのだ。
最後の砦、安藤さんを見た。鬼の演劇部長の彼女なら、この状況をどうにかしてくれるかも知れない。私は一縷の期待を込めた目を彼女に向けた。
安藤さんは一人窓辺に向かって何かを考えていた。クールでビューティーな彼女が窓辺で黄昏れているとなんだかそれだけで水彩画のように映えるし、あまりの涼やかさでこの狂騒を一時忘れさせてくれる。
しかし現実は現実。真美は記憶をなくしているし、開演まで残り時間はもう少ない。
安藤さんはくるりと身体の向きを変え、私と真美の元にやってきた。喧噪の間を抜けてくる彼女の姿は救いの女神のようにも見えたが、目つきは魔神のように鋭かった。彼女が土台を固めた劇が目の前で今崩壊しようとしているのだ。怒りは相当だろう。ひょっとすれば今すぐ真美の脳天に踵落としの1つでも決めて無理矢理記憶を引きずり出そうと考えてすらいそうだった。
「あ、安藤さん。真美も真美で困って」
矢面に立った私をするりと躱して安藤さんは真美の前に立つ。
「矢崎さん」
鉄槌を振り下ろすような声。私は緊張する。真美も「ひっ」としゃくり上げる。
「覚えている事だけでいいわ。昨日のことを話してちょうだい」
言葉は優しいが、口調は重い。
「え……っと」
真美は言いよどむ。何度か唾を飲み込み、何度か手を握って開く。そして手の甲で涙で赤くなった目を拭った。
「何も……なに、何も覚えてないの。ごめん、なさい」
「本当に何も?」
「そのえっと……」
「なんで昨日帰らなかったの。友達の家に行くとご両親に連絡したのは、なぜ?」
「学校に残って練習しようと思って……その、いつもの場所で練習していたんだけど」
「いつもの場所」
「1階西廊下の階段裏のことね」
私はそっと安藤さんに助言した。彼女は眉をひそめて頷いた。
「それで。そこで練習したあとは?」
「えっ………と…………何も、覚えて、ない」
真美は俯きながら手を握ったり開いたりした。
「……わかったわ」
何が分かったのか知らないが、安藤さんは頷いた。すると彼女はぶつぶつと何かを呟きながら真美の側を離れる。
「安藤さん?」
私の呼びかけに対する返事はない。彼女はそのまま喧々囂々な教室の扉へ向かっていく。今ここで彼女がいなくなったら誰がこの事態に収拾を付けるというのか。追いかけようと思ったそこへ、
「立花ああ」
田村くんが泣きついてくる。
「ちょっ……」
「どうしようやべえよ。なんかねーのかよ、アイデア」
私がマッシュルーム田村に迫られているその間に、安藤さんは教室を出て行った。残り時間は30分と少し。もう絶望的な時間だ。なのに意見は纏まらない。おまけに頼みの綱の監督は何故か出て行った。
まさか安藤さんがC組を見捨てたとは思わない。劇にかける思いは彼女が一番強いはずだ。想定外の事態に阿鼻叫喚の地獄絵図になっているからと言って、安藤さんが逃げ出すわけがない。私は彼女をそんな人間だとは思わない。安藤さんなりに何か考えがあるのだと思う。
私は田村くんを押し退け、教卓の上に立った。安藤さんが戻ってきてどういう決断をするのかは分からない。劇をやるにせよ中止にするにせよ、準備は整えておくべきだ。私はただの照明係だけれど、今この状況で一番落ち着いている自信がある。だから一際高い位置からみんなを見下ろし、言った。
「みんな聞いて! 混乱するのは分かる! すっごいやばいことが起きてるのも分かる!でもただ慌ててるだけじゃ意味がない! このまま慌ててもいい代案は出ないし、きっとまとまらない。だからとにかく今は劇の準備を整えよう!」
騒ぎの荒波が凪いでいく。私は言葉を続ける。
「大道具、音響、小道具、照明はとにかく体育館に行って準備を。メイク衣装役者は残りの準備を進めて。真美にもメイクをお願い!」
しん、と。
私はたったこれだけ叫んだだけなのに息が上がってしまった。変な汗も出ていた。大いに出しゃばったのだ。猛烈なブーイングが返ってくる可能性もある。それも覚悟の上だ。
ところがみんなは私の意見に賛同してくれた。
それぞれ落ち着きを取り戻し自分の役割を果たすために動き出す。私は照明係として体育館に向かおうとしたが、なぜかみんなは私に「監督代理」という新たな役職を押しつけてきた。教室に残り、どうにか真美の記憶を取り戻せ、と頼まれた。
無理難題だが私は拳を握って「合点承知」と堂々答えた。空元気だ。真美の記憶を取り戻すための策があるわけない。しかし折角纏まったクラスの気持ちを乱したくなかった。
そう。
クラスの気持ちが纏まるという第1段階はクリアしたのだ。あとは真美の記憶をどう取り戻すか。それが全てだった。
10時45分。残り15分。
万策尽きた。
真美の記憶は戻らない。話しかけても彼女は俯いて首を横に振るだけ。「もう、中止にしよう」と真美が情けないことを口走ったときには張り倒しそうになったけれど、ぐっと堪えた。辛いのは真美も同じなのだ。いや、私より真美の方が辛いのだ。
教室に残っていた役者陣は各々青ざめた顔で立ち上がり教室を出て行く。死刑台へ向かっていく囚人のように腐った後ろ姿だ。私も真美の肩を叩いてみんなの後ろに着いていった。C組の役者陣は隊列を組んで廊下を往く。煌びやかな衣装を纏って、しかし顔は死んでいる。生徒や来校者たちは遠目には微笑ましげな目を向けるが、近付くにつれて頬を引き攣らせていく。私はそんな最後尾を歩く。私の1つ前を真美が歩く。メイクも衣装もバッチリなのに、肝心のセリフだけが抜け落ちてしまった真美が。
教室のある4階から体育館のある1階まで、誰一人として言葉を交わすことなく降りていった。体育館が近付くにつれて気が重くなってくる。私たちの前にステージを使っている団体が大いにフロアを盛り上げている声が聞こえてきた。心なしか道中に擦れ違う人たちが「がんばれよー」と無言で応援をしてくるような気がした。ありがたいはずなのに一切ありがたみがなかった。
そんな気分で歩きながら下駄箱の前に差し掛かったときだった。視界の隅で何かが動いているのが見えた。足を止めてそちらを見ると、誰かが私に向かって手を降っていた。
安藤さんだった。
私は驚いて手を口に当てた。安藤さんは人差し指を唇に当てて手招いている。どうやら私だけを呼んでいるらしい。幸い真美や他の役者陣は誰一人として安藤さんの姿に気がついていないようだった。
私は足音と気配を殺して隊列を外れ、安藤さんの元に小走りで近付いていった。
「どうしたの?」
安藤さんは私を下駄箱の影に引き入れて声を潜める。残り時間は12分ほど。いつも冷静沈着な安藤さんにも、流石に少し焦りが見えた。
「単刀直入に言う。矢崎さんは嘘を吐いてる」
「……うぇ?」
「多分矢崎さんは記憶をなくしてなんかいない。きっと。記憶をなくしたように見せかけているだけ」
「……まさか真美がそんな演技なんて出来るわけ」
いや。真美はこの3ヶ月間みっちり安藤忍のスパルタ指導を受けたのだ。少なくとも並以上の演技力は身に付けた。昔より上手く嘘を吐けるようになっていてもおかしくない。
「でもそんな」
「矢崎さんの演技には癖があるの。演技に自信がないとき、彼女は両手を握ったり開いたりする。ぐっぱぐっぱするのよ」
「ぐっぱぐっぱ」
思えば安藤さんは何度かその事を真美に注意していた気がする。
「さっき話を聞いたときもそうだった。矢崎さんは無意識に同じ癖を見せていた」
「だ、だからって」
「勿論それが全てじゃない。彼女の癖はきっかけ。私はそれを見て『もしかしたら』って思ったの。それで今短い時間を使って調べた。不備はあるかも知れないけど」
「調べた……じゃあ教室を出て行ったのって」
安藤さんは頷く。真美が本当に記憶をなくしていないこと、真美が嘘を吐いていること、それを確かめるために校内を走り回っていたみたいだ。
「矢崎さんは昨日1階西廊下の階段裏で自主トレーニングをしていたって話をしていた。でもあそこは昨日から文化祭の備品置き場になってて入れないのよ」
「あ……」
私が真美を探して立ち寄ったときもパイプ椅子とかその他諸々に埋め尽くされていた。
「それから守衛さんに話を聞いた。先生から無理矢理電話番号を教えてもらってね。守衛さんは昨夜恐怖体験をしたって話をしてた。体育倉庫の近くを通りかかったら女の声が聞こえたって。『どこにいるどこにいる』って何かを探してる声が聞こえたって。それって多分矢崎さんが一番苦手にしていたセリフだと思う。何十回と噛んでた」
「言われてみればそうかも……」
「そして発見したときには誰も気がつかなかったけど、これ」
安藤さんはそう言って何かを私に差し出した。真美の台本だった。
「体育倉庫で見つけたの。備品の影に隠れてた」
私は真美の台本を開く。もの凄い量の書き込みがあった。間を開ける時間や、セリフの抑揚の付け方、意識すべき感情、一口メモなどなど。自分のセリフがあるページにはビッシリとシャーペンの文字が刻まれて真っ黒だった。真美の努力の結晶だった。
「これは私の予測だけどね」
安藤さんは言う。
「矢崎さんは昨日、本番前日だと言うこともあって居残りで自主練をするつもりだった。ところがいつもの場所は備品が一杯で使えなかった。だから人に見つからずに練習出来る場所として体育倉庫を選んだ。そして練習をしているうちに朝を迎えた。その間彼女の身に何かが起きて、嘘を吐かなければならない状況に陥った」
「何かって……」
「ごめん。そこまでは私も調べることはできなかった。でも彼女が嘘を吐いていることは間違いない。なんで嘘を吐いているのかは分からない。私の予測が正しければ、彼女がやっていたことには何の非もないし」
それはそうだ。安藤さんが集めてきた情報をつなぎ合わせても、真美がただ真面目に演劇に取り組んでいた姿しか浮かび上がってこない。真美が嘘を吐く理由にはならない。
「立花さん、お願いがあるわ」
安藤さんは真面目に私を見て言う。何を言われるかは察しが付いた。
「真美を説得すればいいんだね」
「ええ。無理に嘘を暴かなくてもいい。やり方は任せる。どういう結果になっても私は文句を言わない」
「まかせて」
私は頷いた。拳をグッと握りしめる。真美は私の親友だ。真美が何か悩みを抱えているのならばそれを取り除いてあげられるのは私だけだ。少なくとも1年C組の中では。
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