そして舞台の幕が上がる

 はりぼての街中に1人の少女が佇んでいる。制服姿ながら少しでも雰囲気を出そうとして黒髪のてっぺんには試作品のティアラが乗っている。少女は小さく息を吸い、手を何度かぐっぱぐっぱと閉じたり開いたりし、やがて意を決したように拳を握る。

 私はここでスポットライト代わりの懐中電灯を彼女に向ける。一呼吸の間があって、完璧なタイミングで最初のセリフが始まる。

「私は埼玉裏御三家、天照浦和大輝星家が長女! 深谷葱春日部姫ですわ!」

 彼女は両手を広げて声高に、堂々と名乗りを上げた。水の中のような静寂が一瞬。様子を見守っている他のクラスメートたちが、ゴクリと唾を飲む音が聞こえる。無遠慮に誰かがスナック菓子を食べる音も。私が向ける懐中電灯の青白い光を浴びた深谷葱春日部姫は、少しだけ眩しそうに目を細めた。私は心の中で「ごめんちょ」と謝りながら懐中電灯の位置を修正。姫は、だんっ、と床を抜くくらいの力強さで足を踏み込み、声を張る。

「さあ! 私も今日で18歳。いよいよ大人の女になりましたの。故郷埼玉を離れ、お父様やお母様に別れを告げ、東京へやって参りました。さすがは魔都・東京! 見るもの聞くもの全てが幻想的で、煌びやかで、美しいですのね! でもどこか人の心を絡め取ってしまいそうな恐ろしさも、感じます。本当にこんなところに私の婿に………埼玉の次期王に相応しい男がいるのかしら……いえ、きっといますわ。探し出して見せます、お父様、お母様! さあ、私に最も相応しい男はどこ? 天照浦和大輝星深谷葱春日部姫の婿として、埼玉と日本の未来を担うにたる人物は! どこにいりゅっ……るりゅっ……の!」

 噛んだ。

「ストップ」

 監督の声が問答無用に響き、劇は中断。私はスポットライト代わりの懐中電灯のスイッチを切る。薄暗かった教室が明点し、裏方のクラスメートたちがわらわらと動き出しべちゃべちゃとしゃべり始める。舞台の中心にいた天照浦和大輝星深谷葱春日部姫、もとい私の友人である矢崎真美は1人、しゅんと俯いていた。

「矢崎さん」

 凜としたその声に教室の雑談がぴたりと止んで、代わりに緊張感が張り詰める。劇を真正面から見守っていた鬼の演劇部長、安藤忍が立ち上がった。私たちが文化祭でやるクラス演劇『ロストワールド~東京埼玉百年戦争~』の脚本と監督である。安藤さんは眉を目を鋭く釣り上げたトレードマークの腕組み仁王立ちで、縮こまる真美を睨むように見た。

「噛んだね」

「……はい」

「同じところで噛むのこれで23回目。23回も同じ間違え方してる。今日だけでも8回。分かってる?」

「……はい」

「やりなおし。それから意味もなく手を握ったり開いたりするのやめて。演技に自信がないときいつもそれやってる。悪い癖。直して」

「はい」

 真美は頷くしかない。私は彼女を可哀想だと思いつつも、安藤さんの言っていることは何一つ間違っていないので仕方がない。真美は噛みすぎだ。

「田村くんのナレーションからもう1回」

 安藤さんは平坦な声で指示を飛ばすと、映像を逆再生したみたいに後ろ向きで椅子に戻った。無言のまま台本を開き直し、舞台袖に立つ田村くんへ指で合図。田村くんはびびった様子でナレーションを始める。真美はまだ怒られたことを引き摺っているのか俯いたままだ。そこへ安藤さんの声が矢のように飛ぶ。

「矢崎さん。もう始まってる」

「あっ……はい!」

 真美は慌てて顔を上げて劇に加わっていく。慌てたまま自分のセリフが回ってきてしまい、一歩出遅れた挙げ句に酷く噛む。「私」というセリフを「たわし」と言った。呆れるような言い間違えだ。安藤さんの叱責は容赦なく飛んだ。

「集中してない」「腹から声が出てない」「噛んだ」「それは次のシーンのセリフ」「棒読みすぎる」「もっと堂々と演技して」「立つ位置がおかしい」

 などなど。

 その度に真美は必死になって謝る。安藤さんはどれだけ真美が泣きそうになっても優しい言葉はかけない。どこまでも全力で厳しくする。

 照明係の私は親友が怒られている様子を眺めながらライトを点けたり消したり動かしたりするしかない。でも心の中では常にエールを送り続けている。

 がんばれー。


「私、変わりたいの」

 と親友の矢崎真美から相談を受けたのは、文化祭から遡ることおよそ3ヶ月ほど前の6月頭のことだった。

 私たちはいつものようにめんどっちー授業をなあなあで片付けて週一の楽しみである放課後カフェタイムを満喫していた。もっとも真美は真面目な子なのでなあなあで授業を過ごしたのは私だけかも知れないがまあそれは気にしない。

 私が新作のフラペチーノを頼み、真美は王道の抹茶チョコレートバナナフラペチーノを頼む。ここまではいつも通りだった。

 ところが席に着くなり真美は単刀直入に言った。

 私、変わりたいの。

「変わりたい、って?」

 私は訊ねた。真美と出会って4年ほど。彼女から相談事を受けるのは多分初めてだった。だから少し身構えた。軽薄な自覚がある私は、身構えでもしないと親友の相談へ全く持って見当外れで適当な言葉を返してしまいそうな気がした。

「私、引っ込み思案で、あがり症で、物覚えが悪くて、クラスでも目立たなくて……そんな感じじゃない?」

「うん」

「中学の時はそれで少しいじめられたこともあったから。私、高校ではもっと違う自分になりたいの。今までとは違う新しい自分になりたいの」

「ほうほう。高校デビューしたいってわけだね?」

「ち、違うよ! 高校デビューじゃなくて」

「可愛くなって彼氏作って制服デートで埼玉の浦安までネズミを追っかけて行きたいわけだね?」

「浦安は千葉だよ………じゃなくて。高校デビューっていうよりも、この引っ込み思案で自身がないダメな私を変えたいの。ううん。変えることはできなくてもいい。ただせめて変わるためのきっかけが欲しいの」

「なるほど!」

 私は頷いた。確かに高校デビューをするにしては少々タイミングが遅すぎる。もう入学して2ヶ月が経ち怒涛の6月に突入した。ジューンブライトだし華の体育祭も終わったし、この時期は彼氏作りがあらかた終わりを迎えている時期だ。

 でもただ変わるというだけなら話は別だった。むしろ、絶好のタイミングだ。


 そういう訳で私は彼女をクラス演劇の主役に推薦したのだ。

 カフェで相談を受けた次の日が文化祭準備に当てられたホームルームだった。しかも怖くなるくらいの強運で、配役を決める日だったのだ。

 クラス企画長の安藤さんが黒板に役目を全部書き終わるとは私は真っ先に手を挙げ、差されるよりも早く、電光石火の勢いで真美を推薦した。

 真美は人に強く言われたら断れない性格だ。私がロジカルに彼女を推薦する理由を説明してみせれば、真美はどうにも言い返せなくて「やります」と頷くしかなかった。クラスのみんなが驚いていたし、安藤さんだっていつものクールビューティーな双眸を丸めていたけど、関係なかった。反論もなかったし。なぜなら劇の主役をやりたがる人はいなかったから。みんなは真美を人柱に捧げたつもりだったのである。企画長の安藤さんだけは一度反論してみせた。

「やる気がない人が主役になっても意味がありません。劇は失敗します」

 とかなんとか。

 けれども私の意図を察した真美が「やります」と意外にも強い声で言ったことで安藤さんは納得したようだった。真美は主役に抜擢され、自分を変える絶好の機会を得た。

 一方私は易々と照明係の座を手に入れた。


 そして本日、文化祭当日である。

 真美は安藤忍による地獄の演技指導を耐え抜いた。その期間およそ二カ月とちょっと。容赦ない叱責とダメ出しを受けて最初は何度も投げ出しそうになっていたけれども、真美の「変わりたい」という意識はどうやら相当に固かったようだ。何が彼女をそんなに突き動かしていたのかは私には分からなかったが、人が「変わりたい」と思うことに理由なんていらない。真美は変わりたいから変わるのだ。

 当日の朝私は一番に教室に着いた。

 あまりに早く着きすぎたので私は守衛さんと立ち話をした。のっぽで細身の守衛さんは眠そうな目をこすりながら、昨夜の学校で遭遇した怖い話を教えてくれた。体育倉庫の辺りをパトロールしていたら、どこからか不穏な女の声が聞こえてきたらしい。『どこにいる、どこにいる』って何かを探し求める声。正体を知るのが怖くて守衛さんは逃げ帰ったそうだ。仕事を放り出したようにも聞こえるが、仕方がない。幽霊や怪異なんていう物理的にいかんともし難い相手は、きっと業務内容に入っておらず警備対象外なのだから。

 教室は前日まで皆が準備に取り組んでいたせいで酷い有様だった。机と椅子はぐちゃぐちゃのめっためたで黒板はよく分からない図と絵で充ち満ちていてあちこちに廃材や布切れが転がっていた。ひっくり返したおもちゃ箱。真っ先にそんな考えが浮かんだ。だが実体はそんな素敵メルヘンな代物ではなくて、人の手が入らなくなって久しい廃墟という感じなのだけれども。

 私はそんな教室の有様を見ながら感慨に浸る。

 クラス企画が演劇に決まったとき、それはまあ随分と皆不平不満を言ったものだ。折角高校に入学したのだからもっと違うことがやりたい。模擬店がやりたい。お化け屋敷がやりたい。メイド喫茶マンガ喫茶休憩所縁日云々。しかしまあ統一感がなくて議論は侃々諤々収拾が付かなくなり結局担任とクラス企画長の判断によって演劇になった。だからみんな乗り気じゃなかったしブーブーブーブーうるさかった。かく言う私も演劇なんて七めんどくさいし小中で散々やって飽きていたというのもあって正直反対だった。あと万が一にでも消去法で役者にさせられでもしたら溜まったもんじゃなかった。私は何度人生をやり直しても絶対に役者になる世界線は巡ってこないだろうという自負があるくらいに演技の才能がないのだ。

 ところがどっこい。

 いざ取り組んでみれば結構みんな集中していたし楽しそうだったしなんだか日が経つにつれて熱くなっていった。最初にクラスで目立たない存在の真美が主役に名乗りを上げる(私の推薦)というウルトラCを決めたせいもあるかも知れない。真美を皮切りに役者陣はすんなり決まって、望まない役者が公開処刑にされる難を逃れた。役者が決まればあとはもうトントン拍子にそれぞれの役割が決まった。UNOで親になってカードを配る方がよほど難しいんじゃないかなってくらいに。真美のそれがクラスに何らかの化学反応をもたらして一致団結させたのだろう、と私は思っている。

 時計の針が八時を回ってクラスメートが続々と登校してきた。大道具係が揃って衣装係が揃って照明係も揃った。私は照明係の輪に入ってタイミングや配置の最終チェックをする。私はみんなに熱く主張して最初と最後のシーンで真美にスポットライトを当てる役割を手にしていた。やっぱり親友の晴れ舞台を彩るのは私じゃないと。

 時計が八時半を回ってみんながそわそわし始めた。九時に体育館で開会式が始まる。二日間に亘る文化祭の幕開けだ。そして11時には私たち1年C組の演劇が体育館で初公演を迎える。満席になればおよそ100人単位の観客が入るだろう。およそ3 ヶ月の練習の成果を見せる時だ。緊張と不安とがいい具合に混じり合っている。ピリピリと身体中に電流が走っているようだ。11時になって欲しくない。いや、早く11時になって欲しい!

 8時半を過ぎた頃、みんなのそわそわが別の種類に変わる。演劇の公演を目前にした緊張感から来るものではない。もっと大きな不安だ。

 真美が来ないのだ。

 8時三35分になってガラリと教室の戸が開いた。みんなはいっせいに扉の方を見た。

「まみ!」

 私は反射的に名前を呼んだ。

「あ? 何言ってるんだ立花?」

 教室に入ってきたのは担任だった。太っているせいで他人の3倍は出る汗を拭いながら、担任は人のいい笑みを浮かべる。ところが一秒後にはクラスに漂っている雰囲気を察して顔の肉に笑顔を引っ込めた。

「あ、あー。点呼を取るぞ。安藤、飯倉、石本、宇垣……」

 みんなは先生の声に淡々と応じていく。いつもならここでふざけて奇声を発する男子がいるのに、今日は誰一人として奇声を発しなかった。私も含めて。

「……輪島、鰐淵。これで全員か」

 先生が点呼を取り終わる。矢崎、に対する返事はなかった。先生は最後にもう一度「やざきー」と呼んだがやはり返事はない。教室を見渡しても勿論、幸薄げな真美の姿はどこにもない。

「せんせー!」

 私はびっと手を挙げる。

「真美から何か連絡は?」

「いや、俺のところには何にも……」

「遅刻とか体調不良とかそういう連絡も?」

「そうだな。何も連絡はない。一応職員室に戻って家に電話を入れてみるつもりだけど」

「お願いします。一刻も早く」

 私が詰め寄ってそう言うと先生はがくがくと頷き、豚足を振るって教室から走り去っていった。どたどたと廊下を駆ける音が角を曲がって消えると、クラスが一気に動揺した。みんながざわざわと身を寄せて囁きあう。安藤さんは窓辺に寄りかかって、神妙な顔で一点を見つめていた。

 時刻は8時50分。そろそろ開会式が始まる時間だ。

 私は自分のスマホを引っ張り出した。真美の番号を呼び出して電話を掛ける。無機質な呼び出し音が鳴り続ける。

 真美は一体何をしているのか。何か忘れ物をして取りに帰ったのか、電車に乗り過ごしたのか、あるいは寝坊したのか。もしもまだ寝ているようなら私がひとっ飛びに彼女の家まで迎えに行って叩き起こす。そして登校の支度を調えて両足を引き摺って意地でも開演までに真美を学校へ連れてくる。

 けどもし当日を迎えて嫌になって逃げたのなら。今頃いつもとは違う方面の電車に乗って海だか山だかへ向かって揺られていたら。

 私は最悪の展開を考えて首を振った。

 彼女が変わりたいと望んで掴んだ主役の座。文化祭は彼女が引っ込み思案で緊張しいな自分を変えるための絶好の機会。ここを逃せば次はいつどこでどうやって変わるのか私には考えもつかない。真美は3ヶ月頑張ったんだ。まさか土壇場で逃げ出すなんてこと………

 真美は電話に出ない。

 呼び出し音だけが虚しく耳の奧に響いてくる。

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