第1話 廃屋の片耳ウサギ - ⑤
マイの根性は想像以上だった。そして俺の我慢は想像以下だった。
夜明けが廃屋の闇を溶かし、日が高くなって昼に近付いても、マイは寝なかった。俺は何度かこっそりとあの部屋へ行った。マイはおろか他のガラクタ連中にも見つからないよう細心の注意を払って。しかしいつ行ってもマイは起きていて、意識が飛んでしまわないように床のガラクタたちを手当たり次第にいじくりまわしていた。
対する俺はパイプがない状況にどうにも落ち着かなくなっていた。パイプの代わりに適当な木片に腰を掛けてみても、尻の位置が落ち着かない。パイプのトップ部分の穴ぼこが、俺の尻にはジャストサイズ。パイプは俺にとって最高級のソファだった。だが俺も並みのガラクタ以上の根性はある。修羅場だって幾つも耐え抜いた。パイプ1つに落ち着きを左右されるような柔い精神は持ち合わせていない。
と自分に言い聞かせては見たものの、やはり気持ちが落ち着かない自覚はあった。
廊下や部屋を行ったり来たりして、パイプの代わりになる何かをダラダラと探していた。
昼過ぎにクドウが帰ってきた。手には昨日と同じくコンビニのビニール袋を提げていた。クドウは昨日以上にイライラした様子で廊下をあの部屋に向かって歩いて行った。俺は静かにクドウに近付いて、耳だけをあの部屋に傾けた。クドウは怒っていた。何を言っているのか分からない怒声と、激しい物音と、ビニールの擦れる音が聞こえた。やがてクドウが戻ってきたので、俺は手近な物陰に隠れた。
「今日と明日。あと2日だ。くそ。何で僕のご飯食わねえんだ。死んだらどうすんだ。パーだぞ全部。クソ。食えよ。ねじ込んでやろうか。今日はケーキだって買ってきたんだぞ。クソ。ガキのくせに。死ね死ね」
唾と罵声を撒き散らして歩いてきたクドウは、手に持っていたケーキを怒りにまかせて壁に叩きつけた。プラスチックケースの蓋が外れ、中のショートケーキが壁に平たくなる。生クリームが放射状に広がった。どうやらマイは食事も拒否し続けているらしい。
見上げた根性だ。少なくともあの子どもに負けるわけにはいかない。自分でも変だと分かる対抗心を燃やし、俺は洋室の収納に戻った。
マイは耐えた。
いつ彼女の様子を見に行っても彼女は起きていて、床にはクドウの持ち込んだ食糧が山を築いていた。そのどれにも彼女が手を付けた形跡はなかった。
マイの身体がやつれていくのはぬいぐるみの俺の目にも明らかだった。当然だ。水も食事も睡眠もなく過ごしているのだ。体力も確実に減衰していて、ガラクタたちを触るのがやっと、という感じだった。状況はそろそろ彼女の生死に関わってくる。
そんな中で3日目を迎えた。
俺はもうパイプのことなどほとんど忘れかけていた。ただマイの様子だけが気がかりで、あの部屋を訪れるようになっていた。いくら大嫌いな女の子どもでも、死なれるのだけは気分が悪かった。死なずにここから消えてくれればそれがベストだ。
昼前にクドウがやってきた。例によって手にはコンビニのビニール袋、そしてポリバケツを持っていた。バケツの中には水が張ってあって、クドウが歩く度にちゃぽちゃぽと音を立てた。
クドウの後ろを付いていき、俺は入り口の物陰に潜んで様子を覗う。
「ご飯だ」
ぼそりと言ってクドウはコンビの袋をマイに投げた。マイにはそれを庇う体力もなく、袋が頭に当たって彼女はそのまま倒れた。鈍い音がして、ガラクタたちが散らばる。連中はマイに潰されないように、絶妙な動作で彼女の身体を回避していた。
「……おい?」
クドウは掠れた声を漏らす。バケツを足下に置き、床に倒れたマイを抱き起こす。かなり乱暴に。人型のゴミを扱うみたいに。
「死んだのか? おい? 死んだのかお前?」
不安げに震える声を掛けながら、クドウはマイを揺する。俺は生唾を飲み込んだ。ガラクタたちにも無音の緊張が広がっていくのがわかった。まさか。そんな。
「ああああああああッ」
男はマイを投げ捨てた。頭を掻き上げ奇声を発し、その場で意味不明に飛び跳ねた。
「だから言ったんだ! 飯を食えって! 死んだら意味ないんだよ! 死んだら金にならねえんだよ! ふっざけんなよ! 俺が! 俺が親切に! クソ! クソクソクソクソ! お前のせいで俺が死ぬんだ! 俺の苦しみが分かるのか! ああ! 死ね! 死ねクソガキ!」
理性を失ったクドウは足下のガラクタたちを蹴散らし、側に転がっていたモノを意味もなくひっくり返した。そんな男の絶叫の最中に、ささやき声が聞こえた。
「ぱ……ぱ……ま……ま」
「……ッ」
クドウはその消え入りそうな声を聞き分けて、奇声と暴走を止めた。
床に転がったマイがこけた頬にうっすらと笑みを浮かべていた。乾いてひび割れた唇が、何事かを囁く。声は聞こえない。多分うわ言に違いない。弱り切って垂れ下がった手の先も微かに動いていた。死んではいなかった。だが彼女の体力は限りなく限界に近かった。
「生きてたのか。なんだ。生きてたのか。よかった。ああ。死んだかと思った。よかった」
さっきまでの狂乱が嘘だったかのようにクドウは落ち着きを取り戻す。そして床に置いていたバケツを手に取ると、垢まみれの手でその中身を掬ってマイの口に運んだ。
「さあ。飲め。水だ。食べなくていい。水は飲みなさい。飲まないと死ぬぞ。いやだろ」
マイは口を開かない。小さな彼女の身体に残っている全力を賭して、口を閉じている。クドウがマイの口元に運ぶ水は、だらだらと顎の下へと逃げていく。
「ほら。口を開いて。飲め。口を開けろ。飲むんだ。飲むんだ。飲め。飲め! 飲めって言ってるだろ! 飲まなきゃ死ぬんだよ! 死なれたら困るんだよ!!」
マイは口を開かない。上下の唇は縫い付けられたみたいにビクともしない。クドウは耐えかねて、バケツをそのまま抱えた。言葉にならない奇声を上げて、中の水をマイの顔にぶちまける。やつれた少女の顔が水圧に負けて壁に激突する。俺はたまらず顔を逸らした。
「ハァ──ッ……ハァ──……ッ」
クドウは肩で荒い呼吸を繰り返し、空っぽになったバケツを投げ捨てた。水に濡れたマイの長い髪が床に扇になって広がる。満足にむせることも出来ない身体が、苦しさを訴えるように震えていた。
「もう今日なんだ。今日なんだよ。今日なんだから死ぬなよ。俺の飯を食え」
クドウはマイの顎を鷲掴みにし、首を捻って自分の方に向かせた。虚ろな少女の顔は、もう正確にクドウの存在を捉えているのかどうかも定かではない。ただ何故か、浅く釣り上がった口の端が、勝ち誇ったようにも見えた。
「ぜったいに」
擦り切れそうな歯ぎしりの合間にクドウは言葉をねじ込む。
「くえ」
泡になった唾を吹き、クドウはマイを投げ捨てる。
「2時間後に出発だ。死ぬなよ。ぜったいに。俺の命がかかってんだ」
亡霊のように立ち上がったクドウは、ぶつぶつと呟きながらこちらに歩いてきた。
目の前で繰り広げられていた光景に目を奪われていた俺は、咄嗟に隠れることが出来なかった。仕方なくその場に座りこんでやつをやり過ごすことにした。
擦れ違う瞬間。俺はクドウと目があった。その時やつの頭に何が起きたのかは知らないが、クドウは再び発狂した。
「ああああああああッ────クソがああああああ──ッ」
俺は頭を掴まれ持ち上げられた。
クドウは荒々しく床を踏みならして踵を返し、全力で振りかぶり、マイに向かって俺を投げた。俺の身体は勢いよく飛んで、床に倒れるマイの頭にぶつかった。
全身を強打し、俺はマイの顔の正面に落ちる。初めて彼女と目があった。辛うじて開いている薄い目は、今にも遠くへ行ってしまいそうなほどに儚げだった。この少女の身体の苦しみが、聞こえない声となって耳に流れ込んでくるようだった。だがそれでも彼女の瞳の奧には、最後まであの男に屈しないという意志が、確かに燃えていた。
遠ざかっていくクドウの足音が聞こえた。
マイは何かの拍子に切ってしまったらしい血に濡れた指を俺に伸ばした。小枝のように細い指がそっと俺の頭に触れた。千切れかけの耳のその付け根だ。彼女はどうやらこの耳が、今のクドウの一撃によるものだと思ったらしい。
マイは今にも消えてしまいそうな声で言った。
「……うさぎさん」
俺の頭に優しく触れる彼女の指は、どうしようもなく心地よくて。食べ物も睡眠も水すらも拒絶して犯罪者に反抗した強い少女のはずなのに、笑顔は天使のように柔らかくて。
俺たちガラクタには痛みも空腹もない。何も食べなくても辛くなく、どれだけ痛めつけられても壊されない限りは平気だ。投げ飛ばされた俺も、蹴り飛ばされたギャング・アリゲータやサー・クロックも、別に何ともないのだ。苦しくないし、痛くない。何故ならモノで、ガラクタだから。
だけどマイは違う。マイは人間だ。腹も減れば喉も渇き、痛みも感じる。この部屋の中で誰よりも辛い思いしているのは俺でも他のガラクタでもなく、この十歳にも満たない小さな人間の女の子だ。
それなのに彼女は心から申し訳なく思っている言葉で、心から悲しんでいる声で言うのだ。
「お耳、痛いね。ごめんね、うさぎさん。マイのせいで。痛いよね」
最後に俺の頭を一撫でして、彼女は目を閉じた。血に濡れた指が汚れた水の池に浸り、濡れそぼった髪が顔に張り付き、限界まで堪えた身体は眠りに就いた。弱々しくも確かな呼吸が、彼女の小さな肩を動かしていた。
お耳、痛いね。ごめんね、うさぎさん。
彼女の最後の言葉が何度も俺の頭に反響した。お耳、痛いね。ごめんね、うさぎさん。自分よりもぬいぐるみの俺を心配した。馬鹿なことだと思う。なぜ俺の心配をするのか。空腹も痛覚もないモノの俺を。この廃屋の中で最もお前を嫌っていた俺を。女の子どもを全て敵視していた俺を。そしてお前も同じだと決めつけていた俺を。
導火線が今、焼き切れた。俺の中の怒りの爆弾が、静かに炸裂した。
マイを痛めつけたクドウへの怒り。気絶するまで意志を貫き通したマイへの怒り。そして何より、彼女の優しさに気がつこうとしなかった俺自身への怒り。
立ち尽くす俺を皆が見ていた。ラジコンダンプのDBが。テレビのブラウン・ダイスが、指人形姉妹のフィンガーシスターズが。筆置きの一黒齋老人が。ギャング・アリゲータが。ミスター・モノトーンクロックが。
この廃屋はガラクタの楽園。
人間に捨てられたガラクタたちの辿り着く果て。俺たちガラクタは皆少なからず人間を恐れ、敵視し、反感を抱く。
だが俺たちは人間の全てを知ってはいない。
ガラクタにも人間にもいいやつと悪いやつがいる。
俺たちを捨てたような悪いやつもいれば、マイのように優しいやつもいる。
俺は人間が嫌いだ。
この思いはこの先長く変わることはないだろう。
だが。俺は少なくとも、マイという少女を嫌うことはできない。自分の身体よりもガラクタの身体を心配したマイというバカな少女のことだけは、たとえこの先何があってもきっと、嫌いになることはできない。
俺は千切れ掛かった自分の耳に手を当てて、勢いよくそいつを頭から引き剥がした。
それを見ていたガラクタたち全員が息を呑んだ。俺がこの千切れかけた片耳にどれだけ執着していたかを皆知っていたからだ。しかしこんな耳など、もういらない。今この耳には、もっと別の使い道がある。
俺は何も言わず、千切れた左耳をマイの指に巻いた。絆創膏の代わりは到底勤まりはしないだろうが、せめてもの誠意だ。
「今日から俺はホンモノのバーニー・ザ・ワンサイドイアーだ」
無くなった耳の付け根を手のひらで叩き、俺は自虐的に笑った。
「すまないが、ちょっとみんなに話がある」
声を張ってそう言い、部屋中のガラクタたちを集める。今から俺の取る道は1つ。
クドウを倒す。それだけだ。
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