第1話 廃屋の片耳ウサギ - ④

 男が2階に消えていくのを見届けた後、俺はあの奥の部屋には戻らなかった。

 男と少女の関係を、俺は皆に伝えようとは思わなかった。伝えたところでどうなると思った。きっとあいつらは変な気を起こす。少女を匿うだとか、逃がすだとか。ガラクタ風情が何を、と笑ってしまうような手段を無理矢理にでも講じるはずだ。

 またあるいは「2日後にいなくなってしまうなら時間は残されていない」と言われて抵抗のしようもないほど強引に俺は彼女の前に連れて行かれるかも知れない。フィンガーシスターズ五体なら不意を突けば逃れられないこともないが、エレガント・ベビィあたりが出てくればいよいよ為す術はない。あいつの力は容赦がない。

 あいつらには大人しくしていてもらいたい。今日とあと2日耐えれば少女がいなくなるのだと分かって俺は心底ほっとしたのだから。

 あの部屋に戻らなければといってリビングに戻っても、あそこには楽園中のガラクタが集まるから、遅かれ早かれ見つかってしまう。だから俺は普段誰も立ち寄らないような部屋に身を隠すことにした。人間からしてもガラクタからしてもバカ広いこの洋館は、幸いにして隠れる場所に困らない。

 男の正体と少女の行く末を知っても、俺はとりたてて何も思いはしなかった。強いて言うなら同情だが、それもどこかの発展途上国の戦災孤児を思うようなフィクション的な同情だった。

 やはり所詮は人間の事情。哀れな子どもが一人、醜い大人の餌食になるだけだ。理不尽な破棄や破壊は俺の周りにはしょっちゅう起こっていたし、俺自身その経験者だ。生きとし生けるものはそういう理不尽に揉まれて強くなる。だから俺は最低限の同情はしても、必要以上の同情はしない。ましてやそれが人間ならばなおさらだ。

 洋館の中をぶらぶらと彷徨っていると、洋室の一角に小さな収納スペースがあるのを見つけた。俺はここをとりあえずの隠れ場所に決めた。楽園には日々新しい発見があるから面白い。きっとまだ俺はこの館の半分も知ってはいないだろう。

 暗闇の中で仰向けになり、俺はいつにない館の静けさに耳を澄ませた。いつもならそこら中でうろうろしているガラクタたちが、今日に限っては奧の一室に集まってしまったからだ。俺を除いた皆が皆、あの少女に構ってもらいたくて。

 俺は鼻を鳴らして寝返りを打つ。あの少女はまやかしだ。優しさは偽りだ。手のひらはすぐに裏返る。本性はきっとあの男のように理不尽で粗暴に違いない。

 

***


 知らない間に眠っていたようだ。

 もぞもぞと収納の中から這い出てみると、館の中は闇の底に沈んでいた。廃墟に穿たれた幾つもの穴の間から見える星や月だけが、唯一の明かりだ。普段なら夜になると館を照らしてくれる電飾連中がいるのだが、あの少女がいるというので自粛しているに違いない。俺たちからすれば自然だが、人間からすれば誰もいない廃墟でいきなり電気が付くというのは恐怖だろう

 俺は暗闇の中に立ち、凝り固まった身体をほぐす。そして今ようやくあることに気がついた。

 愛用のパイプがない。

 椅子にも鈍器にもなるあの鉄製のアップルベントパイプ。随分昔、この館に辿り着く前に拾った俺の愛用品。

 どこに置き忘れたのかと考えてすぐ、あの部屋に置き忘れたのだと気がついた。男を追いかけることを即決したせいで、ついパイプを持ってくるのを忘れたらしい。大失態だった。

 あの部屋、というよりもあの少女の近くに行きたくはないがこればかりは仕方がない。俺は溜息1つで覚悟を決めて、今いる洋室を出た。

 いつにない暗闇と静寂を棲まわせる廊下を歩き、闇に紛れた瓦礫に何度か蹴躓きながらも、どうにかあの部屋まで辿り着いた。

 先ほどあの部屋に近付いたときには、部屋の中まで入ってはいない。入り口の所にいただけだ。ならばパイプだってその辺りに忘れているはず。さっと行ってさっと取ってさっと戻ろう、と思った俺だったが。

「……ない」

 部屋の入り口にパイプは落ちていなかった。暗闇だから分からないだけかと思ってよく辺りを掠ったが、それらしき物の感触はどこにもない。

 そしてふと目をやった部屋の中。月明かりに浮かび上がるDBの背中から、見慣れたパイプの柄が飛び出ていた。

「……DBのやつめ」

 俺は忌々しく呟いた。あいつに悪気はない。きっと親切心から預かってくれているのだろう。そういうやつだ。だが今は、その親切心が仇だった。

 余計なことをしてくれたDBは憎いが、しかしもう夜も更けたこの時間。きっとあの子どもは眠っている。だからパイプを回収しに行くならば今しかない。そう思って部屋の中に足を踏み入れようとすると、

「……ねてない。ねてないよ」

 呟きめいた声が聞こえて、俺は全身を緊張させた。フェイクファーが凍りかけた。

 月明かりが差し込む窓辺に少女が座り込んでいた。その手にはエレガント・ベビィがいて、周りには他の人形やら置物やらもいる。無数のガラクタたちに囲まれて、少女はぼやけたような声で何事かを語っていた。

「それでね。パパはね、すごくお金持ちなの。いっつも本みたいに分厚いお札がポッケに入ってるの。マイが欲しいものはなんでも買ってくれるんだよ。でも無駄遣いはダメ。本当に欲しいものだけなの。あとね、背高くてかっこいいよ。ときどきヒゲもじゃだし、顔怖いけど」

 少女──マイはエレガント・ベビィにそう言いながら、がくりと首を落として船を漕ぐ。

「ねてないねてないよ。ちょっと頭がおもかった。あ、ママのね! ママの作るハンバーグもちょーおいしいよ。おっきくてやわらかくて、レストランのハンバーグの百倍はおいしいんだ。でもハンバーグ作るときママは」

 またしてもマイは船を漕いだ。慌てて首を振り、寝ぼけた声で笑った。

「ねてなーい。ねむくなーい。ぜーんぜん平気。それで、ママはハンバーグ作るときはぜったいおかずにカリフラワーとにんじんいれるの。にんじんはいいんだけど、カリフラワーはまずいからマイきらいなの。でも残したら怒られるからがんばって食べてる。カリフラワーって知ってる? ブロッコリーのにせもの。小さいときに悪いことをしたブロッコリーがカリフラワーになるんだって。だからカリフラワーはどくあるんだよ。だから食べたらおいしくないしあぶないのにね。ママにそれ言っても笑われるだけなんだよー」

 マイはわけのわからないことを言った。俺は思わず「ごふっ」と変な笑いを漏らした。耳ざとくそれを聞きつけたマイがこちらを向く。間一髪の所で俺は扉の影に隠れた。

 紙一重の回避に安堵しながら、俺は同時に顔をしかめる。

 なんであの子どもはまだ起きているんだ。明らかに子どもは寝る時間だろう。俺の前の持ち主ですら、こんな夜中まで起きてはいなかった。

 再び扉の影から顔を出す。少女は糸の切れた人形のようにがくりと首を前に垂らしていたが、すぐに跳ね起きた。

「寝てないよ。寝て……い、寝てな……い」

 腕の中のエレガント・ベビィにそう強がる。眠いなら寝ればいいだろう、と俺は呆れた。

「おなかすいたなあ。ママのハンバーグ食べたいなあ」

 泣きそうな声でマイは呟く。部屋の様子に目を懲らせば、クドウが投げつけたコンビニの袋は床にそのまま転がっている。ジャムパンは潰れたままだ。一切手を付けなかったらしい。腹が減っているなら食えばいいのに、と俺はまたしても呆れた。

「あのおじさんのご飯はぜったい食べない。どく入ってるかもしれないし。ぜったい食べない。それに知らない人からモノもらっちゃだめって言われてるもん。だから食べない。すっごいおなか空いてるけど食べない」

 マイの言葉に俺はほう、と感心する。毒入りを疑うか。確かに一理ある。意外と聡明な子どもらしい。それに意外と肝も据わってる。だとすれば寝ないのは、

「ねむい。ねむいなあ。でもねない。ねてないもん。ねてる間にパパとママがおむかえに来たらこまるからね。マイここにいるよーって言わないとパパたち気がつかないからね。このお家、ちょー広いから」

 俺の思考に答えるように、マイは言った。寝てる間に親が迎えに来て、自分に気がつかなかったら困るから寝ない。闇夜に浮かぶその幼い顔は目が半開きなのに、どうしようもなく硬い決意を秘めていた。ただの子どものくせに、度胸と根性のあるやつだ。

「ねむいーねむいよー。くるまさーん」

 マイは小脇にエレガント・ベビィを抱え、空いた手をよりによってDBに伸ばした。最悪だった。あれではパイプを取りに行けない。

「あっ。これ、知ってる。昔の人のタバコ。はあ、かっこいいな」

 さらにマイはパイプを手に取った。そして服の裾で全体をごしごしと拭き、あろうことか丸く膨らんだトップの部分を口に咥えた。細いマウスピースがマイの唇の端から飛び出して、まるでトカゲか何かを丸呑みしたみたいだった。バカだ。

「ぎゃくか」

 マイは気がついてマウスピースの方を口に咥える。それでもやはり、少女にパイプというのはどうにも不釣り合いで、間抜けな絵面だった。

 左手に赤ちゃん人形を抱え、右手でダンプカーを転がし、口にパイプを咥え。そうやって忙しなく遊ぶことで、マイは襲い来てる睡魔に抗っているようだった。

 マイは宣言通りいつまで経っても眠らなかった。ときおり船を漕ぐくらいだった。

 パイプがマイの口元にある以上、どうやったって回収出来そうにない。

 どうせ明日の昼間には眠るだろうし、そうでなくとも2日後には必然的にマイはいなくなる。 

 2日の我慢だ。俺は仕方なく諦めて、元いた部屋へ踵を返した。

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