第1話 廃屋の片耳ウサギ - ③

 一黒齋老の予想は当たった。

 男の後ろを、モーター音控えめのDBに乗って追いかけていった俺たちは、やがて例の部屋に辿り着いた。外れかけている扉を蹴り開けて、男は部屋の中に入った。

 少女は突然入ってきた男にびくっと肩を震わせた。俺たちは一体男が何のためにここに来たのかを探るため、部屋の外からそっと中の様子を覗うことにした。

「ご飯だよ。食べて」

 男は手に持っていたビニール袋を少女に向かって投げつける。袋は頭を庇った彼女の腕に当たり、床に落ちた。中から出てきたおにぎりや菓子パンが腐った床にぼとぼとと散らばった。

「……」

 少女は腕の隙間から男を見上げ、唇を噛みしめる。目が水っぽく揺れているのが、薄暗い中でもよく分かった。少女と男の関係は、少なくとも親密なものではないらしい。

「なに? その目は」

 男はその場にしゃがんで、低い声を漏らす。苛立ちが滲み出ていた。

「食べてよ」

 床に落ちたジャムパンを一つ取って、男は少女に突き出す。少女は無言で首を横に振った。

「食べて」

 パンを押しつける男。首を振って拒否する少女。

「お、おまえ……僕がわざわざ買ってきたモンが食えねえのか!」

 男はいきなり怒声を上げてパンを地面に叩きつけた。少女は再び身体を震わせてうずくまる。床に潰れたジャムパンは衝撃で割れ、生地の隙間から血めいて赤い苺ジャムをどろりと流した。

「ああっ……クソが」

 男はボサボサの黒髪を掻きむしり、床を踏みつけた。腐った木の音が鳴る。うっかりするとたちまちに底が抜けそうな、廃屋の床の悲鳴。

「食えよクソガキ。僕が買ってきた飯だぞ。わざわざ街に降りて買ってきたんだ。お前のために。クソが。食えよ」

 ぼつぼつと呟く男を、少女は気味悪そうに、怯えながら見上げていた。その腕の中に素っ裸のエレガント・ベビィを強く抱きかかえてる。

「食えよ!」

 半狂乱に怒鳴った男が先ほどのジャムパンを踏みつぶす。破裂した袋からジャムが飛び散って、床に転がっていたガラクタたちを赤く染めた。少女は頭を抱えてうずくまったまま、何も答えず頭を必死に振った。彼女なりの精一杯の反抗らしかった。

 男は再び髪を掻きむしる。窓から差し込む光の中に、はらはらと舞うふけが見える。

「……おうち、帰りたい」

 少女がぽつりと言葉を漏らした。男は身体の中を空にするくらい深いため息を吐いた。

「帰れねえよ、クソが。死んだら殺すぞマジで」

「おうち帰りたい」

「黙れ」

「おうち帰りたい!」

「黙れ。黙れ。黙れ。黙れッ」

 煮えたぎった苛立ちの吐きどころを見つけかねて、男は床に転がっていたワニの玩具と白黒の時計を蹴り飛ばした。2体はまとめて部屋の隅に転がっていく。俺は舌打ちをする。足下にいたシスターズたちが揃って悲鳴を漏らし、俺の後ろに隠れた。

 男の暴力を目の当たりにした少女は次の言葉を続けられなくなって、代わりに身体が震え始めた。恐怖の冷気が彼女の心臓に吹きつけたのだろう。その目に涙が浮かぶ。引き結ばれていたはずの唇が解け、細い悲鳴がその隙間から外に出る。

「黙れっつってんだろ!」

 男は叫んだ。おにぎりを拾って少女に投げつけ、床のガラクタを蹴散らす。少女の泣き声は引っ込んだ。無理矢理引っ込めたのだった。しかし彼女の目の端では絶え間なく涙の粒が膨らみ続けている。

 男は鼻息を鳴らし舌打ちを飛ばし、こちらを向いた。俺たちは間一髪の所で入り口の横に隠れた。

「手を出すな。手を出したらいけない。殺したらダメ。死んだら金にならない。あのガキの親も、あの中国人も。死んだら俺は金を受け取れない。死なせない。死ね。殺す。クソ……」

 呟きながら男は部屋を出て行く。引き摺るような足音で、男は遠ざかっていく。

「ちょっと、探ってくる」

「バーニー?」

「ど」「こ」「い」「く」「の」

「あいつ追いかけるんだったら止めなよバーニー!」

「あ」「ぶ」「な」「い」「よ」

 シスターズやDBの声を無視して、俺は男の後ろに足を忍ばせた。

 男を追いかけながら俺は、背後に悲痛な少女の泣き声を聞いた。


***


 俺が男を追いかけることにしたのは、断じてあの少女のためではない。決して違う。

 まああの少女への同情がないと言えば嘘にはなるが、所詮は人間に対する同情だ。心の隅でほんの少しだけ「残念だったな」と思うか思わないかくらいの。

 真に男を追う理由は言わずもがな。やつに蹴り飛ばされたギャング・アリゲータとサー・クロックのためだ。彼らが蹴り飛ばされたその瞬間、俺の怒りの導火線に火が点いた。

 男は長い廊下を歩くあいだ、一度も後ろを振り返ることはなく、俺に気がつくこともなかった。俺は歩くときに足音がしない。柔らかいフェイクファー生地のおかげだ。ぬいぐるみってのはつくづく便利だ。

 やがて廊下を抜けた男は玄関で立ち止まった。俺は咄嗟に近くにあった家財の影に身を隠し、そこから顔だけを覗かせて男の様子を覗った。男は苛立った様子で何度も地面を蹴りつけていた。そしておもむろにポケットからスマホ取りだすと、ささっ操作して耳に当てた。

「……おい、ウエダさん。僕だ。あんたらの娘を預かってるやつだよ──あ? どうでもいいでしょうが、読み方なんて!」

 俺は男の声に自慢の耳を傾ける。

「金は用意出来てる? 早くして。2日後の午後5時までだよ。分かってるだろうね、5000万だ。金が僕の手に渡ったら、あのガキを解放する。いいな──なに? 娘が帰ってきてから金を渡す? ふざけたこと言ってんじゃねえ! 1円たりとも間違えるなよ。1円でも間違えたり、1秒でも時間に間に合わなかったらあんたらのガキは殺す。脅しじゃないぞ。本気だぞ──あ? ガキの声? 朝聞かせただろうがバーカ! 死ね!」

 最後にそう吐き捨てて、床に叩きつけかねない勢いで男はスマホを耳から離した。しかし男はそれだけで終わらず、今度はまた別の所に電話を掛ける。

「ニーハオ、ニーハオ。僕だよ。僕だ。この間神田の功夫飯店で話した。ほら、言ってただろお前ら。小さいガキ探してるって。高く買うって。あ? ガール! リトルガール! ファイブサウザンド万円! ユアボス、バイ、リトルガール! アンダスタン?」

 ここで通話が一旦保留に入ったのか、男は電話を耳から離し、「ったく、もっと日本語使えるやつ電話口に立たせろや。あのクソ中国人が」と苛立つ。俺がふと、ブラウンのニュースで耳にした神田の中華料理屋を思い出していると、やがて保留が解除されたのか、

「──ああ、僕だよ僕。で? いいんだろ? 5000万で買い取ってくれるんだろ、ガキ。女だよ。6、7歳くらいの。ああ、そうだよ。純日本人。正直かなりの上物だと思うぜ。健康そうだし、見た目もいい。正直あと2000万は上乗せ……チッ。うるせえな。いいよ。5000万で! 2日後の午後4時な! 絶対に遅刻すんなよ」

 言い置いて男は電話を切る。段々事情が呑み込めてきた。そして男はまたしてもどこかへ電話をかけようと、スマホを操作する。

 三件目の電話では、男は先二件とは違い、随分とへりくだった弱々しい言葉遣いを見せた。

「……あ、もしもし。はい。俺です。クドウです。カンダさん……すいません。はい。はい! お金はもう! 伝手は出来たんで! 大丈夫です! 9000万です。間違いなく。はい。勿論。はい。すみませんでした、カンダさん。でもこれで、その、俺は内臓とか売ら……はい! ありがとうございます! では、2日後の午後6時に東京駅で! はい! 失礼します!」

 通話を切ると同時に、男は深い安堵のため息を吐いた。スマホを握った右手がだらりと下に垂れ落ちる。ため息をつきながら、男はしゃがみ込んだ。その背中は随分と情けなく見えた。

 最後の電話でクドウと名乗った男の事情は、大方こんなところだろう。

 男はカンダという何者かに借金をしている。9000万。とんでもない額だ。それだけあったら多分俺が数万体は買えるだろう。そして男は借金を返す伝手として2つを見つけた。1つは誘拐で、もう1つは人身売買。ネタに使われるのはあの少女だ。2日後の午後4時、クドウは誘拐した少女を中国人に5000万で売りとばす。その一時間後、午後5時に少女の両親から身代金の5000万円を受け取る。金と引き替えに娘を渡すという嘘を吐いて。そして更にその1時間後の午後6時、彼は満を持して黒木に借金を返済するのだ。借金は9000万。懐の金は1億。余った1000万は高飛びのための費用に違いない。

 なんとも見下げ果てたやつがいたものだ。呆れや絶句を通り越して変な笑いがこみ上げてきた。俺の元の持ち主も、クドウの前ではただの人だ。

「これでオッケーだ。大丈夫だ。俺はもう。大丈夫だ。2日後になれば金が手に入る。そうすれば自由だ。もう怖くない。大丈夫。あのガキさえ死ななきゃ。大丈夫。問題ない。うん」

 男はぶつぶつ言いながらスマホをポケットに戻し、玄関入ってすぐの階段を2階へ上がっていく。不吉な階段の音がギシギシと谺する。俺は物陰に潜んで息を殺し、上っていく男の顔を眺めた。不健康そうに青白いその顔には、耳の辺りまで裂けていきそうな笑みが這っていた。

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