第1話 廃屋の片耳ウサギ - ②

 少し俺の話をしよう。

 俺はバーニー・ザ・ワンサイドイアー。これはさっきも言った。

 この名前は楽園で皆に呼ばれる通称であるわけだが、正直俺はこの名前を気に入っていない。むしろ嫌いだ。

 バーニー・ザ・ワンサイドイアー。片耳のバーニー。

 俺は確かにウサギのぬいぐるみだが、片耳ではない。耳はきちんと両方ついている。ただ、「ワンサイドイアー」という名前が付いてしまったのも、不服ながら認めざるを得ないことではある。

 俺はウサギのぬいぐるみだから、頭には立派な耳が2本、天を刺す剣のように伸びている。いや、伸びていた、のだ。今や左側の耳には根本に裂け目が入り、だらしなく俺の顔の左側に垂れ下がっているばかりだ。耳は確かに2本あるが、1本はもう瀕死。

 だからワンサイドイアー。

 限りなく事実に近いが、事実ではない。事実と認めたくない。俺の耳はまだここにある。声を大にしてそう叫びたい。

 だがそう思ってみたところで、俺の左耳はすっかり息絶えた様子で垂れ下がっているだけだった。そんな左耳に触れる度、胸の奥を悔しさと怒りの棘に突かれたような気分になる。失われてしまった立派な2本の耳がもう返ってこないという事実が、俺にとってはたまらなくつらい。

 どれもこれもあの女の子どものせいだ。俺の元の持ち主。楽園に来る前にいたある家の長女だった。まだ数も数えられない歳のくせに、とにかくその子どもは乱暴だった。彼女のおもちゃ箱の中に収められていたおもちゃたちや、日用雑貨、置物。その家にいた品々は皆、彼女から何らかの被害を受けていた。その中でも特に酷い扱われ方をしたのが俺だった。俺は彼女のお気に入りで、寝るときもトイレに行くとき風呂に入るときも常に一緒だった。うんざりだった。臭くて狭いトイレに一緒に入り、湯船に沈められて身体が嫌というほどお湯を吸って重くなり、布団の中で押し潰された挙げ句、明け方床に突き落とされる。遊ぶときも彼女は乱暴で、殴る蹴るは当たり前。嫌な事があると皺寄せは全て俺に来た。感情が爆発するがままに彼女は俺を叩きつけた。時には顔や腹を踏みつぶされることもあった。そしてある時ついに彼女は、俺の耳を掴んで振り回し、壁に叩きつけたのだった。そのせいで俺は左耳がほとんど千切れてしまった。彼女は耳の壊れた俺にすぐさま興味をなくし、親に新しい熊のぬいぐるみを買ってもらっていた。俺はどうしたか。コンビニの袋にぎゅうぎゅうに詰めこまれて、燃えるゴミの日に放り捨てられた。

 耳が裂けてしまった挙げ句捨てられた俺は、放浪し、かつてない過酷な孤独を味わって、腹の底から怒り声を上げ、喉が切れるくらいに泣き叫んだ。決壊した俺の感情は誰にも聞かれなかった。以来俺は人間が嫌いだ。その中でも特に女の子どもが。もう人間とは触れ合わない。人間とは決別する。その思いで楽園に辿り着き、棲み着いた。

 それなのに今、またしても、女の子どもと出会ってしまったのだった。

 

***


 あのトラブルメーカーが少女を発見してから数時間が経った。

 リビングに集まっていたガラクタたちは皆、あの少女がいる奥の部屋へ出払ってしまっている。おかげでリビングは本当の廃墟のように空洞で物寂しい。

 俺はリビングの真ん中にパイプを置いて腰を下ろし、その静けさに身を浸らせていた。皆が奥の部屋に行くのは、偏にあの少女に触ってもらいたいからだ。あの細くて小さい指で自分のことを扱ってもらいたいからだ。

 少女はその歳故に全てのガラクタたちの正しい使い方を知ってはいなかったが、決して乱暴なことはしない。人間の手を離れて久しいこの廃屋のガラクタたちは、自分たちを優しく扱ってくれるそんな彼女の虜だった。

 DBはコボレーンの中に瓦礫やちんまいガラクタたちを乗せられ、ビー玉族は少女の膝元に散らばり、水晶玉のクリスタルヘッドは透き通るその身体を少女に「きれい」と言わせしめ、筆置きの一黒齋老は頭を撫でられながら、頭の筆を抜き差しされた。ワニの玩具、ギャング・アリゲータは、間違えた歯に触れると鋭く噛みつくという凶暴なゲーム性を持ったやつだったが、少女が遊ぶときは甘噛みで勘弁してやっていた。フィンガーシスターズは少女の指に覆い被さってご満悦の様子だった。目覚まし時計のサー・クロックは、紳士的に寸分の狂いなく時を刻んでいた。

 他のガラクタたちも自分の番はまだかまだかと待ちわびながら、少女の周りに転がっていた。

 そんな連中に嫌気が差して俺はリビングに戻った。皆どうかしている、と思った。

 それぞれ事情はあるにせよ、ここに行き着いた理由を正せば皆人間に捨てられたからだ。つまり人間と決裂したことでここに行き着いた。俺たちは人間と決裂した。人間と隔絶したこの廃屋でガラクタだけの楽園を作って暮らしている。人間はいらない。人間は邪魔だ。俺はそう思う。なのに何故皆はあの女の子どもに執心なのか。

「退屈そうじゃのう、黒兎よ」

 リビングの入り口から聞こえてきた嗄れた声。振り向くと一黒齋老が立っていた古めかしい木彫りの筆置きである。頭に刺さった筆の先で柔らかそうな白い毛がふわふわと揺れている。

「なんでしょう」

 俺は素っ気なく返す。老人の顔に浮かぶ笑みは何とも言えない迫力があり、俺は自分でもばつの悪い顔になってしまったのが分かった。しかし一黒齋老人は俺の表情を意に介すでもなく、

「よいのか黒兎、向こうの部屋に行かなくて」

「構いません。俺はここにいるんです」

「そうかそうか。だが皆楽しそうだぞ?」

「一黒齋老。あなたはは俺の過去を知ってるでしょう。俺は子どもが嫌いなんです。特にああいう小さい女の子どもが」

「他のモノも皆そう言っておったの。だがの。エレガント・ベビィがいい例だが、あの少女を煙たがっていたにも関わらず、今ではすっかりあの子の腕の中でご満悦よ。ワシも最初は戦々恐々としておったが、いざ筆を穴に抜き差しされてみると気持ちがいいもんじゃ……おっと。卑猥な意味で取るでないぞ」

 老ガラクタは気の顎髭を撫でながら呵々と笑った。見た目の年季に寄らず、この老ガラクタは元気である。

「いいですか。子どもの心ってのは、針の上で回る独楽みたいなものなんですよ」

 俺は呆れたように鼻を鳴らし、一黒齋老人を見た。

「不安定なんですよ。たとえあの少女が今優しくても、それがずっと続くとは限らない。新しい遊び相手が手に入ればそっちに気が向く。もしもこの廃屋に大人しい野良猫でも迷い込んでくるとしましょう。そうすればやつはそっちに傾倒するはずです。あるいはいずれ飽きが来る。そうなれば人間の子どもってのは簡単に俺たちを捨てる。そういう生き物なんです」

「……そうか」

 一黒齋はそっと目を伏せた。俺の言葉に身を引いた、そう思った。しかし、

「──指人形姉妹よ。力を貸しておくれ」

 静かに言った老ガラクタに、即座に応じるのは仲良し指人形姉妹。どうやら彼の背後にいたらしい。「わ」「か」「っ」「た」「!」と一文字ずつ元気に答える。嫌な予感がした。

[親指娘、お主はDBを呼んできてくれ。そして残るモノはこの黒兎を捕らえてくれ」

「ま」「か」「せ」「て」「よ」

 シスターズは喜び勇んで飛び跳ねる。

「おいっ……」

 と身構えた俺に人差し指インデックス以下四名のシスターズが突進してくる。俺は咄嗟にパイプから立ち上がったが手遅れで、あっという間に組み伏せられた。

「離せ! お前ら!」

「い」「や」「だ」「よ」「!」

 この連中は見た目はちっぽけなくせして無駄にパワフルだから困る。藻掻いてみてもビクともしない。情けなく床に転がった俺を見下ろして一黒齋老は言った。

「黒兎よ お主は少し やさぐれすぎておる」

「何をするつもりですか」

「かっかっか。お主をあの少女の元に連れていこうかと思ってな」

「んな……一黒齋老、俺は……ッ」

「知っておるよ黒兎。お主の苦しみも分かる。ただ、お主は人間を敵視しすぎておるのだ」

「人間を敵視するのはここにいる皆、同じでしょうが」

「少なからずそうではある。だがしかし黒兎よ。お主と同じくらいに人間を敵視しているモノはここにはおらぬ。わしらは確かに人間に捨てられてここに辿り着いた。誰もが悲しみや苦しみを抱えておる。だがわしらが人間の手に生み出されたこともまた事実。わしらが自らの存在価値に気がつくためには人間の存在は必要不可欠なのだ。人間の役に立つことで、本当の幸せを得られる。それを忘れてはならない」

「……言わせてもらいますが、一黒齋老。なら俺はここに来る前人間の役に立っていましたよ。悪魔のような子どものストレス発散の道具として。ありがとうございます。俺は自分が幸せだったことに気がつけました。だからもう離してください。十分だ」

 全身を捩るがシスターズたちは強靱すぎてビクともしない。くそ。なんつー指人形どもだ。

「……ふむ」

 俺の皮肉にさすがの一黒齋老も声を落とす。

 酸いも甘いも知りつくした老ガラクタであっても、人間の子どもに関しては俺の方が明るい。俺はかつての持ち主に乱暴に扱われた。全身を痛めつけられ、大事な耳が片方死んだ。それが幸せなことだったと言うのなら、俺は幸せじゃなくていい。そんな腐った幸せはいらない。

「それに、言ったでしょう。人間の子どもっていうのは不安定なんですよ。あなたや他の連中がが信じてる幸せなんていうのは今だけの」

「黒兎、お主には運がなかったのだ。お主は正しい持ち主に選ばれなかった。だから正しくない扱われ方をして、正しくない役立ち方をしてしまった。そしてこの楽園にやってきた。だがこのままではお主は本当の幸せを知らないまま朽ち果てていく」

「なら俺があのガキと触れ合えば幸せになれるとでも言うのですか」

「そうだ。さっきからそう言っておろう」

「あなたは人間の子どもの恐ろしさを知らないかっ……」

「お待たせ────!」

 切り換えそうとした俺の言葉を遮って、リビングに飛び込んでくる黄色い車体。重量感溢れるDBが、モーター音高らかに床の材木を乗り越えて、俺の鼻先で止まった。

「今世紀最高のラジコンカー、DB参上!」

 ウインカーを光らせクラクションを鳴らしと忙しない様子のDBだ。彼のコボレーンからシスターズの長女である親指のサミーが飛び降りた。

「待っておったぞダンプカー」

 一黒齋老が両手を広げて快哉を叫んだ。

「さてさて! 僕じゃなきゃ勤まらない超大事な使命ってなんだい!?」

 DBは興奮気味に前輪を浮かせて言った。彼が来てしまったということは、いよいよ俺は奥の部屋に連れて行かれるかも知れないということだ。あの少女の元へ。断じて行きたくない。

 俺は全身に力を漲らせ、シスターズのくびきを解こうと踏ん張った。だが戻ってきたサミーの援護が加わり、俺の抵抗は無駄な努力に終わった。

「ダンプカーよ、 黒兎をあの少女の元まで運んでくれるかの」

「あの少女のところへ? でも」

 DBは僅かに躊躇う。彼も俺の過去のことや、俺が何よりああいう年頃の女を嫌うことを知っている。いいぞDB。お前は俺のことがわかるヤツだ。拒否しろ。

「ダンプカーよ。お主にしか頼めない仕事だ。お主だけが頼りなのだ」

 切実な声で一黒齋老は語りかけた。

「……よしきた! まかせて! 僕は世界最高のラジコンダンプだからね!」

「DB、おまえ!」

 DBは誰かに頼られること期待されること注目されることを是とする生き方だ。頼まれれば断らないし、断れない。経験豊富で渡世の機微に長けた老筆置きに頼まれるなど彼にとって余りある光栄さだろう。その単純さは薬でもあり、毒でもある。俺は内心で舌打ちした。

 シスターズは倍以上の重量がある俺の身体を持ち上げ、易々とDBの背中に運び上げた。抵抗は虚しいだけだった。五人集まった彼女らのパワーに勝てるガラクタはそう多くはない。

「やめろ。俺はいかねえぞ!」

 シスターズが一瞬身体を離れた隙を付いて、コボレールから飛び降りようとした俺に、五女のピンキーが体当たりをしてくる。俺はたまらず吹っ飛んでDBの頭にぶつかった。

「もう諦めるのだ、黒兎よ」

 俺の隣に座り込んだ老筆置きが、窘めるようにそう言った。再び逃げようとしてもシスターズが止めに掛かるだろう。俺は諦めてその場に腰を下ろした。悔しいが今は諦める。多勢に無勢だ。だがどこかのタイミングで逃げ出す術を見つけ出す。そう心に決めた。

「みんな乗った? いくよ────!」

 文字通り使命を背負ったDBがクラクション高らかに走り出し、

 リビングを飛び出したところで急ブレーキが掛かった。強烈なGに俺と一黒齋老はひっくり返り、シスターズは床に飛び散る。

「どうした、DB」

「しっ」

 DBが珍しく声を潜めた。

 俺は一体何だと疑問を抱き、隙を突いて逃げるのも忘れて、DBの頭の後ろからそっと身を乗り出した。そして驚愕の光景に息を呑んだ。

 目の前に、見上げるように大きい人間の男が立っていた。

 割れた窓から差し込んでくる光が逆光となって、顔はよく分からない。だが立ち姿からしてそう年老いた人間には見えなかった。中肉中背のスタイルをTシャツとジーンズというシンプルな格好で包み、手にはビニール袋を下げていた。腐った天井や剥離した壁を眺める男は、薄暗い廃墟の中にあってかなり不気味に映った。

 男は俺たちに気がつくことなく、廊下を通り過ぎて別の部屋に歩いて行く。その足音が洋館の中に硬く響いた。

「驚いたな。人間が2人か」

 老人は顎髭を撫でて少しだけ考えてから

「あの男を追いかけるのだ、ダンプカーよ」

「いいけど、バーニーのことあの子の元に連れて行かなくていいの?」

 DBが疑問を投げかけた。

 余計なことを、と俺は内心で毒づく。一黒齋老があの少女の元に俺を連れて行くのではなく、あの男の追跡を優先するのならば、俺にとっては有り難い。何より逃げ出す方法を考えるための時間稼ぎが出来る。

 しかし一黒齋老は首を振った。

「うむ。これはワシの推測だが あの男が向かった方向、そこは彼女がいる部屋だ」

 その一言に俺はシスターズと目を合わせた。

「長年人の寄りつかなかった廃屋に突然現れた2人の人間。まさか無関係ではあるまい」

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