第35話三十一、仁徳天皇聖帝御世の神話

三十一、仁徳天皇聖帝御世の神話

●この仁徳天皇の御世に、皇后石之日売命(いしのひめみこ)の御名代として、葛城部を定め、また皇太子伊耶本和気命(いさほんわけみこと)の御名代として壬生部を定め、また水歯別命(みずはわけみこと)の御名代に、蝮部(たじひめ)を定め、大日下王(おおくさかおう)の御名代として大日下部を定め、若日下部王(わかくさべお)0の御名代として、若日下部(わかくさかべ)を定めた。

また渡来した秦氏の使い、茨田堤と茨田屯倉を作り、丸迹池・依網池を作り、また難波の堀江を掘って、あふれる水を海に流し、小堀江を掘り、住吉の津を定めた。

或る時に天皇は高い山に登り、国の四方をご覧になり「国の中の炊煙が立っていないのは、民が貧しいからである。依って、今後三年間は、民の労役と租税を免除する」と仰せられた。

これにより宮殿は破れ壊れ、何処も雨漏りをし、それでも修繕をせずに、雨漏りを避けて暮らされた。三年の後に国見されると、国中どこにも炊煙が上がり。

民は豊かになったと思われて、労役と租税を命じられた。こうゆう訳で国民は豊かになり、幸せになり、公の労務に苦しむことなく、それで天皇の御世代を称え、聖帝の御世と言うのである。●


☆仁徳天皇は高い山に登って石を見渡せば「国中に炊煙が立っていない、民は貧しいのだ、だから今から三年間、国民の調と夫役を全て免除せよ」と仰せられた。

これは民の竈(かまど)と言う伝説的説話であるが、

☆仁徳天皇聖帝の説話・仁徳の御世に、御名代と言って名前を与え、御名前を伝えるために、部民を定めた点にある。皇后イハノヒメノには葛城部、皇太子イザホワケノには壬生部、ミヅハワケノ命には蝮部など、また帰化人の秦氏を労役として、茨田堤、茨田屯倉、また池作りに丸邇池、依網池など、河川などは難波の堀江を掘って海に通し、小堀江を掘り、墨江の津を掘り、今も大阪に地名に残されているなじみ深い所が点在する。

こう言った難波を拠点に難波を開拓、整備されたことは何より、この大阪湾に面し立地用件が良く、大陸への交易に有利さを考慮され、開発し国の都の相応しい町作りの先駆者ではなかっただろうか。

☆・聖帝と後世に言わしめた仁徳天皇、また我が国最大の古墳の仁徳陵は多くの謎をはらんで虚々実々として日本人の記憶と記録の中で混在する天皇である。

その足跡で称えられる、治水事業であり、民の釜戸で庶民の暮らしを気遣った説話などがある反面、女性が多くいて、赤裸々に、多情な面も多々出てくる。

☆高津の宮、戦前戦後学者によって、今の法円坂付近の一体の高台が相当するのではと思われ、さらに南に高津神社がある。境内の西の端に大阪の街を見下ろせる場所が、民の釜戸を按じた場所として、市民の憩いの場所となっている。仁徳天皇は聖帝として名高く、高津の宮について懐疑的に見る人が一部存在するが、発掘調査によって上町台地にその存在をみとられる痕跡を認める推定する学者も多い。難波の見は発掘でその功績を広く認められる聖武天皇の後期難波の宮跡の発掘でほぼ同じ場所での仁徳天皇の高津宮の所在が判明されたと認められた。

またこの上町台に造られたかについては、大化の改維新後の前期難波の宮の造営は仁徳帝の天下を執り政治の中心となったと思われる高津宮付近が有力であった。

それに誘発されるが様に孝徳天皇が難波の宮を決意したのが最も有力な根拠かと思われる。

◇御名代は皇族の名前を付けた、私有の部。

◇茨田堤は河内国茨田郡の事、寝屋川付近。大阪市にも茨田横堤の地名がある。

◇秦氏は応神天皇時代に渡来した氏族。

◇壬生部は御子の産湯の関わり、教育料にかかる部。

◇部は部曲の名。丸邇池(まるにいけ)は大阪の富田林市喜志辺り。依網池堺市付近。

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