第29話二十五、倭建命の英雄伝の神話
二十五、倭建命の英雄伝の神話
倭建(やまとたけるみこと)の英雄伝説話
●景行天皇の記述は倭健伝説に隠れて、その存在の印象は薄く、八十人の皇子を皇女がいたとされ、倭健が九州、出雲、東征に数々の平定伝説に、景行天皇も九州各地を平定し、地域の名称を残している。それが継体の磐井の反乱と混同されることがあって、九州平定は数々の伝説が交錯をするものである。
天皇の補佐をする武内野宿祢の現れるのも景行天皇の御世からである。大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわきてんのう)は景行・成務・仲哀天皇の名に使われているのに何か深い理由があるのだろうか、と専門家の研究も未解決で間近いかと推測されている。
天皇は多くの妃を持ちながら、美しき姫には興味旺盛であったようで、美濃国の祖先の大根王の娘の、名は兄比売・弟比売の二人の乙女を、その容姿が整って美しいと聞きになって、お召になろうとした。皇子の大碓命(おおうすのみこと)を派遣してお召しになられた。
その大碓命は天皇の為に召し上げないで、自分のものとして二人の乙女と結婚をされた。その代りに別の女性を探して、偽って天皇お求めの乙女と名乗らせて、天皇に差し出した。しかしその偽装もすぐに発覚したが、しばらく恨み言を見ら我慢された。差し出された女とも婚姻をしないで、悩まれていた。
所が大碓命は兄比売と結婚して生んだ子が、押黒兄日子王(おしくろひこみこ)弟比売と結婚して生んだ子は押黒弟日子王(おしくろおとうとひこおう)
景行天皇は多くの御子を残し、諸国に要職に就け派遣した意味では、大和朝廷の基礎を成したとも考えられるが、温厚で気弱な性格の天皇か、小碓にも大碓を殺したことに、罰も責めもしなかった。ただ好色で多くの妃と御子を輩出したこと以外、特に天皇自身に関わる記述は少ない。
兄を握りつぶした小碓命
天皇は小碓命(おうすみこと)に「前の兄の大碓は朝夕の食事に顔を出さないのか、たっぷりと丁寧にお前が諭(さと)しておくように」と仰せになった。
その後五日経っても、大碓は食事に出てこないので、天皇は兄が未だ御膳に陪席しないではないので,小碓に「お前の兄は未だ出てこないではないか、教えたのか」の問いに、小碓命は「もう、“ねぎ”ました」と申した
天皇は「どのように“ねぎ”を諭したのか」と仰せになった。小碓命は「明け方兄が厠に入った時に、待ち構え捕まえて握り潰し、手足をもぎ取り“ねぎ”して薦(こも)にくるんで捨てました」と申した。
この事があって天皇は、小碓命の性格の激しく荒荒しいことに恐れ、遠ざけるようになり「西の方に熊曽建が二人いる。これら服従しない無礼な奴ら、お前が言って退治せよ」と命じられた。
“熊襲征伐”(くまそせいばつ)
当時まだ少年期であった小碓に西の方の二人いる熊襲建を征伐を命じられた。
粗暴な性格に景行天皇から疎んじられた小碓命は、叔母の倭比売命から衣装を貰い、剣を懐中に入れて行かれた。
やがて熊襲健の家のある所まで行かれて、様子を見ると、其の家の周辺を三重にも軍隊を廻らし、その中の室を作ってその中に居た。その新築である室の落成祝いに宴が開かれて、騒がしく御馳走の準備が行われていた。
小碓はその近くを出歩いて、その日の宴を待たれた。宴の当日、小碓は少年の髪型で結って、髪を梳きおろし、叔母に授かった衣装に身を変装した。
外見上は女性と変わらないほどであった。
熊襲健の兄弟の二人とも、変装した倭健の乙女姿に人目可愛いと思って、自分たちの間に座らせ、盛んに宴に興じていた。
宴たけなわと言う時に、小碓命は懐中にある剣を取り出し、熊襲健の衣の襟を掴み、剣を健の胸から刺し通した時に、弟健はそれを見るや恐を成して逃げ出した。
小碓命はその室の階下まで追いかけ、弟建の背を捉えて、尻から突き通した。
そこで熊襲健が申すに「どうかその刀を動かさないでください、自分には申したいことがあります」と言った。
すこしだけ許し、押し伏せていた中で熊襲健は「あなた様は一体どなたですか」と言った。そこで小碓命は「我ら纏向の日代宮に居らしゃる、大八島国を統治される、大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王(やまとおとこぐなみこ)である。お前ら熊襲建の二人が、天皇に服従せず、無礼である。天皇はお前たちを殺せと仰せになり、我をお遣わしになった」と言われた。
すると熊襲健は「まさしくそうでありましょう。西の方面では私ども他、勇ましく強い人はいません。ところが大和の国に私どもより強く、勇ましい男がおられたとは。そこで自分の御名前を献上致したく存じます。
今後”倭健御子“と称え、名付けましょう」
小碓命は聞き終わると、熟した蔕の落ちた瓜を切るように、熊襲健を切り裂いて殺しになった。この時以後、お名前を称え申し、倭健命と言うようになった。
そして都に帰られる時には、山の神、河の神と宍戸の神を皆へいてして帰京された。●
☆倭建命の英雄伝の熊襲神話・景行天皇の命で、大和を旅立った、小碓は熊襲の首長クマソタケル兄弟を征伐に向かう。熊襲は隼人と同じ九州の部族と考えられて、大和王朝に服従しなかったのだろうと推測できる。海幸彦、山幸彦の登場の海幸彦ホデリも隼人だとされている。
熊襲もの九州の先住民族として、大和に対抗し不服従しなかったので、景行天皇は武勇に長けた小碓に派遣したのであろう。
畿内から九州の長旅の末に、クマソタケルの館に到着したヲウスは護衛に行く重にも要塞が廻らされては、変装して中に潜入しかなかった。
叔母の貰った衣装が役に立って女装をした。少年のヲウスは女装しても何ら不思議に感じられず、クマソタケル兄弟の部屋に潜入できて、一気に兄のクマソタケルを胸に剣を突き刺すことができた。
『古事記』では近親結婚とか殺戮の場面など、仏教の倫理観に影響されず、自然な状況に描かれている。
クマソタケル兄弟を切り刻み、殺すのは古代の中国でも同じ、根絶やしにをしないと、報復を起こさせないための防御である。
弟のクマソノタケルには剣で尻から突き刺し、串刺しにした。クマソノタケルは今際の際に、名前「倭健」の名を称えて送る。潔さを著している。
以後ヲウスは倭健と名乗った。
☆叔母の倭姫命はイクメイリビコの娘で、伊勢の祭祀を命じられた女性、倭健の節々に助けの手をだす。
☆九州の鹿児島には隼人塚があって幾度となく大和と朝廷と戦いを繰り返したようで、熊襲・隼人塚の二つある。霧島市の塚からは平安時代の石像が出土し、隼人の姿を伝えるものとして注目を集めている。
☆ヤマトタケルの熊襲建の征伐には正攻法の戦いでない。少々卑怯な作戦は勝つことに方法を選ばない。天孫に刃向うの者に対して容赦のない使命を受けている。
「出雲建征伐」
帰京の途中、出雲に入り滞在をした。それはこの地の出雲健を殺そうと思っての事、到着するとすぐに、出雲健と交友関係を結ばれた。そこで密かに赤橋の木で偽物の刀を作り、それを自分の方として身に着け、出雲健と一緒に斐伊川で水浴をした。
倭健は先に川から上がり、出雲健が解いて置いてある太刀を取り上げ身に着けて「太刀を交換しよう」提案された。それで出雲健が川から上がって、倭健命の偽太刀を身に着けた。
すると倭健は挑発し「さあ太刀合わせをしよう」と言われた。めいめいが身に着けた太刀を抜く時に、出雲健は偽物の太刀で抜けなった。
そこで倭健は太刀を抜いて、出雲健を打ち殺してしまった。
そして、御歌って言われるに、
出雲健が、腰に付けた太刀は
蔓ばかり幾重にも巻く飾り鞘 刀身無くして ああおかし
このような うち払い平定して 都に上がって 天皇に申し上げた。
☆倭建命の英雄伝出雲説話・『古事記』に出てくる、武勇伝には姑息であっても、手段を選ばず勝利を治める。勝つための方法の大義名分はあまり重きにおかれない。その点では現実的で自然な対処方法と言えよう。
出雲については近年、『古事記』を通じて、古代の世界で先住民族が大和朝廷と対立し戦って、『古事記』のあるような、国譲りが成立したのではと思われている。
前項に述べたように、荒神谷の遺跡の大発見によってより一層確実になりつつある。
“倭健命の東征”
それから天皇は、重ねて倭健命に「東方の十二か国の、荒れて従わない神と、服従しない人どもを従わせ平定せよ」と仰せになり、吉備臣らの祖先の、名は御鉏友耳建日子を付き添いとして派遣する。また柊の木で作った長矛を、天子の使者である印として授けになった。
この様な帰京して間もない倭健命に荒々しい人どもを撃ちに私を派遣になり、都の帰ってもどれ程の時もおかず、軍隊も下さらず、今度は東方の十二か国の荒々しい人どもに平定にお遣わしになる。
この事から考えても、私を死ねと思われている」と思わず泣きながら退出されて行く時に、倭姫命は草薙ぎの剣を授けて「もしも危急の事があったならば、この袋の解きなさい」と言われた。
この後、倭健は尾張の国に到り、尾張の国造の祖先の、美夜受比売(みやすひめ)の家に入られた。倭健命はその美夜受比売と結婚をしようと思われた。
約束をされ、東国に向かって進まれ、悉く山河の荒々しい、神と服従しない人どもを、言葉で手懐けて平定された。
次に相模の国にお行きになった時には、その国造が、偽って「この野の中に大きい沼があります,そこに住む神はひどく凶暴な神です」と申した。
そこでその神を見ようと、その野の中に入られたら、即座に国造は火を野に放った。
そこで倭健命は騙されたと知って、その叔母の倭比売命(やまとひめみこと)から下された袋の口を解き、その中を覗くと、火打石があった。
そこで草薙ぎの剣で草を刈り払い、その火打ち石で火を起こし、向かえ火で燃え盛る日焼き退けた。やっと野の中から脱出して戻って来られた。
ことごとくその国造らを切り殺し、火を付けて焼いてしまわれた。
今もその地を焼遣ヤキツ(焼津)のかもしれない。
そこから更に東に向かって行き、走水の海を渡る時に、その海峡の神が、波を荒立て、船を旋回させるので、船が前に進めない。
そこで倭健命の后で、名を弟橘比売命(おとうとたちばなひめみこと)が「私が御子の代わりに海に入ります。御子は命ぜられた任務を成し遂げ、天皇に報告なさいませ」と申した。
后が海に入ろうとする時に、菅の畳を八重、皮の畳を八重、絹の畳を八重、それらを波の上に敷いて、その上に下りておいでになった。
すると、その荒立つ波が自然に凪いで、御船は進むことが出来たと言う。
その時に、后が歌っていう。
相模国の小野に
燃えて迫る火の 火の中に立って
わたしの名をお呼びくださったあなたよ
それから、七日経って、后の櫛が浜辺に流れ着いた。その櫛を取り上げ、御陵を造って収めた。
そこからさらに東に入って行き、悉く荒々しい蝦夷どもを手懐けて、また荒々しい山河の神どもを平定し、都へ帰途についている時に、足柄山の坂本に至り、食事を召し上がっている時に、その坂の神が、白い鹿に姿に変えて来て立った。
そこで喰い残しの蒜の一部で、もっと近くに引き寄せて、投げ打ちされると、鹿の目に命中打ち殺した。それから、その坂の頂に登り立ち、三度溜息されて「我が妻よ」と言われた。
それから、その国を名付けて阿豆麻と言うのである。
そして、その国から甲斐国を越え出て、酒折宮に滞在された時に、歌っておしゃる。
新治 筑波と通り過ぎて
幾夜寝たことだろう
すると、お傍で灯し火を焚く老人が、御歌に続けて歌って言う、
日数重ねて 夜は九夜
日は十日でございます
そこでその老人を誉めて東の国造の地位を与えた。
その甲斐から信濃国を越え、信濃の坂の神を懐つけて、尾張国に戻ってきて、先日約束した美夜受比売のもとに入りになられた。
倭健命を迎え、美夜受比売が、御馳走を作り差し上げた時に、酒も捧げ献上をした。ところが美夜受比売は着物の裾に月経の血が付いていたので倭建命は歌われた。
天の香久山の空を
鋭く尖った新月の鎌のような姿で 渡る白鳥
その長くのびた首のように弱く細い たおやかな腕
かき抱きたいと 我はするけれど
共寝をしたいと 我はおもうけれど
あなたが着ておいでの 羽織の裾に
月が出てしまっているとは
そこで美夜受比売は歌に答えていう。
日の神の御子孫
我が大君よ
年が来て過ぎて行くと
月は来て去って行く
まこともっとも当然 あなたを待ちきれないで
わたしの着ている 羽織の裾に
月が出たのでありましょうよ
こうしたことがあって、結婚なさって、倭健命は、その身に帯びていた句薙ぎの剣を、美夜受比売の元に置いて、伊吹山の神を殺しに行かれた。●
☆倭建命の英雄伝の東征説話・倭建命の九州と出雲の征伐は勇ましく凱旋した倭健命に待っていたのは休息ではなく次の征伐と平定の使命であった。
また今回も伊勢の叔母ヤマトヒメに会って、苦しい胸の内と愚痴を聞いてもらい、草薙ぎの剣と急場の袋を貰い受けて、伊勢・尾張国を経て相模国でだまし討ちに遭い国造に悪い神を退治、叔母の急場の袋に助けられ難から逃れた。
こうして東征の行の行程は難なく平定、さらに東に進み走水(浦賀水道)で大嵐に遭遇、船は荒波の翻弄されどうしても前に進まず、同行していた倭建命の妻オトタチバナヒメが、海神を鎮めるために、自ら海に身を投げた。
七日後には浜辺にヒメの櫛が流れ着いた。
倭健命はそれでも曲げず、東国の蝦夷を平定し、東征を終えた。行く先々での節々の出来事に地名が付けられていった。
倭建命の使命は日本各地の平定に繋げた功績は、大和朝廷の確立に寄与した。その反面、西方の熊襲、出雲、東国の蝦夷の先住民族の征服と従属が求められたことだろう。
熊襲、出雲、蝦夷の名称やその扱いは野蛮な民族として、隷民として格差と差別の上に、長い時代の経緯を経て融和をもって、大和民族の統一と言う形で国家形成がなされたのであろう。
倭健命の勇ましい活躍と終末の哀愁に帯びた物語は日本人の感涙の誘うものであった。
また凛々しく、勇猛に戦いに、帰郷の半ばで朽ち果てた倭健の思いに共感を覚え、大和王朝の象徴として賞賛され伝えられてきた。
“思国歌“
このときに「この山の神は素手でも直ぐに殺してくれよう」
と言われて、その山に登ってゆく時に、山の曲り角で、突然白い猪に出遭った。
その大きいこと、そこで倭建命は声高に「この白い猪に姿を変えているのは、山の神の使いだ。今殺さずとも帰りに殺せばよい」と言われて、山を登って行かれた。
すると山の神は雹を降らせ、倭健命を打ち惑わしたのである。
山から戻り下られて、玉倉部の清水に至り着いて、休憩をしている時に、心も少しずつ、覚めて来て、正気に戻られた。そこでその清水に名付けて、居寤(いさめ)の清水と言うのである。
玉倉部から発って、当芸野の辺りに来て「我が心はいつもずっと自由自在に空を飛んで行けた、今我が足は心の欲する様に歩けず、たぎたぎしくなってしまった」と言われた。
その地を当芸と言う。
そこから少し進んだ処で、たいそう疲れた様子で御杖をつき、のろのろとゆっくり行っただけで疲れた様子なので、その地の由来が杖衝坂(つえつきさか)と言う。尾津崎の一本松の下に着かれたところ、以前ここで食事をした時に、そこにお忘れになった御剣が無くならずにそのままあった。そこで歌われた。
尾張国に まっすぐに向かい合っている
尾津崎の 一本松 あまえよ
一本松 おまえが人であったならば
太刀を帯びさせようものを 着物を着せようものを
一本松 おまえよ
そこから行った所に、三重村に着かれた時に、また「我が足は、まめ・たこ・むくみで三重のまがり餅のよう、ひどく疲れてしまった」と言われた。
その名の地名を三重と言う。
そこから少し行くと、能煩野(のぼの)に着かれた時に故郷を思い出して歌われた。
倭は 国ももっとも秀でたところ
重なり合っている山々の 青い垣
山々に囲まれた 倭は すばらしい
また歌って、
命の 無事であった人は
平群のやま
大きな白檮(かし)の葉を
かんざしとして挿しなさい おまえたち
この歌は思国歌である。また歌っておられる。
いとおしい 我が家の方から
雲が立ち渡ってくるよ
これは片歌である。
この時の病気がたいそう急変した、それでも、歌いになられた。
乙女の 床のかたわらに
我が置き残した 太刀
その太刀よ
と歌い終わり、崩御された。そこで早馬の使者を、都の天皇にお届け申し上げた。
白鳥の陵
倭建命の訃報を受けて、大和においでになる后たち御子たちは能煩野に下って来て、御陵を造り、御陵の脇の田を這って、廻って哀しみ声を上げて泣いた。歌って言う。
かたわらの 田の稲の茎に
その稲の茎に 這いからまっている
山芋の蔓よ
そのとき、倭健命の霊魂が、大きな白い千鳥になり、天に飛翔して、浜に向かって飛んでお行きになった。
これを見て、その后と御子たちは、そこの篠竹の刈り株に、足が切り裂かれ手も、その痛みを忘れて、声を上げて泣きながら追った。この時歌ってる。
浅い篠原を行くと 篠竹に腰がとられる
鳥のように空を飛んでは行かれず 足でとぼとぼと行くもどかしさよ
次には、そこの海水に漬かって、よたよた行く時、后と御子たちが歌っていう、
海に入って行くと 海水に腰をとられる
広い河に 生えている水草のように
海では 波にゆらゆらもたつくばかり
また白い千鳥が飛んでその磯に止まっておいでの時に、后と御子たちが歌っていう。
浜の千鳥よ 浜からもう追って行ないので
潮伝いに追いかけることよ
この四首の歌はどれも命のご葬儀に歌った。そしてこれらの歌は天皇の大葬の儀に歌われる。
それから千鳥はその国から飛翔してお行きになって、河内国は志紀にお止りになった。
そこでその地に御陵を造って、鎮座申し上げた。その御陵名付けて白鳥御陵と言う。
しかし倭建命は諸国に巡行なさった時に、久米直の祖先の、名は七拳脛(ななつかはを)が、長い間ずっといつも調理人として従事した。●
☆倭建命の思国の神話・足柄山から甲斐国、信濃国を越えて終わりに辿り着き、往時にミヤズヒメと約束した結婚は、倭健命の美夜受比売との淡い恋の語りを、抒情詩に歌われた心情と客死した倭健のもの悲しい、心境を散文詩的に語り歌われているのは、『古事記』として、歴史的、文学面においても深い価値のある物語である。
甘い恋に酔い浸ったためか、気の緩みか、伊吹山の、山の神の征服に、叔母から授かった草薙ぎの剣を置いて出発した。
倭健命は伊吹山を登る途中に、白い猪に出遭い「帰りに殺せばよいと」軽くあしらった。侮られたと怒った白猪は山の神であった。荒ぶる山の神は雹を降らし、倭健を打ちのめした。
伊吹山の平定に失敗した倭健は、故郷の大和に向かう途中で伊勢国の能煩野に辿り着き「やまとは国のまほろば・・・」と歌いながら息絶えてしまう。
早馬で知った倭健の家族は能煩野にやって来て葬儀を行った。倭健の魂は大きな白鳥になって大空に舞い上がり、懐かしい大和に向かった、やがて河内国は志紀に留まった。
再び大空に舞い上がった白鳥は天高く飛んで行った。
河内の羽曳野に白鳥陵があって、再び舞い降りたとされる、大鳥神社が和泉国に説話があって、大和王朝の英雄の伝説は、大和・河内に広く伝わっている。
倭健の「やまとは国はまほろば」と思いを馳せた大和は日本人の根源とされる所以である。
◎大和はくにのまほろばの語源は、倭建の大和への望郷を念から発したのだろう。
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